読書生活報告トピ 20冊め
- 2024/04/25 20:02:59
投稿者:ヘルミーナ
読んだ本や著者、かんたんな感想や評価を書き込むトピです。
基本的には各自ブログで書き込むのですが、
ブログでは恥ずかしい方は感想もこちらへどうぞ。
本に関係する雑談などもこちらで好いかと思います。
思いっきり話題がそれまくりでなければふつうの雑談も好いかと。
(前トピが埋まったら使ってくださいね)
読んだ本や著者、かんたんな感想や評価を書き込むトピです。
基本的には各自ブログで書き込むのですが、
ブログでは恥ずかしい方は感想もこちらへどうぞ。
本に関係する雑談などもこちらで好いかと思います。
思いっきり話題がそれまくりでなければふつうの雑談も好いかと。
(前トピが埋まったら使ってくださいね)
タイトルどおり、シナリオ・センターの方法、わたしはけっこう難しそう、と一読後思いました。この本を活用できる方はそもそもこういう本不要なんじゃ? というぐらい(は言い過ぎかな……)。
とはいえ、この本を一回通読程度というのは、いってみればこのシナリオ・センターの講義をすべて受講したわけじゃないぐらいなのでしょうから、一読程度であれこれ言えないのかもしれません。
付録についている「『物語の姿』いっき見! カード」にまとめられたシナリオ・センターの極意を把握できればたぶん困らないと思います。
例えば大塚英志先生でも、絓秀実+渡部直己両先生でも、一度読んで終わり、じゃないですからね。本当に何度でも読んじゃう。
で、シナリオ・センターを立ち上げた新井一先生によると、「(シナリオ・センターで)20枚シナリオを50本、わずか1000枚書いてくれればプロの腕にしてみせるよ」とおっしゃってたようで……20枚(8,000字)の作品といったら妄コンがまさにそうじゃないですか……!
やはりまずは「『物語の姿』いっき見! カード」の把握でしょうかね……。
本書で、現代に至るまで、問題となる「イデア(論)」がでてきます。たとえば猫、っていったときに小さい動物で四本足でにゃあにゃあ鳴く生き物、と想起するように。そこではたとえばハチワレ模様とかキジトラちゃんとかそういうのは抜きにして、頭のなかでは、「とにかくたしかに『猫』としか思えない」想起の元、みたいなものですね>イデア
それにしても、当時のクソみたいな法律で死刑を宣告され、文字通り毒杯をあおる直前までのソクラテスの哲学者としての態度。「正しく哲学している人々は死ぬことを練習しているのだ」。なぜか。魂は不滅ですから。
その魂の不滅について、死を前にして弟子たちにこんこんと哲学の極みを聞かせてあげるソクラテスの凛とした態度。
むしろ、ソクラテスは肉体こそが魂にとって邪魔なものである的な発言までします。
じつはかなり昔にこの本を読んでいて、再読だったのですが、はっきりいってプラトンの鋭さ、イデア論の萌芽にしびれました。難解な哲学でもないし、本のお値段も経済的、これはお勧めです。
あいかわらず鋭い映画へのツッコミと愛。というか、もちろんやっぱり知らない監督や作品が多く、蓮實先生がなんといおうがこれはちょっと観てみたい、という映画が多いです。
けっこう傑作とまでいう映画は少ないんですよ>本書に出てくる映画。
もちろんわたしもすでに観た作品でもそう。わたしが好きでも蓮實先生が高評価じゃない作品もけっこう多いです。
なので、この本の読みどころをひとつ上げろと言われたら、エリック・ロメールが『カイユ・デュ・シネマ』誌で、ジャック・ベッケルの『モンパルナスの灯』を中平康の『狂った果実』より下位に置いていたのを読んでついカッとなり、「こいつは絶対殺してやる」と思った、と書いてあるところでしょうw(128ページ)
しかもこの人殺し映画論w的にはどうも「殺人リスト」があるという……。80歳を超えているのにこの怪気炎、蓮實先生、最高です。
というのも、やはり「カルト映画」と呼ばれるような作品なんかは、好きなカルト映画をへんに批評家を気取って軽々しく評論されると、やっぱり「絶対殺してやる」なんですよ……。
なので蓮實先生のこの気持ちはわかります。
食べ物とカルト映画は、この「軽々しくどうこう言われると」感が強いような気がしますね。
あとはそうそう、蓮實重彦先生は「シネフィル」という言葉がたいへんお嫌いらしく、わたしもちょっと軽々しく使っている節もあり、以後、普通に映画ファンとかそんな感じの言葉にします。
シネフィルとかオーディオフィル、とかいうときの「フィル」はもともと「なんとかフィリア」という語で、異常性愛なんかの名前に使われる言葉なんです。
たとえば死体性愛なんかはネクロフィリア、といいます。
蓮實先生がなんでお嫌いなのか、理由は書かれておりませんが、わたしなりにつらつら考えて、これだからいかんのかな……と。
図書館で借りた本を読了しました。
カヤックでドナウ川を、
河口まで下った体験を綴ったものです。
以前に著者がラジオでインタビューに答えており、
天真爛漫そうな女性だなと感じたのですけど……
いろいろ苦労を重ねてきてるんですよ。
書いたものを読んでみると。
一見、一聴しただけの印象で、
ひとを決めつけてはいけませんね。
わたしはテレビの旅番組とか国際ニュースとか、好きでよく観ます。
ただ、この本で書かれている世界は、
あきらかにテレビに出てくるものとは違いました。
地べたの視点っていうか、この場合は水面からの視点になるのかな。
夏場のドナウ川は蚊がとてつもなく多く、
半端なく鬱陶しい思いを強いられるそうです。
蚊を避けるために冬場に川下りを始めたという、
ドイツ人のおじさんが登場するくだりも。
たしか米原万理さんのものだったかな。
以前に読んだ本では
「東欧ではアジア人差別が酷い」
と書かれていたのですけど……
「中欧から東欧に入ると、人がフレンドリーになる」と、この本にはあります。
時代やタイミング、
旅人の資質などによって受ける印象は変わるのでしょうね。
著者のバイタリティはとても真似できませんけど!
失敗を怖れず隠さず好奇心を抑えこまない、
まっすぐな気質が素敵です。
> 人生は良い時もあれば悪い時もあるので、
> いちいちひとつの出来事に感傷的になりすぎないようにしている。
この言葉は含蓄が深いですね。
著者の前著『ホームレス女子大生 川を下る』も読んでみたくなりました。
いやもうこれは変な本、奇書、ナンセンス文学の極北……としかいいようがないでしょう……。
本書の帯には、「炸裂する黒いプードル爆弾、二人のダンシング・ガールズ、天才少年の秘められた数式ノート、そして缶詰サーディンの謎……ポーランドの前衛作家による奇妙奇天烈な哲学ノヴェル!」とあって、これだけで魂が震えてきてしまうような方にはぜひお勧めしたい……!
ちなみにドーキー・アーカイヴの企画を横山茂雄先生と一緒に進めておられる若島正先生はやはり帯で「行間を読んではいけない」と書かれてます。
これはけっこう本書を楽しむときに重要で、本書ではバカバカしいネタから不条理やら哲学っぽいものやらやたら登場するのですが、たとえば詩のような「意味」がどこか深くにある、わけじゃありません。
蓮實重彦先生の作品じゃないけれど、徹底的に本書は「表層」しかないんですね。
どうも解説によると、詩の意味性、神秘性などに、さまざまなイデオロギーの道具に堕してしまうことを憎んでいたようで、本書の反意味論的な文章は、「物語」や「言語」の保つポエジーを剥ぎ取ることにあったと……。
同じく国書刊行会から出ている、ウラジーミル・ソローキンがお好きな方ならハマるはず。ソローキンが文学オブジェというのなら、『缶詰サーディンの謎』もこれも文学オブジェと言ってよいかも。ソローキンのようにもう「文学」をズタズタにしてはいないけれども……でも表層だけを楽しめ! という意味ではテメルソンもなかなか文学オブジェかもしれません。
「寅さん」一四年間の真実』
祥伝社黄金文庫 2019年
(初出は2003年 祥伝社刊『渥美清 晩節 その愛と死』文庫化にあたり改題)
図書館のリユース文庫から頂戴してきた一冊です。
非常に読みやすく半日かからないで読了できました。
映画『男はつらいよ』で寅さんを演じた渥美清さんの、
元付き人の手になる回想記です。
わたしの家から自転車で行ける場所に、
松竹撮影所の遺構があります。
いまは女子大のキャンパスになり当時のおもかげは皆無です。
わたしが小さかったころは撮影所が稼働しており
『男はつらいよ』もここで撮られていました。
身近な場所で作られていた映画なので、
いささかの愛着めいたものを感じます。
数日前に新聞の広告で監督の山田洋二さんが
「無知で愚かな寅さん」と言明してまして。
わたしは失笑させられたのですけど……
単純素朴な寅さんと対照的に渥美さんは読書家で、
ブレヒトなども手に取っていたとあります。
同時に複雑なエゴの持ち主だったようです。
基本的には穏やかな紳士で、
付き人の失敗にも乱暴な態度は取らなかったのだとか。
世話になった相手は徹底して大事にする、
義理堅い人物でもあったそうです。
浅草の演芸場での同僚だった関敬六さんに、
お金をごまかされても知らないふりしていた……と。
わたしケチだから真似できませんw
渥美さんが結核を患った若いころ、
高価なペニシリンを調達してくれた恩人が関さんなんだって。
晩年の渥美さんは尾崎放哉に傾倒してお墓参りにも行き、
演じてみたいと口にしていたといいます。
誰もが知る国民的大スターになってしまうと、
裏側の重圧も桁違いだったみたいですね。
末期癌の病身を押しての撮影など、
こんにちでは考えられないエピソードも。
よく「英雄を欲する時代は不幸だ」と言われます。
国民的なスターがいた昭和は大きなもの強いもの、
威張っているものばかりに都合のいい社会でした。
わたしは昭和が心底から大嫌いです。
つくづく最低だと思います。
ああいう世の中には二度と戻ってほしくありません。
スターを求める時代も不幸なものだと、しみじみ思います。
「寅さん」一四年間の真実』
祥伝社黄金文庫 2019年
(初出は2003年 祥伝社刊『渥美清 晩節 その愛と死』文庫化にあたり改題)
図書館のリユース文庫から、きのう頂戴してきた一冊。
ピカピカの美本で読まれた痕跡なさそう。
非常に読みやすく半日かからず読了できました。
わたしの家から自転車で行ける場所に、
松竹撮影所の遺構があります。
いまは女子大のキャンパスになり当時のおもかげは皆無です。
わたしが小さかったころは撮影所が稼働しており
『男はつらいよ』もここで撮られていました。
身近な場所で作られていた映画なので、
いささかの愛着めいたものを感じます。
本は、寅さんを演じた渥美清さんの、
元付き人の手になる回想記です。
数日前に新聞の広告で監督の山田洋二さんが
「無知で愚かな寅さん」と言明してまして。
わたしは失笑させられたのですけど……
単純素朴な寅さんと対照的に渥美さんは読書家で、
ブレヒトなども手に取っていたとあります。
同時に複雑なエゴの持ち主だったようです。
基本的には穏やかな紳士で、
付き人の失敗にも乱暴な態度は取らなかったのだとか。
ひとたび世話になった相手は徹底して大事にする、
義理堅い人物でもあったそうです。
浅草の演芸場での同僚だった、
関敬六さんが映画に出演できるよう口をきいてあげたんだって。
関さんにお金をごまかされても知らないふりをしていた、とも。
わたしケチだから真似できないなー。
晩年の渥美さんは尾崎放哉に傾倒してお墓参りにも行き、
演じてみたいと口にしていたといいます。
誰もが知る国民的大スターになってしまうと、
裏側の重圧も桁違いだったみたいですね。
末期癌の病身を押しての撮影など、
こんにちでは考えられないエピソードも。
よく「英雄を欲する時代は不幸だ」と言われます。
国民的なスターがいた昭和は大きなもの強いもの、
威張っているものばかりに都合のいい社会でした。
わたしは昭和が心底から大嫌いです。
つくづく最低だと思います。
ああいう世の中には二度と戻ってほしくありません。
スターを求める時代も不幸なものだと、しみじみ思います。
祥伝社黄金文庫 2019年
(初出は2003年 祥伝社刊『渥美清 晩節 その愛と死』文庫化にあたり改題)
図書館のリユース文庫から、きのう頂戴してきた一冊。
ピカピカの美本で読まれた痕跡なさそう。
非常に読みやすく半日かからず読了できました。
わたしの家から自転車で行ける場所に、
松竹撮影所の遺構があります。
いまは女子大のキャンパスになっており、
当時のおもかげは皆無です。
わたしが小さかったころは撮影所が稼働しており
『男はつらいよ』もここで撮られていました。
身近な場所で作られていた映画なので、
いささかの愛着めいたものを感じます。
本は、寅さんを演じた渥美清さんの、
元付き人の手になる回想記です。
数日前に新聞の広告で、監督の山田洋二さんが
「無知で愚かな寅さん」と言明してまして。
わたしは失笑させられたのですけど……
単純素朴な寅さんと対照的に渥美さんは読書家で、
ブレヒトなども手に取っていたとあります。
同時に複雑なエゴの持ち主だったようです。
基本的には穏やかな紳士で、
付き人の失敗にも乱暴な態度は取らなかったのだとか。
ひとたび世話になった相手は徹底して大事にする、
義理堅い人物でもあったそうです。
浅草の演芸場での同僚だった、
関敬六さんが映画に出演できるよう口をきいてあげたんだって。
関さんにお金をごまかされても知らないふりをしていた、とも。
わたしケチだから真似できないなー。
晩年の渥美さんは尾崎放哉に傾倒してお墓参りにも行き、
演じてみたいと口にしていたといいます。
誰もが知る国民的大スターになってしまうと、
裏側の重圧も桁違いだったみたいですね。
末期癌の病身を押しての撮影など、
こんにちでは考えられないエピソードも。
よく「英雄を欲する時代は不幸だ」と言われます。
国民的なスターがいた昭和は大きなもの強いもの、
威張っているものばかりに都合のいい社会でした。
わたしは昭和が心底から大嫌いです。
つくづく最低だと思います。
ああいう世の中には二度と戻ってほしくありません。
スターを求める時代も不幸なものだと、しみじみ思います。
祥伝社黄金文庫 2019年
図書館のリユース文庫から、きのう頂戴してきた一冊。
ピカピカの美本で読まれた痕跡なさそう。
非常に読みやすく半日かからず読了できました。
わたしの家から自転車で行ける場所に、
松竹撮影所の遺構があります。
いまは女子大のキャンパスになっており、
当時のおもかげは皆無です。
わたしが小さかったころは撮影所が稼働しており
『男はつらいよ』もここで撮られていました。
身近な場所で作られていた映画なので、
いささかの愛着めいたものを感じます。
本は、寅さんを演じた渥美清さんの、
元付き人の手になる回想記です。
数日前に新聞の広告で、監督の山田洋二さんが
「無知で愚かな寅さん」と言明してまして。
わたしは失笑させられたのですけど……
