戦車戦 春秋時代の戦い
- 2018/12/08 18:55:56
中国春秋時代(紀元前8世紀頃~紀元前5世紀頃)の戦争は戦車戦です。
戦車(チャリオット*)は、殷時代の後期に中国に伝わったと考えられています。
最初2頭立てだった戦車も、春秋時代には4頭立てになっていました。
乗員は3名で、御者のほかに2人の戦士が乗っていました。
御者の右後ろには車右(しゃゆう)という戦士が
檄(げき)という長い柄の先に刃が付いた兵器を持って戦いました。
御者の左後ろには車左(しゃさ)という戦士が
弓矢を持って戦いました。(車左はこの戦車と支援部隊全体の指揮官です)
この2人の戦士は立って乗っていたのです。
空気タイヤもなく、サスペンションもない戦車に立って乗るのは
大変だったと思われます。
これらの乗員3名は、すべて貴族階級の人たちでした。
各国の戦力は戦車の数で表現されていました。
1台の戦車を動員するためには
支援する歩兵部隊や彼らの食事や馬の世話をする輜重隊を
合わせて少なくとも数十人、多く推定する人は200人もの
部隊がいたといいます。
それらの人々は、戦力の数に入れられていなかったのです。
この時代の戦いは、貴族階級のものであり
身分制秩序が固く守られていたのです。
では、戦車戦ではどういう戦いが行われていたのでしょう。
戦車は平らな地面でなければ、有効に運用することが出来ません。
広い平原で両軍が対峙し、戦車部隊は横に長く広がります。
そして両軍の戦車が突進し、敵味方2台の戦車がすれ違いざまに
互いの車右が檄を振り回して渡り合う。
というのが典型的な戦車戦の姿です。
このように戦車戦の主役は車右なのです。
戦車戦は、春秋時代最も華々しく行われていましたが
次の戦国時代には、次第に衰退していくことになります。
そして、漢代には全く見られなくなりました。
戦車の時代は終わってしまったのです。
*現代の戦車はタンクと言う。
チャリオットとタンクは日本語に訳した時
どちらも戦車となっているが全く別物である。
日本は平原がないし、人口も少なかったので使われなかったんですかね。そもそも弥生時代には馬もさほどいなかったようだし(骨が出土したことはあるようですが)・・・
エジプトもチャリオットにかんしては奥手でした。
エジプトにチャリオットを持ち込んだのはアジアからやってきた
ヒクソスだったと考えられています。
そのヒクソスを追い出して成立したエジプト新王国時代には
チャリオットが使われるようになりました。
しかし、エジプトのチャリオットは歩兵を支援するものであり主力兵器
ではありませんでした。
チャリオットからの転落による事故が死因という説をやってて、
ずいぶん古くから使われてるなと思うし、
いろんな物の起源も興味深くて調べたりもする。
そうですね、中国でもこの後の戦国時代になると
戦争の主体は歩兵に取って代わられていますね
戦争の規模が大きくなると戦車では、数が揃えられなくなったからです。
洋の東西に関わらず同じような理由で戦闘携帯が変わったのですね
オーナーありがとうございます♪
中国では、秦の始皇帝が連弩を使ったという記録があります。
しかし、それがどういう兵器だったかというと主に2つの説があります。
1つは、一度に多数の矢を放つというもの
もう一つは、連射式の弩であったというものです。
あるいは両方ともあったのかもしれません
いずれにしろ、当時としてはとんでもない兵器だったことでしょう。
相互に交流があったのかは不明ですが洋の東西を問わず同様の装備があったというのは
それだけの合理性があったということだと思います
歴史的にはチャリオットはより頑強で地形を選ばずそして安価な(重装)歩兵に取って代わられるのですが
その結果戦争の大衆化?と大規模化へと繋がって行きます
(ローマなどの重装歩兵も有産階級でしたがチャリオットよりはずっと安価に維持でき、
そのためより多くの人間が装備そして戦闘に参加可能になったということ)
中国は、少し奥手ですけどね
そのため、最初から完成度の高いチャリオットとなっていました。
当時の中国人にとってチャリオットはステータスシンボルだったようで
お墓にも副葬品として馬ごとチャリオットが埋葬されていました。