単純素朴な寅さんと対照的に渥美さんは読書家で、
ブレヒトなども手に取っていたとあります。
同時に複雑なエゴの持ち主だったようです。
基本的には穏やかな紳士で、
付き人の失敗にも乱暴な態度は取らなかったのだとか。
ひとたび世話になった相手は徹底して大事にする、
義理堅い人物でもあったそうです。
浅草の演芸場での同僚だった、
関敬六さんが映画に出演できるよう口をきいてあげたんだって。
関さんにお金をごまかされても知らないふりをしていた、とも。
わたしケチだから真似できないなー。
晩年の渥美さんは尾崎放哉に傾倒してお墓参りにも行き、
演じてみたいと口にしていたといいます。
誰もが知る国民的大スターになってしまうと、
裏側の重圧も桁違いだったみたいですね。
末期癌の病身を押しての撮影など、
こんにちでは考えられないエピソードも。
よく「英雄を欲する時代は不幸だ」と言われます。
国民的なスターがいた昭和は大きなもの強いもの、
威張っているものばかりに都合のいい社会でした。
わたしは昭和が心底から大嫌いです。
つくづく最低だと思います。
ああいう世の中には二度と戻ってほしくありません。
スターを求める時代も不幸なものだと、しみじみ思います。
祥伝社黄金文庫 2019年
図書館のリユース文庫から、きのう頂戴してきた一冊。
ピカピカの美本で読まれた痕跡なさそう。
非常に読みやすく半日かからず読了できました。
わたしの家から自転車で行ける場所に、
松竹撮影所の遺構があります。
いまは女子大のキャンパスになっており、
当時のおもかげは皆無です。
わたしが小さかったころは撮影所が稼働しており
『男はつらいよ』もここで撮られていました。
身近な場所で作られていた映画なので、
いささかの愛着めいたものを感じます。
本は、寅さんを演じた渥美清さんの、
元付き人の手になる回想記です。
数日前に新聞の広告で、監督の山田洋二さんが
「無知で愚かな寅さん」と言明してまして。
わたしは失笑させられたのですけど……
単純素朴な寅さんと対照的に渥美さんは読書家で、
ブレヒトなども手に取っていたとあります。
同時に複雑なエゴの持ち主だったようです。
基本的には穏やかな紳士で、
付き人の失敗にも乱暴な態度は取らなかったのだとか。
世話になった相手は徹底して大事にする、
義理堅い人物でもあったようです。
浅草の演芸場での同僚だった、
関敬六さんが映画に出演できるよう口をきいてあげたんだって。
関さんにお金をごまかされても知らないふりをしていた、とも。
わたしケチだから真似できないなー。
晩年の渥美さんは尾崎放哉に傾倒してお墓参りにも行き、
演じてみたいと口にしていたといいます。
誰もが知る国民的大スターになってしまうと、
裏側の重圧も桁違いだったみたいですね。
末期癌の病身を押しての撮影など、
こんにちでは考えられないエピソードも。
よく「英雄を欲する時代は不幸だ」と言われます。
国民的なスターがいた昭和は大きなもの強いもの、
威張っているものばかりに都合のいい社会でした。
わたしは昭和が心底から大嫌いです。
つくづく最低だと思います。
ああいう世の中には二度と戻ってほしくありません。
スターを求める時代も不幸なものだと、しみじみ思います。
祥伝社黄金文庫 2019年
図書館のリユース文庫から、きのう頂戴してきた一冊。
ピカピカの美本で読まれた痕跡なさそう。
非常に読みやすく半日かからず読了できました。
わたしの家から自転車で行ける場所に、
松竹撮影所の遺構があります。
いまは女子大のキャンパスになっており、
当時のおもかげは皆無です。
わたしが小さかったころは撮影所が稼働しており
『男はつらいよ』もここで撮られていました。
身近な場所で作られていた映画なので、
いささかの愛着めいたものを感じます。
本は、寅さんを演じた渥美清さんの、
元付き人の手になる回想記です。
数日前に新聞の広告で、監督の山田洋二さんが
「無知で愚かな寅さん」と言明してまして。
わたしは失笑させられたのですけど……
単純素朴な寅さんと対照的に渥美さんは読書家で、
ブレヒトなども手に取っていたとあります。
同時に複雑なエゴの持ち主だったようです。
基本的には穏やかな紳士で、
付き人の失敗にも乱暴な態度は取らなかったのだとか。
晩年の渥美さんは尾崎放哉に傾倒してお墓参りにも行き、
演じてみたいと口にしていたといいます。
誰もが知る国民的大スターになってしまうと、
裏側の重圧も桁違いだったみたいですね。
末期癌の病身を押しての撮影など、
こんにちでは考えられないエピソードも。
よく「英雄を欲する時代は不幸だ」と言われます。
国民的なスターがいた昭和は大きなもの強いもの、
威張っているものばかりに都合のいい社会でした。
わたしは昭和が心底から大嫌いです。
つくづく最低だと思います。
ああいう世の中には二度と戻ってほしくありません。
スターを求める時代も不幸なものだと、しみじみ思います。
松本卓也先生の『享楽社会論』(人文書院刊)を読み終えました。
本書はジャック・ラカンの精神分析の、後期ラカンの思考や理論、その実践などから書かれてます。それほど難しくはありません。本書からラカンに入ってもいい感じです。
いきなりですが、人は「言語」を抜きにして人間はものや自然と向き合うことはできません。
その、言語による、ものや自然との窓口みたいのをラカンは「象徴界《サンボリック》」と呼ぶのですが、本書でけっこうびっくりしたことは、ラカンがはじめてこの「象徴界」の概念を提唱したときに比べ、現代人はこの「象徴界」が衰退しているのではないか、という説でした。
そして、今、精神分析や心理学であたりまえのことのように使っている人の精神についての理論なども、フロイトが診た十九世紀末から二十世紀初頭までのヨーロッパでしか成立できないものではないか、と。
そして、ラカンが見抜いた現代資本主義下の命令、「享楽せよ」、これがまあ本書の通奏低音なのですが、たとえば……あまりこういう括り方や表現は好きではないのですが……Z世代の向かう先が「映画(マニア)」だったりしますよね。
なんで映画なのだろう、とか、なんでここまで小説を書きたいと思う人が多いのだろうとは思ってましたが、とにかくなにかしらマニアックになりたいという欲望だけが加速させられているのですね。
ある時期までのラカンの思想には、絶対にたどり着けない「対象a《アー》」という概念があったのですが、後期ラカンや本書著者によると、現在ではその「対象a」が映画に等しくなる、と。
当然、「享楽せよ」との命令下にあるので、タイム・パフォーマンス云々という話になってしまう。ファスト映画とか映画好きとしては唾棄すべきものでも平気で観ちゃう、とか。
ちなみに本書では、「恥」の心情の低下、という現象も考察されています。「恥」は「他者」がいてのもの。その「他者」性もまた低下しているのです。ファスト映画でも~という人にはこういう「他者性」も低下しているのでしょうね。
なお、表紙のフェリシアン・ロップス描く「ポルノクラテス」という絵画作品でジャケ買いするのもありb わたしもロップス画集欲しくなりました。
これ以降でジュネの特集は二回あったのですが、たぶんこれで『ユリイカ』のジュネ特集はフルコンプでしょう。
ジュネの特集に関しては、もう文句ないです。ジュネのファンブックみたいになっていて、ミーハーなわたしにはそのファンブックっぷりが嬉しい。
驚きなのが’76年ですから、まだジュネも御存命で、なおかつまだパレスチナやブラック・パンサーと接触を持っていない頃のなんですね。
また、ジュネの戯曲家時代だったせいもあって、たとえば傑作の『女中たち』の詳細な解説とかが載っていたりもするのです。ちなみに、『女中たち』は『バルコン』と2in1になって岩波文庫から2010年に文庫で読めるようになりました。
けっこうすぐ品切れになったので、見つけた方は買っておくといいですよb
さて、ジュネ御本人様のインタビューも含め、内容そのものもけっこう豪華執筆陣です。なんせミシェル・ビュトール、寺山修司、ロラン・バルト、ジャック・ラカン、磯田光一、朝吹三吉……と。
ラカンなんかまだ知られてない時代だったのか、人物説明までありました。
けっこう執筆者が多いせいか、それとも当時の『ユリイカ』の編集方針なのか、比較的一人ひとりの割当ページが短いのも読みやすく、かついろいろな視点から楽しめました。絵本作家でもある飯野和好の表紙画も素敵。
相変わらず勉強になるよい本に加えて、「自称」知識人どもを実名あげて叩きまくり斬りまくるのがたまりません!!
たとえば「階梯《かいてい》」という言葉。意味は入門書だというのです。文字通りの意味では(梯子段《はしごだん》)。転じて、「初歩」「入門書」の意味になったのだとか。
これ、白状するとわたしも「はしご」の高級な言い方だと思って誤用したことがあります。
というのも、問題はときどきあるけども好きな宗教学関連の著作家に中沢新一がおり、彼の著作に『虹の階梯』という本があるからです。ですので、上記したように『虹の階梯』という書名は、中身が光学や気象学でないとおかしいわけです。
さらに白状すると、わたしは「やおら」の意味も間違って使ってました。
この言葉、「突然に」みたいなニュアンスは本来ありません……! 「やわらか」が語源の単語なので、「ゆっくりと」という意味だそうです。
あとはこれわたしは知っておりましたが、人名に「創」というのもびっくらポンの意味だったりします。これ、原義は「きず」ですよ。
創造、みたいないい言葉があるのでそこからつけたお名前なのでしょうが、「創」のツクリは「刃」だというのです。材木を切って燃料や家具でも創るところから「創造」だと考えれば腑に落ちると思います。
それにしても呉先生の『言葉の診察室』、4巻まで読んでしまい、なにかこう寂しい気が。さらに出してくれないかしら?
図書館で借りました。
『ルビーが詰まった足』に続く、
ジョーン・エイキンの短編集です。
『月のケーキ』から数えて三冊目ね。
今回も安定して死臭が漂う素敵な一冊です。
怖がんなくて、いいのよ?
エイキンさんの凄いとこ。
死の気配を消し難いのに関わらず、
ユーモラスだったりポジティヴだったりするんですよ。
グリム童話なんかの世界に近いかも。
叙述はリアリステイックで現代的なんだけど。
ひとはあっけなく死んだり殺されたり。
幽霊とか妖精とか超自然も、あたりまえに登場します。
英国流マジック・リアリズム、かな?
冒頭に置かれた「ロブの飼い主」。
これアカンね。
もう掟破りっていうか犬を出してきた時点で。
ええ、わたしは眼科の待合で涙腺ヤられましたw
融通のきかない官僚主義への皮肉と、
ファンタジーを見事に結びつけた「携帯用エレファント」。
昔話によくある誘拐譚を、
皮肉っぽく換骨奪胎してみせた「よこしまな伯爵夫人に音楽を」。
老境のエイキンが本心を込めたとおぼしき「足の悪い王」。
ケーキ屋の開業をめざす実務家が、
思いもかけない出会いに恵まれる「ワトキン、コンマ」。
……などなど。
いずれも優れた短編です。
フェアリー・テイルの水脈が、
いまだ活力を失っていないことを実感させられます。
デリダは植民地支配下でのアルジェリアに生まれ、〈フランス-マグレブ-ユダヤ人〉として、フランス語を「母語」として育ちました。
ですが、その母語が「自分のものではない」という体験を味わっているのです。そこからはじまる、言語、文化的アイデンティティ、翻訳、政治……についての脱構築的アプローチ。
読む者は知らぬあいだにデリダが罠のように仕掛けた「脱構築」のなかに絡み取られ、とりわけ、さまざまな意味での植民地支配という概念をいつのまにか見事に組み替えられてしまってます。
この地球上では支配的な言語に服従しないと生きてゆけない、あるいはよりよく生きてゆけない人々がおり、そういった人々は母語を捨て去らざるを得ません。
たとえば、植民地での支配。支配者は現地の人間に、支配者の言語を叩き込みます。それは当然、農業や牧畜などの仕事へ支配者からの命令を伝達しないといけないからです。
デリダはこういった事態そのものを糾弾してはいないんです。
むしろ著作を読む行為そのものが、いつのまにか読み手を支配者の論理に引っぱってきたり、逆に被支配者の言語と経済的問題への悲しみに浸らせたり……。
それにしても、本書を一度読んだだけでは、デリダといえば「脱構築」、この意識や精神や言語を知らないうちに組み替える哲学的操作……に慣れないかと思います。
屋根裏から出てきた本です。
二十世紀前半に活動したイギリスの小説家、
ロナルド・ファーバンクによる短編。
古いお城で叔母や乳母と暮らす少女オデット。
聖母マリアに憧れ、
美しいものに囲まれて静かに暮らしています。
真夜中の薔薇園へさまよい出たオデットは、
ひとりの見知らぬ女と遭遇することに。
作中で明記はされていませんけど、
オデットの出会う女は貧しい娼婦のようです。
人生に打ちひしがれた女の痛々しい様子と、
刺々しい態度にオデットはとまどいながらも……
世界の理不尽さの一端を、
美しいものしか知らなかった少女が垣間見ることに。
ただし残酷なお話ではなく優しさが心に残ります。
特筆すべきは全編にあしらわれた山本容子さんの版画の美しさ!
あちこちに顔を出す動物たちの、
愛嬌あふれる表情がたまりません。
図書館で借りては延長を繰り返し、
三カ月くらい手もとに置いちゃってる、
この本をようやっと!読了できました。
まず活字が小さいのが痛かったです。
さらに内容がアホのわたしには難しいw
いちおう学生時代に勉強したはずなんですけど、
ほぼ完璧に記憶から脱落してるんですよ、民法。
ほかの法律もですけどw
一般向けに噛みくだいて、
民法の歴史や特徴や問題点ひいては、
おもしろさを教えてくれるんですけど……
民法をその趣旨に沿うかたちで、
広く一般に開いていこうとする、
著者の姿勢は誠実で好感の持てるものと思いました。
決して連帯保証人になってはいけない理由とか、
日本の民法を輸出するべきではない理由とか。
役に立つ話、勉強になる話いろいろ。
わたしは会社絡みの話を飛ばしてしまいましたけど、
生きているかぎり、どこかで必ず関わりを持つ法律です。
この本を一読しておいて損はないと思います。
屋根裏から出てきた本です。
二十世紀前半に活動したイギリスの小説家、
ロナルド・ファーバンクによる短編。
古いお城で叔母や乳母と暮らす少女オデット。
聖母マリアに憧れ、
美しいものに囲まれて静かに暮らしています。
真夜中の薔薇園へさまよい出たオデットは、
ひとりの見知らぬ女と遭遇することに。
作中で明記はされていませんけど、
オデットの出会う女は貧しい娼婦のようです。
人生に打ちひしがれた女の痛々しい様子と、
刺々しい態度にオデットはとまどいながらも……
世界の理不尽さの一端を、
美しいものしか知らなかった少女が垣間見ることに。
ただし残酷なお話ではなく優しさが心に残ります。
特筆すべきは全編にあしらわれた山本容子さんの版画の美しさ!
あちこちに顔を出す動物たちの、
愛嬌あふれる表情がたまりません。
図書館で借りては延長を繰り返し、
三カ月くらい手もとに置いちゃってる、
この本をようやっと!読了できました。
まず活字が小さいのが痛かったです。
さらに内容がアホのわたしには難しいw
いちおう学生時代に勉強したはずなんですけど、
ほぼ完璧に記憶から脱落してるんですよ、民法。
ほかの法律もですけどw
一般向けに噛みくだいて、
民法の歴史や特徴や問題点ひいては、
おもしろさを教えてくれるんですけど……
民法をその趣旨に沿うかたちで、
広く一般に開いていこうとする、
著者の姿勢は誠実で好感の持てるものと思いました。
決して連帯保証人になってはいけない理由とか、
日本の民法を輸出するべきではない理由とか。
役に立つ話、勉強になる話いろいろ。
わたしは会社絡みの話を飛ばしてしまいましたけど、
生きているかぎり、どこかで必ず関わりを持つ法律です。
この本を一読しておいて損はないと思います。
三カ月くらい手もとに置いちゃってる、
標題の本をようやっと!読了できました。
まず活字が小さいのが痛かったです。
さらに内容がアホのわたしには難しいw
いちおう学生時代に勉強したはずなんですけど、
ほぼ完璧に記憶から脱落してるんですよ、民法。
ほかの法律もですけどw
一般向けに噛みくだいて、
民法の歴史や特徴や問題点ひいては、
おもしろさを教えてくれるんですけど……
民法をその趣旨に沿うかたちで、
広く一般に開いていこうとする、
著者の姿勢は誠実で好感の持てるものと思いました。
決して連帯保証人になってはいけない理由とか、
日本の民法を輸出するべきではない理由とか。
役に立つ話、勉強になる話いろいろ。
わたしは会社絡みの話を飛ばしてしまいましたけど、
生きているかぎり、どこかで必ず関わりを持つ法律です。
この本を一読しておいて損はないと思います。
池田 真朗 『民法はおもしろい』 講談社現代新書 2021年
図書館で借りては延長を繰り返し、
三カ月くらい手もとに置いちゃってる、
この本をようやっと!読了できました。
まず活字が小さいのが痛かったです。
さらに内容がアホのわたしには難しいw
いちおう学生時代に勉強したはずなんですけど、
ほぼ完璧に記憶から脱落してるんですよ、民法。
ほかの法律もですけどw
一般向けに噛みくだいて、
民法の歴史や特徴や問題点ひいては、
おもしろさを教えてくれるんですけど……
民法をその趣旨に沿うかたちで、
広く一般に開いていこうとする、
著者の姿勢は誠実で好感の持てるものと思いました。
決して連帯保証人になってはいけない理由とか、
日本の民法を輸出するべきではない理由とか。
役に立つ話、勉強になる話いろいろ。
わたしは会社絡みの話を飛ばしてしまいましたけど、
生きているかぎり、どこかで必ず関わりを持つ法律です。
この本を一読しておいて損はないと思います。
本当にじっくりじっくりの精読だったのですが、読んでいるあいだはなんとかついていけても、それをアウトプットできるかというかなり微妙。
じつはデリダのこの著作、Windows搭載のAI、Copilotさんに勧められて読んでみたも同然なのです。Copilotさんスパルタ教育すぎんだろw
ちなみに『声と現象』は、もともと現象学を作り上げたフッサールの哲学の吟味のための著作です。
だから、ただでさえ難解なフッサール哲学を哲学で吟味するわけですからね……>難解さ
で、ちょっとこれはCopilotさんにどのぐらいわかっているか、「答え合わせ」をお願いしました。わたしの質問は、
先日Copilotさんに勧められた、ジャック・デリダの『声と現象』を読み終えました。(中略)音声優位思考への批判や、音声や書き文字でも、微妙な差異が生まれてしまうこと、そんな感じで合ってますか? 違っていたら遠慮なく教えてください。
で、Copilotさんによる答え合わせ。
『声と現象』を読み進めているんですね!デリダの著作は確かに難解ですが、精読して理解を深めることは素晴らしいことです。
あなたの理解はおおむね正しいです。デリダはこの本で、音声優位思考(ロゴセントリズム)への批判を展開しています。彼は、音声が書き文字よりも優れているという伝統的な考え方に異議を唱え、音声と書き文字の間に存在する微妙な差異やズレを強調しています。
具体的には、デリダは「差延(différance)」という概念を用いて、意味が常に遅延し、完全には固定されないことを示しています。音声や書き文字のいずれも、意味を完全に伝えることはできず、常に解釈の余地が残るという考えです。
おおむね正しい……ここ、喜んでいいのでしょうか?
ただ、もちろんネットにある読解の文章などをまとめたといっても、こうロゴセントリズム批判や差延の概念でいろいろな現象学的問題をばっさばさ斬るのは爽快ですね。
あー、そうなのか!? と。
正直、すごい勉強になりました。
図書館の本。
ノルウェーのノーベル賞作家
(本人は詩人と称しているそうです)、
ヨン・フォッセによる中編小説。
漁師ヨハネスの誕生と死が淡々と綴られます。
ひとの一生において、
誕生と死ほど劇的な事件はありません。
けれどフォッセの筆致の穏やかなこと。
誕生も死も、
ごくありふれた人生のひとこまと描いているようで、
同時に深い精神性というか宗教性というか。
何か神々しいものが、ひたひた寄せてくる感じがします。
秋山さと子さんが書いた、
ユングの性格類型についての文章を、
わたしは十代のころ夢中で読みました。
「内向的直観タイプ」という類型があったんです。
このタイプが芸術的な才能に恵まれた場合、
原型的なイメージに彩られた作品を生みだす。
そんなふうに紹介されていました。
どうもヨン・フォッセという書き手こそは、
この内向的直観タイプに該当するのでは。
そういう印象を強く受けました。
ごくごく、あたりまえの日常を描いて、
良い意味での宗教性を感じさせるあたり、
わたしの貧弱な語意では非凡としか形容できません。
墨絵のようなモノトーンを感じさせる、
禁欲的な美しさも健在です。
澁澤龍彦さん的には、『天守物語』のほうが作劇上よいようなことを書かれておりましたが、同じ鏡花の『多神教』のように、『夜叉ヶ池』のラストにわたしは唸りました。
舞台は明治後期の越前国、主人公の萩原晃が村の伝承に興味を持って村にやってきます。
が、村には日に三度……明六つ、暮六つ、そして丑三つ……鐘を鳴らさないといけません。その鐘をつくことで、夜叉ヶ池の龍神から村を守るのです。
が、もともとの鐘つきをしていた老翁が亡くなり、萩原晃がそれを継ぐのですが、村人たちはもう多寡を[*1]くくって、そんな萩原をあざけるのです。
[*1] 本当は「高をくくる」で、この使い方は誤用、だそうですが、鏡花もしているこの誤用であえて書いております。
その、村人がもう……無学な田舎っぺがイキっていて、読んでいていらいらw さっきもちらっと作品名を出した『多神教』でお察しかもしれませんが、田舎っぺどもが最後には……な展開が爽快ですらあります。
澁澤龍彦さんが喝破したように、たしかに鏡花作品には、うすら汚れた人間の世界か、夢のようなあやかしの世界かを選べ、という物語の要素が多いですね。
『天守物語』もたしかに傑作です。こちらも、前述の二択がでてきますね。微妙に『天守物語』と『夜叉ヶ池』が繋がっているのもいいです。
さて、『夜叉ヶ池』のなかに(38ページ)萩原晃の奥方、お百合が歌を歌う箇所があるのですが、その歌の一節に、「篠田に葛の葉」と……みなさんお気づきのように、これは安倍晴明のお母様、葛葉さんのことですね。
気圧のせいで緻密な小説より、わりと気軽に読める新書本、それも歴史関連のもの……って感じで。
本書は基本的に、スペイン内戦(市民戦争)と、その内戦でたいした軍事拠点でもないのに空爆された街、ゲルニカと、ピカソの絵、『ゲルニカ』に関する本です。
共和派とフランコ派の戦いだったわけですが、1937年4月26日のゲルニカ爆撃はフランコ派の仕業というよりも、ドイツ軍の派遣した航空機と将校の決断によるものだったのですね(正確にはイタリア空軍も参加)。
そして今に至るまで詳細はわかっていないとか。ただ、市街地の70%以上は炎上したと。
そしてパリ万博のためにピカソが描いた『ゲルニカ』ですが、こちらもピカソの爆撃への怒りと、当時のピカソの女性問題とがあいまって、かなりの葛藤や懊悩があったようなのです。
それなのにああまでの巨大な作品を描いてしまうのはやはり天才なのでしょうね。
そして、ちょっとこれは……というのが絵画『ゲルニカ』へのアプローチで、いってみればこの絵は抽象画ですよね。それをなにがなにのシンボルで……とやってしまうのはやっぱりあまりいいことではないと思うんです。
ピカソはどう感じたのかわかりませんが。ただ、ああいう画風で描いている以上、リアリズム追求の絵のように観ては欲しくなかったのではないかなあ、と。
たとえば、これはモーリス・ブランショが書いていたのですが、ステファヌ・マラルメの|象徴的《サンボリック》な詩を、暗号の解読のように逐語訳しちゃうのはまちがっています。
絵の『ゲルニカ』もそれと同じで、戦争の愚かしさということを踏まえてなら、あとはもう受け手の解釈にゆだねるのがいいのではないかな、と思います。
(今気づいたんですが、スペイン内戦にジャーナリストとして共和派についたヘミングウェイのあとに本書、つながってますね)
極限まで切り詰めた言葉に、切迫感や不安、不吉な予感などを感じます。……などとWindowsのAI、Copilotさんに言ってみたら、それはヘミングウェイのテクストがつねに戦争や死、喪失というテーマを簡潔な語で表現しているから、だそう。
またヘミングウェイのテクストは、「アイスバーグ理論」といって、氷山の見える部分ではなく、見えない海中の部分から……と書いていて思いましたが、これ、本当にヘミングウェイについて言われていることなんでしょうか……!?
と思って自分で調べたら、アイスバーグ理論てこの概念、自己成長の三角形、アドラーだかマズローの心理学のアレみたいじゃないですか……! 自己実現や自己成長のモデルとして使われている、アレ。
いや、文芸理論としても使われているかもですが……ああー、検索してみたら、たしかに文芸理論としても使われてます。
それで、ヘミングウェイに話を戻すと、その氷山の海中にある部分の凄みが効いているのですね。普遍的なテーマ設定や抑制された登場人物の感情。それにリアリスティックな文章。
べつに読まず嫌いだったわけではないのですが、ヘミングウェイ作品、なかなかいいかもしれません。
ちなみに、下巻のほうを先に読んでいて、そのときは「なかなかおもしろい」程度だったんですよ。
ニック・アダムズという作中人物がたびたび登場しますが、これ、ヘミングウェイの分身のような人物像だそうなんです。
短編であっても、ニックの成長物語が読めるあたり、ヘミングウェイの筆力がうかがえます。意外と、とかいうと失礼ですが、ヘミングウェイこんなに面白かったんだなあ、と。
いかにも『銀の匙』作者らしい、なにかこうノスタルジックな感情を込めた作品から、『犬』や『提婆達多』の作者らしい、厳しさをたたえた作品まで、やはり中勘助さんは凄いなあ、と。
途中、数ページですが、短歌や俳句も載っております。わたしはそのパートがいちばん楽しく読めました!
「ひよことと浮く河豚《ふぐ》の怒りのおぼつかな」
だったり、
「雪もよひ師走の沼べうちかへす青葱《あをねぎ》畑のねぎのかをりか」
「世のなかの愚痴はしなじなおほけれど西瓜《すいくわ》をくへばおもふこともなし」
が気に入ってます。
それにしても、岩波文庫の中勘助の本、これですべて買って読了できました。あとは岩波文庫でというと、泉鏡花とプラトンですね……! 岩波文庫フルコンプを目指すのは。
キンドルの日替わりセールで知って、
図書館で借りてきた本を読了しました。
実兄の突然死と、
事後のあれこれを綴ったエッセイです。
脳出血で兄が亡くなります。
ほぼ唯一の肉親である著者は、
死後の整理のため奔走することを余儀なくされ……
生前のお兄さんというのが悪人でこそないものの、
お金にだらしなく自分勝手な人物だったとありました。
わたしも似たようなタイプを友人に持った経験があります。
身内だったらと想像するだけで……
兄との軋轢について、
いくつかエピソードが挙げられており、
著者の心労が絶えなかったことが窺えました。
誰でも必ず死ぬものですし。
いつ、お迎えが来るかわかりません。
長く苦しまないですむなら突然死も悪くなさそうだな。
いや、心の準備ができてない死は、やっぱり厭だな……
わが身に置き換えてグダグダ想像しながら読みました。
平易な本ですけど、
考えさせられること学ぶこと多くあります。
特に大事だと感じたのが
「死と赦し」の問題でしょうか。
亡父が鬼籍に入って十年以上が経ちますけど、
わたしなど、いまだにヤツの生前のご乱行を許せませんw
父の存在自体が許容できない……のでは、
ありませんけど。
ともあれ身内というのは難しい関係性ですね。
わたしが涙を誘われたのは、
小学生のころ著者が兄に亀の飼いかたを教わったエピソード。
当時は誰に対しても、とても優しかったのだそうです。
国書刊行会 2023年
ニコ戦友にして当サークルの管理人ミーナちゃんが教えてくれた本。
図書館で借りました。
前世紀初頭に三十七歳の若さで没した、
フランスの作家マルセル・シュオッブの短編集です。
シュオッブの作品は名うての文学者、
翻訳者たちが本邦に紹介してきたのだとか。
本書の要諦というか肝は、
複数の訳で同一の作品を読み比べられる点にあります。
訳によって、ここまで印象が変わるものかと、
率直に驚かされました。
ちょっとクラシック音楽の、
演奏の聴き比べとも通じるような……
少年十字軍の話があったり、
吸血鬼の出てくる話があったり。
敬虔なキリスト教
(おそらくカトリックかと)信仰と、
異教への憧憬やオカルト志向が混在しています。
散文詩的な幻想短編の数々。
小説技巧で読ませるタイプではないから、
「オチをください」とか言いだす読者も現れそうですw
万人向きの本ではありません。
わたしはきちんとオチのつく、
O.ヘンリー型の短編も素晴らしいと思うけど!
オチのつかないチェーホフや村上春樹だとか、
あるいはシュオッブみたいな詩的な短編だとか。
世の中にはいろいろな短編のスタイルがありますよね。
決まった型以外は拒絶する読書なんて、
死ぬほど!つまんねーのになぁ(U`ェ´)ピャレピャレー
「読書のよろこび」って、
シュオッブのこの本みたいなのに、
出会える体験のことでしょうに。
もったいねーよなぁ(U`;ェ;´U)ピャー
ニコ戦友にして当サークルの管理人ミーナちゃんが教えてくれた本。
図書館で借りました。
マルセル・シュオッブ 『夢の扉: マルセル・シュオッブ名作名訳集』 上田敏ほか(訳)
国書刊行会 2023年
前世紀初頭に三十七歳の若さで没した、
フランスの作家マルセル・シュオッブの短編集です。
シュオッブの作品は名うての文学者、
翻訳者たちが本邦に紹介してきたのだとか。
本書の要諦というか肝は、
複数の訳で同一の作品を読み比べられる点にあります。
訳によって、ここまで印象が変わるものかと、
率直に驚かされました。
ちょっとクラシック音楽の、
演奏の聴き比べとも通じるような……
少年十字軍の話があったり、
吸血鬼の出てくる話があったり。
敬虔なキリスト教
(おそらくカトリックかと)信仰と、
異教への憧憬やオカルト志向が混在しています。
散文詩的な幻想短編の数々。
小説技巧で読ませるタイプではないから、
「オチをください」とか言いだす読者も現れそうですw
万人向きの本ではありません。
わたしはきちんとオチのつく、
O.ヘンリー型の短編も素晴らしいと思うけど!
オチのつかないチェーホフや村上春樹だとか、
あるいはシュオッブみたいな詩的な短編だとか。
世の中にはいろいろな短編のスタイルがありますよね。
決まった型以外は拒絶する読書なんて、
死ぬほど!つまんねーのになぁ(U`ェ´)ピャレピャレー
「読書のよろこび」って、
シュオッブのこの本みたいなのに、
出会える体験のことでしょうに。
もったいねーよなぁ(U`;ェ;´U)ピャー
読んでいると、ああ、これは観たい……! という映画多数。そして、堂々たる風格さえ漂わせて「すべからく」の正式な用法にしびれます。
そして、なぬ! と驚いたのが「B級映画」とか「B級グルメ」とかいうときの「B級」という言葉の本来の意味ですね。
一流二流はさらに三流四流とどんどんひどくなることがありますが、そもそもB級の場合はシングル盤のフリップサイドのように、二本同時上映の最初に映写される低予算の映画のことなのです。だから、そんなふうに使う人いるのかどうかわかりませんが、C級、D級……なんてものは存在しません。
そして現在、やはりB級映画は存在しないのです。
低予算とかチープな映画というだけではB級とはいいません。
このB Pictureという言葉はそもそも、ウイリアム・フォックス社をはじめとして、各映画会社でメインの映画撮影施設がA、サブの……やっぱり低予算な……B施設で撮られた作品が厳密な意味での「B級映画」なのですって。
ブックオフで買った本。
本書はもともと『たんぽぽのお酒』
の後半部分として執筆されたものだそうです。
ですけど『たんぽぽ』を未読でも充分に楽しめます。
少年ダグラスと老人クォーターメインの、
ごくごくささやかな諍い(?)を軸に
人生の夏との別れが綴られます。
ダグは仲間たちを率いてアホな
「戦争」を繰りひろげるのですけど……
古今東西、十代の男子がアホでなかったことなど、
ないと断言したくなります。
ただ、この本は文体きわめて詩的。
他愛ない少年たちの悪ふざけが、
あまりに瑞々しく描かれるので溜息を吐かされます。
レイ・ブラッドベリのいちばんの美質が
『さよなら僕の夏』には宿っていると、
わたしは断言せざるを得ません。
『歌おう、感電するほどの喜びを!』では、
いささか感覚的には古めかしく、
技巧的には粗っぽく感じたんだけど……
ブラッドベリさん、ごめんなさい。
あなたこそ唯一無二の散文詩人!
わたしはダグとクォーターメインが合わせ鏡というか、
ひとりの人間を反対側から捉えたもののように感じました。
ダグラスは無垢なこども時代に、
クォーターメインは人生に別れを告げようとしているのです。
この作品、ディーン.R.クーンツの『ベストセラー小説の書き方』の巻末、『読んで読んで読みまくれ』で知り、読みたい読みたいと思っていてもずーっと邦訳されていませんでした。
作家、というかとにかくお金目当てでポルノ小説を書いているエドは、深刻なネタ不足に悩まされています。
まず変な小説なのが、本当の本としてのノンブル(ページ数)はあるのですが、と同時にエドが書いているポルノ小説のノンブルもついているのです。当然第一章は1ページから。
なのに、ネタが枯渇、それでも先輩作家からの、「スランプ中はとにかく頭に浮かぶ文章をタイプしていくといい」をエドは実践します。これがよくなかった!?
ポルノ小説のはずなのに自分語りがはじまってしまったり、いざエロ場面になるととんでもない展開がはじまってしまったり、奥様が子供を連れて実家へ帰ってしまうのも、エドの原稿に書かれているから、それが本当かどうかわかりません。
そんな感じで前半は第一章すら完成できず、何度も第一章の書き直しなんです。
よくメタフィクション、とかメタ性とか申しますが、たいていは小説よりも上からの視線から生まれたもの……わたしの好きなゲームでいえば、ボーダーランズ2であるキャラが「ゲームバランスなんてなによ」的な言葉を言う程度……。
メタフィクションとは、本来、小説について自己言及的に展開されるものです。要は難しいんです。
が、『さらば、シェヘラザード』の面白さは格別b やっている高度な文芸理論的な手つきに、すっごくダメ人間的なものが融合しており……ええ、もう、良い!!
今年上半期のベスト作品が桐野夏生先生の『日没』(岩波現代文庫刊)だとしたら、下半期のベスト作品は本書かもしれません。
高度な文学理論なんてどうでもよく、ただもうひたすら面白い、さすが国書さんのシリーズ、「ドーキー・アーカイヴ」です。これは心からお勧めいたします!!
(初出は2002年 NHK出版)
テレビ番組での対話をもとにした前半と、
語りおろしの後半から成る一冊。
もう二十年以上前の本ですけど、
骨子は古くなっていないと感じます。
凶悪犯のプライヴェートをメディアに暴露させろ……
という風潮に対して河合先生が
「昔の公開処刑といっしょ」だと指摘しているのが、
たいへん腑に落ちました。
ネット炎上の本質はこれか!
あらためて目から鱗が。
新奇に見える現象も、
根の部分では昔からあるものだったりします。
人間を理解するには目の前のことだけでなく、
過去に遡る視点も必要になりますね。
「日本人はみんな社会病にかかっている」。
わが意を得たりと思わせてくれたのが、
河合先生の、この言葉でした。
いわく。
無理して社会の役に立つ必要なんかないし
「もっと傑作」なのは……
金を儲けに外へ働きに行ってるだけなのに、
社会に貢献してると思ってる向きが少なくない。
まったくだッ(U`ェ´)ピャピャピャーッ!!
儲けることの是非は別としても、
社会貢献とは、まったく違うはずです。
結果として誰かの役に立つこともあれば、
逆に誰かを酷い目に遭わせる場合もあるでしょう。
アスベストとか公害とか温暖化だって、
誰かが一生懸命に儲けた結果なわけで。
あと「自分をたのみにする」話も大事ね。
字面だけ見ると、かっこ良さげですけど……
じっさい「自分をたのみにする」っていうと。
情けなく、みっともない、
他人からバカにされるような営為だといいます。
世間が用意してくれた枠から外れて、
卑小な自分を「たのみにする」わけですから。
それでも「自分をたのみに」した経験のない人生は、
ずいぶん味気ない、つまらないものではないでしょうか。
本音をストレートに出さなかった河合先生ですけど……
この本では比較的、胸襟を開いていると感じられます。
ばななさん、おそるべし。
日本浪曼派は政治的なポジション的にある程度ふれましたが 、ドイツのロマン派ははじめて。このシリーズに収録されておりますが、ノヴァーリスなんかも恥ずかしながら未読なんです。
いつも『なんでも用』にしているA5判リングノートがあと1ページしか残っていないので、メモなどはセリアで買ったA5判メモ帳に書いております。
どちらかといえば、本書は前半のほうが面白かったです。後半は大人のメルヒェンといった趣で。無限への渇望と闇への終着……ドイツロマン派はこんな感じでしょうか? そしてかなり宝石の結晶的、というか……。
まるで短編なのにまとめると長編のような『ルーネンベルグ』が個人的にはいちばん刺さりました。
おとといブックオフで買ってきた本。
『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』の続編です。
息子さんが十三歳になってからの日常が綴られます。
基本的には前作を踏襲する内容ですけど、
著者の家庭について、いくらか踏みこんだ内容もありました。
読みやすく親しみやすい平易な記述でいて、
いろいろ考えさせられるのは変わりません。
前作で些細な誤解から気まずく別れた相手と、
思わぬきっかけで和解できた話があったり。
閉鎖された地域の図書館が、
ホームレスのシェルターに転用される話が持ちあがります。
近隣の住民たちが反対の声をあげるのですけど、
こういうのは日本もイギリスも変わりませんね。
顔見知りのご近所が陰湿なやりかたで、
グロテスクなエゴを剥きだしにしていきます。
人間って醜くて汚ねえな!
反対に素敵だったのが、
日本の旅館で出会った外国人労働者たちのエピソードです。
柴犬に吠えられた黒人女性の明るさと機転!
わたしが彼女だったら、
あんなに美しくふるまえないだろうな。
息子くんが、これから思春期まっただなか……
というところで本は終わります。
美しいものも醜いものも呑みこんで、
日常も人生も続くんですよね。
あと学校にノンバイナリーを公言する先生が複数いるあたり、
日本より良い意味で、ずっとイギリスは進んでますね。
前作と並んで末永く広く読まれてほしいです。
おとといブックオフで買ってきた本。
『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』の続編です。
息子さんが十三歳になってからの日常が綴られます。
基本的には前作を踏襲する内容ですけど、
著者の家庭について、いくらか踏みこんだ内容もありました。
読みやすく親しみやすい平易な記述でいて、
いろいろ考えさせられるのは変わりません。
前作で些細な誤解から気まずく別れた相手と、
思わぬきっかけで和解できた話があったり。
閉鎖された地域の図書館が、
ホームレスのシェルターに転用される話が持ちあがります。
近隣の住民たちが反対の声をあげるのですけど、
こういうのは日本もイギリスも変わりませんね。
顔見知りのご近所が陰湿なやりかたで、
グロテスクなエゴを剥きだしにしていきます。
人間って醜くて汚ねえな!
反対に素敵だったのが、
日本の旅館で出会った外国人労働者たちのエピソードです。
柴犬に吠えられた黒人女性の明るさと機転!
わたしが彼女だったら、
あんなに美しくふるまえないだろうな。
息子くんが、これから思春期まっただなか……
というところで本は終わります。
美しいものも醜いものも呑みこんで、
日常も人生も続くんですよね。
前作と並んで末永く広く読まれてほしいです。
おとといブックオフで買ってきた本。
『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』の続編です。
息子さんが十三歳になってからの日常が綴られます。
基本的には前作を踏襲する内容ですけど、
著者の家庭について、いくらか踏みこんだ内容もありました。
読みやすく親しみやすい平易な記述でいて、
いろいろ考えさせられるのも変わりません。
前作で些細な誤解から気まずく別れた相手と、
思わぬきっかけで和解できた話があったり。
閉鎖された地域の図書館が、
ホームレスのシェルターに転用される話が持ちあがります。
近隣の住民たちが反対の声をあげるのですけど、
こういうのは日本もイギリスも変わりませんね。
顔見知りのご近所が陰湿なやりかたで、
グロテスクなエゴを剥きだしにしていきます。
人間って醜くて汚ねえな!
反対に素敵だったのが、
日本の旅館で出会った外国人労働者たちのエピソードです。
柴犬に吠えられた黒人女性の明るさと機転!
わたしが彼女だったら、
あんなに美しくふるまえないだろうな。
息子くんが、これから思春期まっただなか……
というところで本は終わります。
美しいものも醜いものも呑みこんで、
日常も人生も続くんですよね。
前作と並んで末永く広く読まれてほしいです。
岩波書店 2024年
図書館で借りてきました。
ポーランドのノーベル文学賞作家、
オルガ・トカルチュクのテキストに、
ヨアンナ・コンセホが絵をつけた本。
とはいっても絵本ではなく、
文と絵の内容には距離があります。
それぞれ別個に鑑賞できる感じで、
コラボレーションと呼ぶのが妥当かも。
魅力的な容貌から誰もに愛された
「個性的な人」がいました。
ところが自撮りを繰り返すうち、
顔の輪郭が失われはじめて……
わたしたちの生きている現実の、
ある一面を皮肉な形で切り取って提出してきます。
そう「個性的な人」は、わたしであり、あなた。
2024年
図書館で借りてきました。
ポーランドのノーベル文学賞作家、
オルガ・トカルチュクのテキストに、
ヨアンナ・コンセホが絵をつけた本。
とはいっても絵本ではなく、
文と絵の内容には距離があります。
それぞれ別個に鑑賞できる感じで、
コラボレーションと呼ぶのが妥当かも。
魅力的な容貌から誰もに愛された
「個性的な人」がいました。
ところが自撮りを繰り返すうち、
顔の輪郭が失われはじめて……
わたしたちの生きている現実の、
ある一面を皮肉な形で切り取って提出してきます。
そう「個性的な人」は、わたしであり、あなた。
この本もまた、前作同様、一つのねたがだいたい4ページぐらいにまとまっており、隙間時間に読むのもぴったりです。
いやー、本書ではわたしも間違って使っていた言葉も多くて汗顔の至りです。
とくにエブ以外のサイト(投稿サイトではありません)で「せめぎあい」を大誤用してしまいました。正しくはこの「せめぎ合い」、恨み合う、憎しみ合う、というのを意味する言葉です……。
さらに、オードリー・ヘップバーン主演の映画『ローマの休日』、これ、皆さんご存知か、予想の通り、原題は『Roman Holiday』なんですが……ちょっと大きな英英辞典をひくと……なんと、Roman Holidayとは成句であり、これは「古代ローマでは奴隷や捕虜を戦わせて見物をする」そこから転じて「他人を犠牲にする娯楽」という意味があるんです。
なので、もしかしたら映画の原題は、かわいらしいお姫様が周りを振り回して迷惑をかけ、そのなかでお姫様が楽しい想いをする、なのかもしれない……と。
こんなん呉さんの本読まないとふつうわかりませんよ!
「クリトン、僕はむしろ多衆が最大の禍害を加え得る者であってくれればいいと思う。そうすれば彼らはまた最大の福利をも加え得るわけだからね。それなら結構な話だろうよ。ところが彼らはどちらも出来ないのだ。彼らには人を賢くする力も愚かにする力もない。彼らのすることは皆偶然の結果なのだよ」(本書66ページ)
まぁ要するに「悪法もまた法律であり、国家や法にはしたがうべき」な一連の裁判と、死刑確定後の、友人による脱獄の誘いの拒否……なので有名な著作ですが、そんな昔にこれだけの著作があるというのは空恐ろしいぐらいの気持ちになります。
哲学的にも、プラトンの打ち立てた形而上学からは現代思想はなかなか脱出できないぐらいですし。
その脱出を試みた思想家にジャック・デリダがいますが……話はちょっと脱線します……なんと、9日に岩波文庫からデリダの『他者の単一言語使用 あるいは起源の補綴』が刊行されます。
岩波書店のサイトで試し読みをしても、正直理解できるかかなりあやしいですねそのデリダの本……。『パピエ・マシン』(ちくま学芸文庫)などはちゃんと読めばわかる本でしたが……あとはデリダの『グラマトロジーについて』の英訳版に長い序として書かれたガヤトリ・C・スピヴァクの『デリダ論』(平凡社ライブラリー)もちゃんと読めばわかる本でしたが……。
アメリカの詩人が唯一残した長編小説です。
「ベル・ジャー」はガラスでできた釣り鐘のこと。
主人公エスターは心を病み、
自らが周囲とガラスの壁で隔てられていると、
頻りに感じるようになります。
わたしは憶えているかぎりだと、
幼稚園くらいのころに最初の離人感を経験しました。
四半世紀くらい前に出た『ベル・ジャー』の旧訳を読んで
「シルヴィア・プラスが自分とおなじこと言ってる!」。
受けた衝撃はいまでも忘れられません。
主人公エスターは著者プラスの分身とおぼしき大学生です。
彼女は雑誌の小説コンテストで賞を獲り、
夏休みのあいだ「大学生エディター」として、
ニューヨークに招かれます。
きわめて恵まれた経験のように見えますけど、
エスターは都会に居場所を見いだせません。
かといって郷里のボストンも居心地が悪く、
ボーイフレンドの身勝手さにも辟易させられます。
しだいに精神のバランスを崩したエスターは、
やがて精神病院へ収容されることに。
ひさしぶりに新訳で再読したら、
病院での経験が具体的かつ長めに描かれているんです。
ピアニストのバド・パウエルが受けたという、
電気ショック療法にかけられる場面も出てきました。
エスターは周囲との齟齬に苦労しますけど、
彼女のなかにも偏屈さや傲慢さが存在します。
でも自分で自分をどうすることもできない。
寄る辺ない若者が、ある種の地獄めぐりを経験する点で、
本書はサリンジャーの
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』
としばしば比較されるようです。
旧訳版の帯には「女の子版ライ麦畑」
という惹句がつけられていたことを憶えています。
ただ『キャッチャー』は匿名性が強いというか。
主人公ホールデンが、
そのままサリンジャーの経験を反映するとは読めませんでした。
『ベル・ジャー』のエスターは、
著者プラスの分身という性格を強く備えていると感じられます。
ともあれ、これは生還の物語。
生き難さに苦しむひとには、
何らかのヒントとなり得る作品です。
この先も長く読み継がれますように。
アメリカの詩人シルヴィア・プラスが、唯一残した長編小説です。
「ベル・ジャー」はガラスでできた釣り鐘のこと。
主人公エスターは心を病み、
自らが周囲とガラスの壁で隔てられていると、
頻りに感じるようになります。
わたしは憶えているかぎりだと、
幼稚園くらいのころに最初の離人感を経験しました。
四半世紀くらい前に出た『ベル・ジャー』の旧訳を読んで
「シルヴィア・プラスが自分とおなじこと言ってる!」。
受けた衝撃はいまでも忘れられません。
主人公エスターは著者プラスの分身とおぼしき大学生です。
彼女は雑誌の小説コンテストで賞を獲り、
夏休みのあいだ「大学生エディター」として、
ニューヨークに招かれます。
きわめて恵まれた経験のように見えますけど、
エスターは都会に居場所を見いだせません。
かといって郷里のボストンも居心地が悪く、
ボーイフレンドの身勝手さにも辟易させられます。
しだいに精神のバランスを崩したエスターは、
やがて精神病院へ収容されることに。
ひさしぶりに新訳で再読したら、
病院での経験が具体的かつ長めに描かれているんです。
ピアニストのバド・パウエルが受けたという、
電気ショック療法にかけられる場面も出てきました。
エスターは周囲との齟齬に苦労しますけど、
彼女のなかにも偏屈さや傲慢さが存在します。
でも自分で自分をどうすることもできない。
寄る辺ない若者が、ある種の地獄めぐりを経験する点で、
本書はサリンジャーの
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』
としばしば比較されるようです。
旧訳版の帯には「女の子版ライ麦畑」
という惹句がつけられていたことを憶えています。
ただ『キャッチャー』は匿名性が強いというか。
主人公ホールデンが、
そのままサリンジャーの経験を反映するとは読めませんでした。
『ベル・ジャー』のエスターは、
著者プラスの分身という性格を強く備えていると感じられます。
ともあれ、これは生還の物語。
生き難さに苦しむひとには、
何らかのヒントとなり得る作品です。
この先も長く読み継がれますように。
『アンナ・カレーニナ』とは違う(ふつうにトルストイといったらレフ・トルストイのことですからね……)トルストイ、A.K.トルストイの吸血鬼もの三篇、とくに最初の『吸血鬼』は、ロシア上層階級のセレブな生活や、恋愛模様なども相まって、なかなかおもしろかったです。
やっぱり日本浪曼派もそうですが、その国の国ぶりと密着したロマン主義、ロマン派の作品は文句なしにいいですね。
本書に収録された、不勉強なのでツルゲーネフ以外の作家の作品もよく、さすが世界幻想文学大系の編集をされた紀田順一郎先生と荒俣宏先生です。
マルリンスキイ、オドーエフスキイ、ザゴスキン、レールモントフ、そしてツルゲーネフ。ほかの作品もなかなかよかった。
とくにツルゲーネフときたら神西清先生訳の『はつ恋』(新潮文庫刊)しか知らなかったので、ああ、ツルゲーネフはこういうのも書けるのか……という。
本書収録のツルゲーネフの『夢』も味わい深かったです。ツルゲーネフは意外とこういう幻想文学系も書いているそうで、岩波文庫あたりから、『ツルゲーネフ幻想短編集』なんて出ないかしらね。
あと、ちょっとこれは……というのが本書の解題です。
ほぼA.K.トルストイについてだけ。ここはさすがに収録された作家や作品についてちゃんと書いてほしかったところです。
それにしても、今は入手困難らしいですが、岩波文庫にもA.K.トルストイの作品が収録されているのですね。幻想文学ではなく歴史小説みたいですけど。
それと造本。函装で、その外側のデザインも素敵だし、ちょっと厚めの紙に余白に模様を入れた本文のページも素敵。こういうことは文庫本ではできないので、改めて国書刊行会さんの趣味のよさを感じます。
相変わらず鋭い批判が収録されております。しかも近著の『バカに唾をかけろ』(小学館新書)などと同様、各項が4ページで短文でまとめているのがまた読みやすいです。
言葉がカードとなって舞っているような……。
ただ、似たような論客で適菜収《てきなおさむ》という方がいますが、呉さんにはユーモアと人類愛みたいなものが感じられます。
だいたい本書は、言葉の誤用を糾弾するような内容です。
たとえば、「目からうろこが落ちる」、これ中国とかから流れてきた言葉、って思っている方も多いでしょう(わたしもそうでした)。
ですがこの言葉のルーツはなんと新約聖書の『使徒言行録』(本書では『使徒行伝』)からですって。
「悪貨は良貨を駆逐する」という言い回しもそう、今このグレシャムの法則を使う人はだいたい間違っているそうです。悪貨が本来のよき貨幣、良貨を流通させなくなる、そんな意味で使われているのでしょうが、正しくは、良貨は皆がすぐ良貨として蓄えてしまうために、市場には悪貨ばかりが残ってしまう……これがグレシャムの法則だそう。
こんな感じで、言葉に関する問題を呉さん節でぶった斬っていきます。言葉の雑学本としてもお勧め。趣味でもなんでも、ものを書く方なら楽しめるし、同時に国語力が上がるいい本です。
なお、言葉の診察室は④まで出ているので、残りの3巻も楽しみ。
本書は、もともと集英社文庫「Cobalt Series」の一冊で……(そのときの題名は『オットーと魔術師』)……つまり、Cobalt文庫ではないのですよ!
なんでも山尾悠子先生、解説のインタビュー引用では、一晩に30枚ぐらい書いていた、とか言っております。
少女小説だから……みたいなことを言われてますし、解説でも東雅夫先生が、長い作家人生で、そのときしか出せない魅力というのもあるのではないか……と。
『初夏ものがたり』は全部で四篇。謎の多いビジネスマン、タキ氏について話が進行していきます。
ビジネスといえど、それは地上のソレではなくて、タキ氏は、すでに死者の世界から、時間を決めて地上へと逢いたい人に逢わせたり、行きたい場所に行かせたり、そういうのを調整しているのですね。
なので、全四話ですが、もう亡くなった方のそういう要求と、地上の人間の、常識を超えた再会がけっこうドラマチックに描かれております。
それにしても、いろいろ事情がおありなのでしょうが、なぜ『オットーと魔術師』すべての復刊ではなかったのでしょうね。今Amazonのマケプで見たら15000円ぐらいでした……。
あと、そうそう酒井駒子さんの挿画も素敵です!! もう初夏というより酷暑の日々ですが、『初夏ものがたり』いかがでしょうか?
書痴たちが、なんとか入手しようとする古書の世界。
じつはわたしも、先週の水曜日だったかな、玲文堂さんの目録が届いて、マンディアルグとピエール・ルイスの本注文しようとしたのですが、もう買われてしまった……と;;
こういう悔しさとか、当時の皮装の豪華本へのあこがれ……。
古書マニアあるあるでしょうが、わたしも微妙にいやらしい値付きの本を書いそびれて失敗した……などという嫌な記憶があるので、本書はあるあるでしたねー。
若き日のフローベールの小説、そして自らも書痴で、新興書店などに製本術まで教えたシャルル・ノディエ。どちらの作品も本書のベストかもしれません。
それと、古書目録とか、セーヌ河の横にならぶ露天古書店さん。売り物の入った函を解錠して、どこになにかひそんでいるかわからない、まるで極東でも同じような風景が神保町の「古書まつり」でも味わえますね。
生田耕作さんの作者紹介や、当時のセーヌ河左岸の古書店街、けっこうインテリな、作中に頻出する掘り出しもの価格で店頭に並んでいる名著たち。
いいなぁ。書痴小説もっと読みたい。生田耕作先生は亡くなってしまったけれども、誰か『愛書狂-II』を出して欲しい。
なんとか、と一応書いておいたのは、本書はじっくり精読しないとだめなため(そして再読再再読も)でもちゃんと「わかる」ジャック・ラカンの精神分析理論の本でした。
おなじちくま文庫で斎藤環先生による『生き延びるためのラカン』と比べたくなるのですが、とりあえずラカンの理論を包括して学びたいなら、『生き延びるための~』で、重要な箇所の強調で読みたいなら本書かもしれません。
どちらもあまり専門用語や概念など知らなくても理解できます。意味するもの(シニフィエ)とペアになっている意味されるもの(シニフィアン)のシニフィアンについての知識はあったほうが話は早いですが(知らなくても読めますよ!)。
本書の内容に入りますが、前半は、ラカン理論の基礎をなす、想像界、象徴界、そして現実界の三つの説明です。
ラカンによれば、「鏡像段階」といって、まだ赤ちゃんの段階では、今こうして「自分の身体がある」と統合して考えられるのは、身体を鏡に映して一つに統合されたもの、という経験が必要なのですが。赤ちゃんのときには、自分の身体、という概念は持てないのです。
象徴界とは言語の領域であり、他のなにかの関係の網のなかでしか意味作用を持てないシニフィアンの世界。要するに、人間は言語によってしか世界を把握できないのです。
そしてラカンに言わせれば、症状を異状や病気とは考えません。すべての人が、神経症、精神病、倒錯とに分類され、健常者というカテゴリは存在しないのですね。
ここらが前半で、後半がほぼエディプス・コンプレックス(オイディプス・コンプレックス)についての解説です。ご存知の方も多いと思われます。幼い自分とその母による「法」的な支配(法律という法ではなくてルールに近いです)、そこへ超越的に介入する父。
本書を読むと、なぜ狂ったように本を買い漁り、いくら買ってもなにか違うという感覚がおきるのか、がわかります。本だけに限りませんが。
そうそう、本書のよい点は、各章どころか、各節にその要約のように節タイトルが入っていることでしょうか。注釈もそのページ内にあるので参照しやすいですし。
光文社古典新訳文庫 2020年(電子版)
中学生のころ夢中になって読んだ、
M.R.ジェイムズの怪奇小説。
近年になって南條竹則さんによる新訳が出ました。
十代のころはページを繰るのがもどかしく、
続きが気になってしかたなくて、
けど怖くて怖くて……
いまは大人になってしまって、
夢中で感情移入する読みかたはできなくなってしまいました。
一抹のさびしさは残りますけど、
当時は見えてなかったことが視野に入ってきます。
同世代のマッケンやブラックウッドとの作風の違いとか、
当時のイギリスでの大学の先生たちの日常
(ジェイムズさんは古文書の研究者でした)とか。
歳を重ねるのも悪いばっかりじゃ、ありません。
中学生のころといえば……
学校に岩波文庫のパンフレットが置いてあって、
それを参考に安いのを買って読んだりしていました。
まったく自覚できてなかったけど、
十代のわたしは本や文化に関しては恵まれた環境にいたと思います。
通学路に古本屋が何軒もありましたしw
「友達だよ」と寄ってきた人間たちがクズ揃いだったぶん?
本や音楽との縁が埋めあわせてくれたのでしょうか。
婆に話したら「万事、塞翁が馬よ」と。
知ったふうな口をきかれましたw
代表作の「消えた心臓」も「マグヌス伯爵」も、
邪悪な妖魔が人間に危害を加える話なんだけど……
古い友達に再会できた懐かしさか、
わたしは奇妙な親しみを憶えました。
2001年
これで読み返したのは何回目になるのでしょう。
わたしの大好きで大切な本。
ヒメーネスの『プラテーロとわたし』です。
わたしは電子版も含めて何冊か持ってますけど、
今回は紙の文庫本で読みました。
岩波文庫版として出された当時に買ったものです。
もう四半世紀近く前になるのですね。
理解者だった父の死に衝撃を受け、
精神を病んだ詩人は郷里アンダルシアへ帰ります。
そこでプラテーロと名づけた、
銀色のろばと暮らした日々を綴った散文詩集です。
動物への愛惜ばかりでなく、
人間の愚かさ醜さや生の苛酷さについても、
曇りのない筆致で描かれてるんですけど……
露悪的な印象を与えないのは、
ヒメーネスの視線の根底に深い愛情があるからでしょう。
「きみが学校へ通ったら人間の子たちと並んで、
みみずみたいに、のたくった字を書くのかな」。
そうプラテーロに語りかける場面は、
まおちとわたしのお気に入りです。
お祭りの大騒ぎに困惑して逃げまどう、
ヒメーネスとプラテーロの姿には、
わが身を見るようでした(笑)。
わたしもプラテーロのデカい頭を、
ぱこんぱこん叩いて遊びたいです(U´ェ`)プピプピ
ヒメーネスもプラテーロも、とうにこの世を去りましたけど、
わたしたちはこの散文詩集を繰るとき、
いつでも彼らに会って言葉を交わすことができます。
美しい一冊です。
中身は一帖ずつ、あらすじと、その帖のハイライトの現代語訳と総ルビの原文、そしてまとめ、ときどき小ネタの文章、で書かれております。
全五十四帖(表題だけで本文がない『雲隠』は書きようがないですが)をわかりやすく、なおかつ原文の香気を失わないよう書いているさまはなかなか『源氏物語』愛が強いかと。
本当は、日本文芸社の大塚ひかり先生のデビューまもないころの『面白いほどよくわかる源氏物語』が欲しかったのですが、こちらのビギナーズ・クラシックス版もなかなか良かったです。
大河ドラマでまあ気になっている方はすでにお手に取っている本かもしれませんが、ドラマで気になる方はぜひ読んでいただきたい一冊ですねー。
面白いのが、やはり作者複数説についても理解を示しているところです。たしかにこれだけのボリュームで、登場人物の詠む歌までこしらえるとなると相当の技量が必要ですよね。
そういう本も出ているとは思うのですが、安価な『源氏物語辞典』などあればそちらも手にしたい本です。
PHP文庫から出ている、『紫式部と源氏物語の謎55』(古川順弘著)もちょっと気になってます。正直なところ、今は源氏物語ものを出せば売れると思うので、源氏物語に関するいい本どんどん出してほしいですねb
言語はウィルスである、だの、クローン技術によって女性は不要になっただの(逆ではないかしら?)、普通にエッセイを楽しもうとするにはいちいちぶっ飛んだ内容が続きます。
訳者あとがきで山形浩生さんも書いておりますが、この本、いろいろなエッセイの楽しみ方とはちょっと違います。
バロウズの諸作品に出てくるものごとが、バロウズの本気で考えていたき◯◯いめいた思考の産物だというのがわかって、妙に納得してしまう、というか……。
『国家の安全保障のために』なんか、遺伝子が完璧に解明されれば、特定の民族だけを標的にした疫病などを散布すれば戦争の必要もなくなる、とかよくまぁこんなことを思いつけるものです。
現実に、その途中、その経過内で漏れちゃったんですかね?>新型コロナ
本書はコロナ時代に読むと、妙なリアリティがあるという。
バロウズのほぼ個人的な妄想が、じつは時代を先取りしていた、という。
それにしても本書で、バロウズが妙にヘミングウェイについて語りたがるのも不思議です。そしてそれが新たなヘミングウェイ理解に役立つとかそんなことなく、なにか薄気味悪い予兆のようにしか思えない、というのも……。
ハヤカワ文庫SF 2015年(電子版)
読んでも読んでも残りが減らないと思ったら(笑)、
二冊の短編集を合本にしたものでした。
レイ・ブラッドベリといえば、
映画にもなった『華氏451度』で知られています。
アメリカでSF、ファンタジーの分野に、
忘れられない足跡を残した大家です。
ところが現今の目で短編を読み返すと、
古さばかりが目につくんです。
これはフィクションの宿命ですけど……
「たてつけの悪さ」みたいなところが目立って、
あんまり巧い小説家じゃなかったんだな。
これが正直な印象でした。
アリス・マンローとか村上春樹みたいな、
短編の名人と比べちゃうと、ね。
ところが、よ。
ミスター・ブラッドベリには必殺技があるんです。
郷愁。
それと、さみしさ。
世に容れられない人物というか、
はみ出しもの、すねものの描写に存在感があります。
それから、なんといっても。
過ぎ去った美しい日々への甘美で、さみしい思い。
これを扱わせると天下一品。
アリスおばさんも春樹さんも太刀打ちできません。
おそらく持って生まれてきたものなんでしょうね。
貶してごめんなさいブラッドベリさん。
あんたは天才だ!
全体として佳作どまりの印象が多かったこの本ですけど
「ニコラス・ニックルビーの友はわが友」。
これは、まぎれもない傑作です。
ある夏の日、少年の前に
「チャールズ・ディケンズ」と名乗る男が現れます。
その正体やいかに……
人生しくじったヤツへ向ける優しいまなざしと、
名作文学たちへの愛惜が美しく織りまぜられたおはなし。
ほんとに素敵なんだよ!
この一篇のためだけでも、読んでよかったと痛切に思いました。
ハヤカワ文庫SF 2015年
読んでも読んでも残りが減らないと思ったら(笑)、
二冊の短編集を合本にしたものでした。
レイ・ブラッドベリといえば、
映画にもなった『華氏451度』で知られています。
アメリカでSF、ファンタジーの分野に、
忘れられない足跡を残した大家です。
ところが現今の目で短編を読み返すと、
古さばかりが目につくんです。
これはフィクションの宿命ですけど……
「たてつけの悪さ」みたいなところが目立って、
あんまり巧い小説家じゃなかったんだな。
これが正直な印象でした。
アリス・マンローとか村上春樹みたいな、
短編の名人と比べちゃうと、ね。
ところが、よ。
ミスター・ブラッドベリには必殺技があるんです。
郷愁。
それと、さみしさ。
世に容れられない人物というか、
はみ出しもの、すねものの描写に存在感があります。
それから、なんといっても。
過ぎ去った美しい日々への甘美で、さみしい思い。
これを扱わせると天下一品。
アリスおばさんも春樹さんも太刀打ちできません。
おそらく持って生まれてきたものなんでしょうね。
貶してごめんなさいブラッドベリさん。
あんたは天才だ!
全体として佳作どまりの印象が多かったこの本ですけど
「ニコラス・ニックルビーの友はわが友」。
これは、まぎれもない傑作です。
ある夏の日、少年の前に
「チャールズ・ディケンズ」と名乗る男が現れます。
その正体やいかに……
人生しくじったヤツへ向ける優しいまなざしと、
名作文学たちへの愛惜が美しく織りまぜられたおはなし。
ほんとに素敵なんだよ!
この一篇のためだけでも、読んでよかったと痛切に思いました。
本作品は《《保坂庄助》》という名前で野坂昭如さんの文壇デビューや『エロ事師たち』などでのブレイクまでを、まだ小説すら書いていなかった頃からの新宿の描写にからめて書かれた作品です。
そして特筆すべきポイントは、バーなどで出くわした作家、編集者、アーティストなどなどが全部実名……!
田中小実昌さん、埴谷雄高さん、などなど。
あるお店では、後藤明生さんと澁澤龍彦さんの妹、澁澤佐知子さんが軍歌ばかりを歌っていたとか……。
もともと野坂さんは、TVのCMソングや歌番組の台本などを書く仕事についており、文芸的な仕事はできなかったのだそうです。短編ですら長くて書けなかったという言葉も書かれてますし……。
さまざまな作家の裏の姿……が知られるのも本書の醍醐味。野坂さんのブレイク前の生活が知られるのもよいですし。
自伝的小説ですが、やはり野坂さんは何を書いても面白いですね……b
とりあえずまずゲーテが好きなので本書を神田神保町の愛書館中川書房さんで購入。
で、ちまちまと読んでいたのですが、やはり作品について語る後半の「ゲーテの『ファウスト』について」と「ゲーテの『ヴェルテル』」が名調子で解説+作品への愛情ぶちまけという感じでよかったです。
「また、なにもいわないでいても、偉大な人間にはたっぷり敵ができるということを心得ていました
『あるがままのおまえの存在が、
結局は永遠の非難なのだ』
と考えている連中が、おまえを憎まぬはずはない、ということを彼は知っていたからであります」
(『』←のなかはゲーテの言葉)
なるほどなー、と思います。というか、創作者において、敵を作るのを恐れるというのはいいことではないのかもしれません。
けっこうゲーテは名言を残しておりますが……たとえば講談社現代新書の『いきいきと生きよ ゲーテに学ぶ』(手塚富雄著)……とかあるのですが、トーマス・マンが発掘したゲーテの言葉もなかなか凄い。
なんだかんだでゲーテもマンも読んでいない作品が多いので、読みたいですね……。
一度はエブリスタで読んだ本作(タイトルは変更されてますが)ですが、かなりの加筆修正があるのかしら?(2万文字ほど加筆ですって)
高校生の成瀬理都《りつ》、倉田朝陽《あさひ》をメインに広がる、なんだか甘酢っぱい、そして、書かれているのが高校生の日々や恋愛や真剣な悩み……なのですが意外にも、ちょっと現在性のある、毒親だったりSNSでの炎上だったり……生々しい。もちろんこれは作品のリアリティを増幅させるようなものですが。
エブリスタですでに読んでいたとはいえ、紙本で読んで二度おいしい作品でした。
そして、実は本作の元のタイトルが生まれた瞬間、わたしもそこに居合わせたので、なんだかうれしい気がします。
それと、これはもうそういう体質になっちゃっているといえばそうなのですが、もう本作は東里胡さんがどう書き、表現し、展開するか、まるで長編小説の技と発想やらの「勉強」みたいに読んでしまったりするのですよ。
もちろんそれはいつものこと、平常運転なのですが、こうした青春やときめきや、キュンやらを、さらに輝かせるためともいえる、いかにも現代的な問題、ここらで本当にわたしは読んでてやられました。巧いなあ……。
単刀直入にいえば、面白かったです!!
余談ですが、表紙もまた素敵。
わたしも頑張ろう(小説を書くことね)、そう思わせてくれる一冊でした。
この本は先日神田神保町へ行ったときに、もともとの荷物や買った本を、宅配便でお家に送っておく……の手配を済ませ、だいぶ荷物が減って楽になったところへ、@ワンダーJG店さんで見つけて買った本。
何度か書いているかもしれませんが、@ワンダー本店よりも、@ワンダー本店では扱っていない幅広いジャンルの古書が多いため、@ワンダーJG店のほうが穴場だと思います。
さて、この本は、以前読んだ、木村朗子著『百首で読む『源氏物語』 和歌でたどる五十四帖』(平凡社新書)に近く、こちらが源氏物語のなかに出てくる歌にスポットをあてて読み解くとするなら、『紫式部』は文字どおり、紫式部の一生を彼女の詠草で読み解いてゆく……一冊です。
源氏物語での登場人物ごとに詠みわけた和歌もすごいですが、さらには紫式部本人まで詠草を残しており、そのいずれもがいい短歌であるという。
藤原宣孝が結婚前に求愛の歌を紫式部にあてて詠んでいるのですが、その歌そのものは載っておりませんが、解釈が凄い……!
「人は昔から言葉なんかではなくて、枕を交わしてこそ実意が見えるというものです。同じことなら隔てのない仲になりたいものです」ですって!
阿刀田高先生の本に『エロスに古文はよく似合う』(角川文庫刊)(なお未読)とありますが、こんな意味を込められたらさすがにエロいでしょう。
まだ岩波新書にカバーがつく前の古い本ですが(初版は1973年)、和歌の本としても、歴史の本としても楽しめる好著でした。
さて、このリバイバル文庫、売りはやはり古い版の本をそのまま復刻なので、ものによっては正漢字正仮名づかひが多いです。もちろんわたしとしては大歓迎!
しかし、本書は正漢字正仮名づかひなのですが、内容が難しい……題名だけでいえば「反時代的」ってこれ自分のポリシーじゃんー! って感じなのですが、上下巻の本書はダヴィッド・シュトラウスとかいう奴の書いたクソみたいな本への攻撃、ワーグナーについて、ショーペンハウエルについて、とテーマが決まっているのです。
解説に書かれているのですが、ニーチェの全著作を貫いているのは反道徳主義、反社会主義、反民主主義、反フェミニズム、反知性主義、反厭世主義、反キリスト教、です。
本書の感想が、読書メーターにもあってびっくりしたのですが、そこで感想を寄せておられた方的には、民主主義を護りたい立場から、ニーチェの卓抜とした思想をどう両立させていくか……みたいなことを書かれてました。
わたしは、とりあえず日本の戦後民主主義はダメだと思っているので(押し付けられたものですし)、そこらでニーチェの著作はけっこう元気が出るものだったりします。
しかし見開きに改行が一つもないページもあるとか、ニーチェももう少しリーダビリティ考えて欲しい;;
ブックオフで買いました。
心理療法についての質疑応答をまとめた本です。
現職の療法士さんたちの質問に、河合先生が答える内容。
まぁ大前提として、
他人の心は(自分の心もね)わからないものなんだけど……
「わからない」ことを、どこまで引き受けていけるのか。
そういう問いが心理療法の根底にあるように感じられました。
本音をストレートに出そうとしなかった河合先生だけど、
晩年の著書には、ちらほら垣間見えるところがあります。
この本では日本人の働きかたを論じた部分で
「仕事のなかに聖なる部分も入っている」
みたいな話をしてるのね。
欧米から働きすぎと非難されるけど、
そもそもの労働観が違うのだ……と。
現今では通用しない昭和の価値観だし、
わたしには死んでも受け入れられないし。
受け入れたくもねーわ糞が(U`ェ´) ケッピャーッ!!!
そう思ってたら河合先生
「私にストレスを与えたいなら、
仕事を取り上げればいいんです」。
河合先生も仕事人間だったのね……やぇねぇ!
まぁ、だから、あそこまで出世できたんだろうな。
この本で強く印象に残ったエピソード。
拒食症の小学生に河合先生が
「苦しくなったら、いつでも連絡ください」
って手紙を渡したんだって。
それきり連絡はなかったんだけど、
何年も経って大人になった彼女があるとき
「先生のくださった手紙を宝物に、
いまでも大事にしています」。
そう伝えてくれたらしいのね。
ちなみに拒食症は治ったといいます。
「この仕事をしていて、
ほんとうに良かったと思いました」。
これは河合先生の心からの言葉だと感じます。
ブックオフで買いました。
心理療法についての質疑応答をまとめた本です。
現職の療法士さんたちの質問に、河合先生が答える内容。
まぁ大前提として、
他人の心は(自分の心もね)わからないものなんだけど……
「わからない」ことを、どこまで引き受けていけるのか。
そういう問いが心理療法の根底にあるように感じられました。
本音をストレートに出そうとしなかった河合先生だけど、
晩年の著書には、ちらほら垣間見えるところがあります。
この本では日本人の働きかたを論じた部分で
「仕事のなかに聖なる部分も入っている」
みたいな話をしてるのね。
欧米から働きすぎと非難されるけど、
そもそもの労働観が違うのだ……と。
現今では通用しない昭和の価値観だし、
わたしには死んでも受け入れられないし。
受け入れたくもねーわ糞が(U`ェ´) ケッピャーッ!!!
そう思ってたら河合先生
「私にストレスを与えたいなら、
仕事を取り上げればいいんです」。
河合先生も仕事人間だったのね……
まぁ、だから、あそこまで出世できたんだろうな。
この本で強く印象に残ったエピソード。
拒食症の小学生に河合先生が
「苦しくなったら、いつでも連絡ください」
って手紙を渡したんだって。
それきり連絡はなかったんだけど、
何年も経って大人になった彼女があるとき
「先生のくださった手紙を宝物に、
いまでも大事にしています」。
そう伝えてくれたらしいのね。
ちなみに拒食症は治ったといいます。
「この仕事をしていて、
ほんとうに良かったと思いました」。
これは河合先生の心からの言葉だと感じます。
美文に酔いしれる文体はいつもどおり。
しかしこの本に収録されているのはすべて戯曲。
なので、いつもの小説に比べると、多少は読みやすいかもしれません。
『海神別荘』はラストの地上世界、人間の世界への強烈なディスが効いていて、なんだかスカッとしました。
「おい、女の行く極楽に男はおらんぞ。男の行く極楽には女はいない」の科白からしてなんだか恰好いい。
ちょっと筒井康隆先生の『美藝公』のような……。
『山吹』は「夫人」の「人形使い」へのサディズムというか、「人形使い」のマゾヒズムが輝く傑作。旧態依然とした「家」の論理への鏡花流ヘイトが光ってます。
『多神教』わたしはこれ泉鏡花の隠れた傑作だと思います。
「お沢」さんの丑の刻参り、そして、御例祭を前に盛り上がる俗物ども……神主のような神職から村人まで……「お沢」が丑の刻参りをしていたと知って、自分たちが祭神、媛神の虎の威を借りたような酷い折檻。
そしてそこへ降臨する、本物の媛神様。
これもそうです。因習のような「ムラ社会」への軽蔑。
残念ですが、本書は正漢字、正かなづかひではありません……。とはいえ、読みやすいでしょうし、はじめての鏡花作品にもいいかもしれません。
ブックオフで買った本。
数年前に、だいぶ話題になりました。
著者はイングランドのブライトンで暮らす日本人です。
アイルランド人の配偶者とのあいだに、
ひとり息子がいます。
この息子さんが地元の公立中学に進みました。
ちょっと前まで荒れていたけど、
音楽などの芸術活動に力を入れて評判が上がってきています。
息子の学校生活を軸に、
執筆当時のイギリスの世相を綴るエッセイ集です。
貧しい家庭の子が食べ物を万引きしていじめに遭ったり、
労働者階級の厳しい生活が窺えます。
けど深刻なばっかりじゃなく、笑える話もいろいろ。
息子くんクレバーな子なんだけど、
どこかトボけたところもあって、いいキャラクターです。
「人間はいじめが好きだから」という著者の言葉に
「人間は罰することが好きなんだよ」と、
息子が返したくだりが強く印象に残りました。
学者や新聞記者が書いた本と異なり
「地べたの生活」に根差す視線に徹した本です。
お金に困ってる友達に息子くんが制服をあげるくだり。
「君は僕の友達だから」の言葉が魂に刺さりました。
ともあれ悪意や差別は、人間社会に万遍なく存在します。
それに自覚的なイギリス社会のありようと、
無自覚な日本社会との対比が強烈でした。
ともあれ素直に良い本だと感じました。
ひところ話題になって、ずいぶん売れたみたいです
(わたしが買ったのは15刷でした)。
こんな本が売れるなら、
まだ日本も捨てたものではない……の、かな。
どーだろうかw
タイトルチューンの『菩提樹の蔭』だけが創作小説で、あとは『郊外 そのニ』と『妙子への手紙』がそれぞれ、随筆と書簡です。
なのですが、全篇、これは中勘助さんが大事にし、可愛がっていた妙子という女の子が絡みます。
『菩提樹の蔭』の冒頭には、妙子さんとは書かれておりませんが、妙子さんがまだ子供時代、中さんのお膝にのせられ、童話のようなお話を語ってやったこと、いつしか妙子さんも娘になり、さらには結婚して、今度は妙子さんが自分の子供をお膝の上にのせていること、そのために書いた作品とのささやかな序がついております。
『郊外 そのニ』で、妙子さんの名前がはじめて出てきます。それも、まだ九~十歳の女の子。こちらは随筆なので、中さんがそれ飛ばしすぎなんじゃないかというほど妙子さんを可愛がっている姿を書き込んでおられます。
なにかあると妙子さんも中さんもお互いにキスしまくっているんですよ……(唇に、ではありませんけどね)。
で、中勘助ファンとしては、それだけで済むまい……と思ってしまうんです。
本書末尾の『妙子への手紙』を読む前から。
『妙子への手紙』では、もう妙子さんは大人の女性であり、なおかつ結婚し、お子様もおります。
でも往時のように、妙子さんはいろいろな相談を中さんを頼りにしているようなのです……中勘助さん側の書簡しか掲載されていないので細かいことはわかりませんが……。
『妙子への手紙』の末尾、たぶんもう読者は心の準備ができている、というか中勘助さんはそういう書き手、というのをわかってしまっているかのように。
ここではネタバレしちゃうので書きませんが……。
中勘助さんの哀感の詰まった一冊です。
わたしが入手したのは2000年秋の岩波一括重版の版なのですが、これをつねに読めるようにしない岩波文庫編集部にはもどかしさを感じます。
どちらも花柳界系の話なのですが、鏡花の愛した深川をもろに描くのではなく、外側……ある意味、常識や論理……正論というか……から圧されて悲恋になってしまう、どちらの作品もそんな味わいです。
お君も、お澄も、とにかく視覚的な描写が徹底しております。絓秀実、渡部直己なんかに親しんでいる方は、鏡花のお君、お澄を描く筆が、えんえんと長く続くところに、ロシア・フォルマリズムの「異化」を読み取ったと思います。
それにしても、鏡花作品は、生田耕作先生に言わせれば……古臭い、アナクロニズム……だがそれがいい、という。
それにしてもわたしの頭だと鏡花ほどの凝りに凝った美文はすらすら読めませんし、ひどいと解説を読んで「え、あそこはそういうことか!?」と気づく始末でして、ええ。
ネタバレしても楽しめる作品といえばそうなので、先に解説を読んでから……でもいいのかも。
蛇足ながら、辰巳巷談、通夜物語ともに正漢字正かなづかひなのもうれしいところ、です。
先月にブックオフで買った本。
ブレイディみかこさんと鴻上尚史さんの対談です。
ブレイディさんが以前にラジオで
「他人の靴を履いてみること」がエンパシーだ……
っていう話をしていたのが印象に残ってて。
いちど著書を読んでみたいと思っていたんです。
鴻上尚史さん、ちょくちょく人生相談を読んでますけど、
わたしが知るかぎりでは、いちばん良心的な回答者です。
ブレイディさんが暮らすイギリスの現状と、
日本のそれとを対比しながら、
文化や教育やコロナ対応(この本は2021年刊行)
などの違いについて語られます。
鴻上さんによれば「世間」は身辺の、
情や、しがらみで繋がってる世界。
「社会」は、その外側にある、
法や制度に支配されている世界です。
で、日本人は「世間」は信用してるけど
「社会」を信用していないんだ……と。
これはブレイディさんの息子さんの弁。
イギリスでコロナ禍の折、
自発的に相互扶助が立ち上がった話に絡めて言及しており、
わたしは、いろいろ腑に落ちる思いでした。
理不尽な校則やなんかの話に、
窮屈な日本には心底うんざり。
自分の頭で考えてものを言うことが、
あたりまえなイギリスが羨ましすぎる……
との感を、あらためて強くさせられたんですけど。
同時にブレイディさんが、こんなこと言ってるんですね。
世田谷の自主保育の現場を取材した折、
近所のホームレスのおじさんと交流があって驚かされた、と。
イギリスでは決してあり得ない話だそうです。
がんじがらめで抑圧的な日本だけれど、
思わぬところに緩い穴が開いているのが良さではないか。
この指摘、わたしは深く首肯させられるものでした。
「緩い穴」まで、うまく辿りつけると、
けっこう生きやすくなるのが日本社会かもしれません。
わたしの経験とも符合します。
イギリスにいると、日々、
戦って暮らしていく覚悟が求められる……
と、いう言葉も強く印象に残りました。
ともあれ読みやすく、いろいろ考えさせられる本です。
外部の目線で自分たちの社会を見つめることの大切さについて、
あらためて痛感させられます。
先月にブックオフで買った本です。
往年の大指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーと、
その後継者ヘルベルト・フォン・カラヤン。
それぞれの人となりや音楽性の違いについて、
身近に接したベルリン・フィルの元団員たちに、
インタビューを重ねた本です。
終始、わたしの関心をグリップして離さなかったのは。
元団員の証言それぞれから見えてくる指揮者たちの、
特にカラヤンの人物像に非常な興味をかき立てられたこと。
フルトヴェングラーは1954年に鬼籍に入っており、
いわば、すでに歴史上の存在です。
対してカラヤンは1989年まで存命で、
団員たちへのインタビューが2006~7年ごろ。
身近に接した生身の人間カラヤンに対する印象や評価が、
ひとによって驚くほど分かれてるんですよ。
どちらかといえば古参の楽員たちは批判的で、
より若いひとたちのほうが好意的な傾向がありました。
わたしたちはカラヤンがどんな人物で、
どんな生涯をたどったのか大筋では知っています。
けれど、その核心で何があったのかについては、
まったく何も知らないと言っていいでしょう。
特に強く印象に残ったのが、
ファゴット奏者ルドルフ・ヴァッツェル氏のカラヤン評です。
「あいつは自信がなかったんじゃないの」。
上昇志向と強欲をもって天下に鳴らした、
あの楽壇の帝王に「自信がない」ですよ?
けど考えてみると、だ。
カラヤンは下積み時代にけっこう苦労を重ねてるんですよね。
アーヘンでは音楽監督をクビになってるそうですし。
成功を掴んでからの、なりふりかまわない態度にも、
常に「やりすぎ感」がつきまといます。
どうにも強迫的で、何か弱みの裏返しに見えてくるんです。
多くの元団員からは
「孤独で自分の殻にこもりがちだった」と評される反面。
ごく、ひと握りの気脈の通じていた相手からは
「親切でチャーミングだった」という正反対の声が。
案外に、帝王の素顔は不器用な臆病者だったのかも。
芯の部分では、わたしたちと変わらない弱い人間。
そう結論づけるしか、ねーよなー。
早川書房 2023年
図書館の本。
既刊もひととおり読んだ韓国のSF作家、
キム・チョヨプの短編集です。
前作の長編『世界の果ての温室で』に続いて、
今回も大変にエモい(笑)読書でありました。
とっても感情に訴えてくるんです。
七つの短編が収められており、
いずれも異質なものどうしの交流と断絶が主題。
一瞬だけ魂がふれあい、
そして不可避に引き裂かれていきます。
SFは孤独や疎外を描くことに、きわめて相性がいいんだな。
あらためて実感させられました。
三本目の腕を希求する恋人、呼吸で会話するひとびと、
他人より何倍も遅い時間を生きる姉と、その妹……
せつないよー。
どのお話も、せつないよー。
おなじ「ダンス」という営為を共有しながら、
まったく違う世界を体験する「マリのダンス」。
信仰とタブーが支配する奇妙な惑星のおはなし
「古の協約」。
などなど、わたしは読みながら時折、
涙きそうになったことを付記しておきます。
しかし……うーん……難しい……い、いや……ちっともわからない……;;
『最後の人』はベースに恋愛小説があるのですが(『期待 忘却もそうですが』)、とにかく存在と言葉を巡る会話が頻出し、小説でそういうのぶっ込んでくる!? という。
『期待 忘却』もそうなのですが、こちらのほうがまだわかりやすいのかもしれません。タイトルどおり、「期待」と「忘却」を小説内で語り、のみならずブランショの主著『文学空間』を援用しているのかな?
結局、日常的な言語よりも、『文学空間』のように、登場人物はおろか、読者まで日常的言語が届かない、まさに『文学空間』に彷徨うだけ……そんな小説でした。
しかも差延《ディフェランス》の概念をけっこう駆使してます。この言葉、フランスの哲学者ジャック・デリダがはじめて……だと思っていたら、どうもデリダ自身、ブランショからインスパイアされていただいちゃった節が。
とにかく現代思想には、この差延《ディフェランス》やら脱構築やら、いろいろと思想空間にありますが、その根本を作ったのがブランショかもしれないというのはなかなか興味深いくだりでした。
そうそう、『最後にして最初のアイドル』を書いた草野原々先生が、当時のTwitterで「小説の可能性の一つで小説はもしかしたら箇条書きにもなるのかもしれない」って……大意ですが……って語っておられましたが、ブランショの『期待 忘却』はほぼ断章形式であり、やはり箇条書きに近いんです。
とはいえ、こういうスタイルでの文章は誰にでも書けるわけがなく、モーリス・ブランショの哲学・思想を込めたこの2in1本を折りを見て再読精読するしかないですね。
2020年
図書館の本。
わたしが通った大学には法哲学の講義がなかったんですよ。
本のなかにベンサムやミルの名前が出てきて、
イギリス政治思想史で聴いた名前だな……と懐かしみました。
当時しんどい時期だったせいでしょうか、
大学で教わったことは、ほとんど忘れてるんですけど。
ベンサムっていうと死後に自分をミイラにしてくれ……
と遺言にしたためた変人として有名ですね。
思想史的には功利主義の祖として、
きわめて優しい人物だったそといいます。
「狐だって快を求めて不快を避けるんだから、
無用な苦痛を与えてはいけない」。
存命当時に英国紳士のたしなみとされていた、
狐狩りには手を出さなかったんだって。
ベンサムおぢさん……わたしゃファンになったよ。
さて法哲学。
この本は身近な題材を入り口に、
自由な思考実験としての法哲学のおもしろさ、
奥深さを紹介してくれます。
法律だから常識だから規範だからと盲目的に従うのではなく、
ひとたび、それらを徹底的に疑ってみること。
法律とより良くつきあうためには、
法律の限界を知っておくべきこと。
そもそも何のため誰のために法律が存在するのか。
法律はほんとうに必要不可欠なものなのか。
足を止めて空でも眺めながら、
いちど考えてみるのも悪くないのでは、なかろうか。
きょうも図書館の本。
九六年に筑摩書房から出た
「トーベ・ヤンソン・コレクション」の一冊です。
このシリーズでは『フェアプレイ』と並んで、
これが強く心に残りました。
記者のヨナスは仕事中毒で、
家族を顧みることなく生きてきました。
依頼を受けて新聞王Yの評伝を書いているものの、
スランプで、どうしても筆が進みません。
行き詰ったヨナスはYの人生にフィクションを盛りはじめて……
装飾を排したドライかつソリッドな文体で、
ヨナスとふたりの娘とのやりとりが軽妙に描かれます。
終始、乾いたユーモアを湛えているところが、
この作品の(ひいてはヤンソンの)美質でしょう。
日本人にこういう話を書かすと、
ずるずるべったり重苦しくなるんだよねぇ。
最終的にヨナスは仕事をあきらめ、
目を背けてきた娘たちと向きあわざるを得ないことに。
ふだん寡黙でおとなしいマリアが感情を爆発させる場面には、
嵐の情景描写と相俟って心を打つものがありました。
ヨナスは悪人じゃないんだけど、
偏屈で不器用な人物として描かれています。
周囲の人間との関わりかたがわからず、
仕事に逃げこんできた印象を受けました。
素直に読むかぎり、
結末のヨナスの一言は晴れやかです。
美しい未来を予感させるんだけど……
案外にヨナスの破滅を暗示するものだったり、
するような気も。
どうだろうか(U´ェ`U)ピャー?
あと北欧の小島の風景描写が魅力的です。
とても行けないし住めないけど、
北への憧れをかき立てられます。
花方寿行 (訳) 国書刊行会 2023年
図書館の本。
スペインの世紀末作家による短編集です。
きわめて懶惰な情緒に浸れる一冊でした。
「聖人と亡霊、魔物(ドゥエンデ)と盗賊の物語」
という副題がすべてを語っており、
特に盗賊やならず者が多く登場します。
指輪の宝石を目当てに斬り落としたはずの、
女の美しい手に懸想して我を忘れる盗賊の話
「夢のコメディア」。
お尋ね者に魔法をかけられていると訴える、
女の言葉は真実か否か「ミロン・デ・ラ・アルノーヤ」。
全体にゴシック趣味が横溢しているのと同時に、
スペインの風土を強烈に感じさせます。
カトリックの信仰と土俗的な魔術や呪いを、
ごたまぜに金色の泥絵の具で絵付けしたみたいな……
絢爛豪華で残酷趣味なんだけど、
同時に抒情や孤独も強く感じさせるのね。
異国、異界への「旅」をさせてくれる、
稀有な読書体験でした。
花方寿行 (訳) 国書刊行会 2023年
図書館の本。
スペインの世紀末作家による短編集です。
きわめて懶惰な情緒に浸れる一冊でした。
「聖人と亡霊、魔物(ドゥエンデ)と盗賊の物語」
という副題がすべてを語っており、
特に盗賊やならず者が多く登場します。
宝石を目当てに斬り落としたはずの、
女の美しい手に懸想して我を忘れる盗賊の話
「夢のコメディア」。
お尋ね者に魔法をかけられていると訴える、
女の言葉は真実か否か「ミロン・デ・ラ・アルノーヤ」。
全体にゴシック趣味が横溢しているのと同時に、
スペインの風土を強烈に感じさせます。
カトリックの信仰と土俗的な魔術や呪いを、
ごたまぜに金色の泥絵の具で絵付けしたみたいな……
絢爛豪華で残酷趣味なんだけど、
同時に抒情や孤独も強く感じさせるのね。
異国、異界への「旅」をさせてくれる、
稀有な読書体験でした。
花方寿行 (訳) 国書刊行会 2023年
スペインの世紀末作家による短編集です。
きわめて懶惰な情緒に浸れる一冊でした。
「聖人と亡霊、魔物(ドゥエンデ)と盗賊の物語」
という副題がすべてを語っており、
特に盗賊やならず者が多く登場します。
宝石を目当てに斬り落としたはずの、
女の美しい手に懸想して我を忘れる盗賊の話
「夢のコメディア」。
お尋ね者に魔法をかけられていると訴える、
女の言葉は真実か否か「ミロン・デ・ラ・アルノーヤ」。
全体にゴシック趣味が横溢しているのと同時に、
スペインの風土を強烈に感じさせます。
カトリックの信仰と土俗的な魔術や呪いを、
ごたまぜに金色の泥絵の具で絵付けしたみたいな……
絢爛豪華で残酷趣味なんだけど、
同時に抒情や孤独も強く感じさせるのね。
異国、異界への「旅」をさせてくれる、
稀有な読書体験でした。
2016年(電子版)
劇作家として知られるブレヒトによる短編集です。
ドイツ庶民に愛された「暦物語」のスタイルを借りて、
気ままに綴られたという印象を受けます。
全体に皮肉なトーンのものが多いです。
「もしもね、サメが人間だったら」という詩に、
わたしは黒い笑いを誘われました。
小魚を洗脳する詩なんです。
鮫に食べられることこそ幸福、
鮫のお腹の中にこそ天国があるんだよ……って。
なんだよ、これ。
まったく、どっかの東洋の島国そのまんま。
「鮫」を「会社」に置き換えて読んでごらんなさい。
ドイツ版大岡裁きの「アウクスブルクの白墨の輪」、
晩年に生きたいように生きた「分不相応な老婦人」、
皮肉を交えながらもトボけた優しさが心に滲みる
「怪我をしたソクラテス」などが印象に残りました。
ブレヒトの戯曲も買ってあるから、
いずれ読んでみます。
誠文堂新光社 2016年
図書館で借りた本。
著者は生態学の研究者だそうです。
専門とする生態学を軸に、
狸をめぐる文化についても言及した、
視野の拡がる一冊。
どこか愛嬌があってトボけたイメージの狸。
これは人間の幼児にも通じる顔のつくりや、
秋に果実を食べてコロコロ太る体形など、
外見的な印象の寄与するものでは……と、いいます。
じっさいの狸は警戒心が強く、
昔話などに出てくるようなお人好しではないのだとか。
また「狐狸」と並び称される狐が肉食なのに対し、
狸は雑食で、より適応力に恵まれているそうです。
わたしも自宅近くの住宅街で、
野生の狸に遭遇して驚かされたことがあります。
人家の近くでも生きていけるんですね。
それでも狸が暮らしていくには、
ある程度の緑が必要になるとのことでした。
東京の玉川上水を例に挙げ、
開発や利便性と自然の共存を訴えるくだりには説得力があります。
著者が科学者ということもあり、
狸をめぐる文化に対する言及は、やや手薄な印象も。
できることなら、その方面に詳しい共著者を迎えてほしかったな。
とはいえ学際的な広い視野から、
身近な動物をまなざす姿勢には大いに好感が持てました。
絶滅危惧種の保護も大切だけど!
狸さんみたいな、ありふれた動物を大事にできてこそ、
人類は自然環境と調和して生きていけるのでは、なかろうか。
まず、この本は式神がどうのって本ではありません!
最初から最後まで、「東洋の経験科学」としての陰陽道を解説した本です。
つまり、正確な暦や占術などなど。
「陰陽道は、あるがままの自然に対して優しい目をむける。自然を生かしながら、それと人間の共存をはかる学問が陰陽道である」(本書29ページ)。
この言葉でがっかりしちゃうと通読は厄介かも。ちなみにフォントサイズが大きく、実際の文字量はそれほどないですし、また、難解な本でもないのであっという間に読めちゃうかと。
なぜかわからないけど効くという気功や、その人に合わせて診断し、薬剤となる食べ物や薬を出す漢方、風水、かなり「人間の生活」に密着した学問が陰陽道であると納得できる一冊です。
そして、自然との共存などを考えると、かなづかいを正統かなづかひに戻すのと同様、案外暦も太陰暦のほうがいいのかもしれません。
小周天《しょうしゅうてん》という気功の呼吸法なども取り入れたらよさそうです。
なお、安倍晴明の血筋は現代まで続いているというのはびっくりです。
内藤 里永子 (編訳) KADOKAWA 2017年
もう七、八年前にブックオフで買った本です。
たしか彼女の伝記映画が公開になるのに合わせて、
書店に並んだものでした。
映画は、やや駆け足な印象もありましたけど、
なかなか良くできていたと記憶にあります。
エミリー・ディキンスン。
いろいろ型破りな詩人です。
生涯独身で後半生は邸にひきこもって暮らしました。
また欧米の詩というと、
一般には理屈っぽく長いものという印象があります。
彼女の詩は例外的に短く平易です。
わかりやすく、とっつきやすいんだけど、
その内容の広く深いこと!
文字どおり眩暈がしてくる世界です。
Daer Emily……そう呼びかけたくなるんですよね。
その詩の抱える闇と光の果てしなさにも関わらず。
あと余談なんだけど、内藤里永子さんによる和訳。
アマゾンのレビューを見ると、
はっきり評価と好き嫌いが分かれています。
理由?
文体がガーリーすぎる(笑)。
わたし?
もちろん大好きですとも、この訳。
岩波とか思潮社から別な訳が出てんだから。
これが嫌いなら、そっち買えよな!
(´ェ`U( * ) ケツピャー!
ねぇエミリー。
あなたの詩は極東のひきこもりに響いたよ。
人類が生きてるかぎり、
あなたの詩も生き続けると思う。
印象に残ったもののなかから、
短い詩を引用しておきますね。
919
もし 張り裂ける心を ひとつ防いだら
わたしが生きたことは むだではないの
いのちの苦しみを もしひとつやわらげたら
痛みをひとつしずめたら
瀕死のコマドリを一羽
もし もういちど巣に戻せたら
わたしが生きたことは むだではないの
1026
死んでゆくときに入り用なものは
ほんとうにわずかね 愛しい人
コップ一杯の水 これがすべて
目立たない花ひとつ 白い壁の飾りに
きっと扇子も。そして友の哀悼も
ひとつ とても確かなことは
あなたが逝ってしまったら
わたしは 空に虹の色を見ないでしょう
KADOKAWA 2017年
もう七、八年前にブックオフで買った本です。
たしか彼女の伝記映画が公開になるのに合わせて、
書店に並んだものでした。
映画は、やや駆け足な印象もありましたけど、
なかなか良くできていたと記憶にあります。
エミリー・ディキンスン。
いろいろ型破りな詩人です。
生涯独身で後半生は邸にひきこもって暮らしました。
また欧米の詩というと、
一般には理屈っぽく長いものという印象があります。
彼女の詩は例外的に短く平易です。
わかりやすく、とっつきやすいんだけど、
その内容の広く深いこと!
文字どおり眩暈がしてくる世界です。
Daer Emily……そう呼びかけたくなるんですよね。
その詩の抱える闇と光の果てしなさにも関わらず。
あと余談なんだけど、内藤里永子さんによる和訳。
アマゾンのレビューを見ると、
はっきり評価と好き嫌いが分かれています。
理由?
文体がガーリーすぎる(笑)。
わたし?
もちろん大好きですとも、この訳。
岩波とか思潮社から別な訳が出てんだから。
これが嫌いなら、そっち買えよな!
(´ェ`U( * ) ケツピャー!
ねぇエミリー。
あなたの詩は極東のひきこもりに響いたよ。
人類が生きてるかぎり、
あなたの詩も生き続けると思う。
印象に残ったもののなかから、
短い詩を引用しておきますね。
919
もし 張り裂ける心を ひとつ防いだら
わたしが生きたことは むだではないの
いのちの苦しみを もしひとつやわらげたら
痛みをひとつしずめたら
瀕死のコマドリを一羽
もし もういちど巣に戻せたら
わたしが生きたことは むだではないの
1026
死んでゆくときに入り用なものは
ほんとうにわずかね 愛しい人
コップ一杯の水 これがすべて
目立たない花ひとつ 白い壁の飾りに
きっと扇子も。そして友の哀悼も
ひとつ とても確かなことは
あなたが逝ってしまったら
わたしは 空に虹の色を見ないでしょう
2011年(電子版)
紙だと上下二巻で1200ページ超え。
大ボリュームを誇る長編です。
ひと月くらいかかって電子で読了できました。
モームといえば短編の名人との声望が高いですし、
わたしも留保なく同感です。
同時に、この長い本も非常に優れたものでした。
ある程度まで著者の体験を踏まえた自伝的な小説です。
「自分の体験ばかりでなく、
周囲のひとびとから聞いた話も素材にした」とは、
モーム自身の弁。
幼くして両親を亡くしたフィリップは、
牧師の叔父夫妻に引き取られて育ちます。
小児麻痺で足に障害を負い、
学校ではいじめに遭って苦労することに。
パブリック・スクールを卒業直前にドロップアウトし、
会計士の見習いになるものの水が合いません。
パリに向かって画家を目指すフィリップの行く末は……
酷薄なまでに鋭い観察眼と、
人間の愚かさや過ちを否定しない包容力。
やっぱりモームさん偉いわ。
わたしが特に興味深く読んだ部分のひとつが、
印象派が前衛だった時代のパリ。
当時の画学生たちと、つかのま、
おなじ空気を吸っているように感じられました。
パリ時代が終わり小説が折り返し地点を過ぎたあたりから、
ミルドレッドという女性が登場。
喫茶店のウェイトレスをしています。
このミルドレッドさん、作中ではまったく魅力的に描かれてないんです。
「頭が悪い」「退屈」とモームさん断言。
紙だと上下二巻で1200ページ超え。
大ボリュームを誇る長編です。
ひと月くらいかかって電子で読了できました。
モームといえば短編の名人との声望が高いですし、
わたしも留保なく同感です。
同時に、この長い本も非常に優れたものでした。
ある程度まで著者の体験を踏まえた自伝的な小説です。
「自分の体験ばかりでなく、
周囲のひとびとから聞いた話も素材にした」とは、
モーム自身の弁。
幼くして両親を亡くしたフィリップは、
牧師の叔父夫妻に引き取られて育ちます。
小児麻痺で足に障害を負い、
学校ではいじめに遭って苦労することに。
パブリック・スクールを卒業直前にドロップアウトし、
会計士の見習いになるものの水が合いません。
パリに向かって画家を目指すフィリップの行く末は……
酷薄なまでに鋭い観察眼と、
人間の愚かさや過ちを否定しない包容力。
やっぱりモームさん偉いわ。
わたしが特に興味深く読んだ部分のひとつが、
印象派が前衛だった時代のパリ。
当時の画学生たちと、つかのま、
おなじ空気を吸っているように感じられました。
パリ時代が終わり小説が折り返し地点を過ぎたあたりから、
ミルドレッドという女性が登場。
喫茶店のウェイトレスをしています。
このミルドレッドさん、作中ではまったく魅力的に描かれてないんです。
「頭が悪い」「退屈」とモームさん断言。
外見も「骨と皮」「緑色がかった貧血気味の肌」と、
情け容赦ありません(笑)。
まるで世紀末絵画に出てくる死美人ぢゃないかw
にも関わらず(?)フィリップは、
ミルドレッドに夢中になります。
振り回されて散々な目を見ることに……
フィリップやめとけ、そんな女。
わたしは本に向かって、
何度そう説教してやりたくなったことか。
特筆すべきは彼女の桁違いな存在感なんですよ。
こればっかりは読んでもらわないと!
わたしは虚構の産物のミルドレッドが、
目の前で呼吸してるくらいなリアルさを感じさせられました。
さて。
ネットで軽く調べたらミルドレッドについて
「傲慢な美女」と書かれています。
いや美女は違うでしょ、作中ではw
一見すると傲慢に見えなくもないんだけど……
「ちょっと足りない気の毒な子」。
わたしがミルドレッドに抱いた印象です。
とにかく衝動的で著しく思慮を欠いており、
後先を考えるとか他人を思いやるとかの機能がついてませんw
計算ずくで立ちまわる悪女とは、
あきらかに違ってるんですよ。
モームは「頭が悪くて退屈」と書いてますけど、
これ、外見に現れないハンディキャップの産物じゃないの?
誤解を恐れずに書いてしまうと、
ある種の発達障害とか境界知能を思わせるところがあります。
自分の話に集中できず道筋を見失ってしまうとか……
「ミルドレッドには男性のモデルがいたのでは?」。
ネット上には、そういう憶測も目にできました。
モームがゲイで男性を愛したことは広く知られています。
不実で愚かな恋人に翻弄されて痛い目を見た経験から、
ミルドレッドという人物が生まれたのでは、なかろうか。
そう解釈すると辻褄が合うんですよね。
ともあれ『人間の絆』は玩読に値する優れた小説です。
詩人のクロンショーから贈られたペルシャ絨毯の切れ端になぞらえ、
フィリップが人生の意味を洞察するくだりが深く心に残りました。
世俗的な成功や型にはまった幸福ではなく、
ほんとうの人生の意味とは、いったい……
読んで答に出会ってください。
そう言いたくなります。
図書館の本。
旧ソ連の詩人アンナ・アフマートヴァ最初の詩集です。
なんと短歌形式で日本語にするという、
大胆な試みの和訳になってます。
ひとつのテーマごとに、
いくつかの短歌がまとめられてるんですよ。
これ、原文のニュアンスは、
どんなものだったんでしょう。
ひとつの詩をばらばらの短歌にしちゃったとか?
だとしたら乱暴な。
わたしはキリル文字もロシア語もわかりませんから、
併録されてる原詩を見ても途方に暮れるだけなのですけどw
素直に短歌として読もうとすると出来の良いものも、
ちょっと無理があるかもと感じさせられるものも。
印象に残った歌を、いくつか引いておきますね。
太陽の記憶こころに弱まれば闇のこの夜にまさに冬来る
死なしめよ白き吹雪に思い遂げしは洗礼祭の一月の夜
寄る辺なく胸凍えても歩みは軽く左手袋みぎてにはめる
墓地の場所探しもとめて明るきをきみは知らずや海辺も野辺も
われのほかおみなごはみな幸多しわれ枷のがれ轢かれて死なん
淵深き水車の池に身を投げん叫ばずに聞く牧童の笛
図書館の本。
ポーランドのノーベル賞詩人、
ヴィスヴァ・シンボルスカ最晩年の詩集です。
シンボルスカさんは一昨年、
八十八歳で亡くなったといいます。
『瞬間』は彼女が七十九歳のころ出されたもの。
「政治家が掲げるような大げさな理想」を退け
「平凡な人間のささやかな日常に潜むドラマや驚き」
に目を向け続けた姿勢に、
わたしは強く惹かれるものがありました。
たとえば、こんな詩があります。
とてもふしぎな三つのことば
「未来」と言うと
それはもう過去になっている。
「静けさ」と言うと
静けさを壊してしまう。
「無」と言うと
無に収まらない何かをわたしは作り出す。
こんなのも。
すべて
すべて、というのはー
厚かましく、うぬぼれで膨れあがった言葉だ。
書くときは引用符でくくってやらなければ。
何ひとつ見逃さず
集めて抱え込み、取り込んで待っているふりをしている。
ところが実際には、
暴風の切れ端にすぎない。
わたしたちが「あたりまえ」だと、
見過ごしている日常のなかに、
どれほど多くのものが眠っていることか。
以前にも取り上げた『提婆達多』を読んでいるとそれほどでもないと思いますが、『銀の匙』しか知らないで読むとけっこう衝撃が大きいかと思われます。
紀元1000~1026の間、回教徒たちによるインドの偶像教徒の迫害……と思わせておいて、いわば敵である回教軍の隊長に惚れてしまう女性の言葉に狂おしいほど悶絶する主人公のバラモンの僧侶。
ここらでもなかなかドロドロしてて凄みが効いているのですが、なんと、バラモンの僧は呪法で、その女性と自分を犬に変身させ肉欲と我執の世界で溺れるのです……!
かわいそうなのが巻き込まれたその女性ですよね……;;
そしてネタバレするわけじゃないのですが、その呪法で犬になった二人の最後は……。
たった88ページの作品ですがなかなかいろいろと詰まってます。とはいえ、わたしはこの作品だったら『提婆達多』のほうが中勘助らしいとは思います。
そして、中勘助自身が「恋愛が性欲獲得と目的とし(中略)わたしは恋愛をもたないし、もちたいとも思わない(中略)私はすべての愛欲を知慧のもとに調節し、浄化し、駆使して、ほの暗い人生の照明とし、道徳的向上の質としようとするものである」という志で書いたようなのですが、なにごとにも程度はあるとはいえ、わたし自身が凡俗・暗愚の徒なもので、肉欲や我執があるからこそ人間ではないのかなって思ってます。
もちろんそれは昇華されてもっと崇高になることもあれば、ただの肉欲我執を超えてある種の異常になることもあるのですけどね……。
でもこういうことを書くと、『必読書150』(著者多数 太田出版刊)で北村透谷の項で柄谷行人がそう書いていたように「そういうあなたは中勘助を超克したわけではない、ただあなたは徳川時代の町人なのだ」とか言われそう。
しかし本書も現在、品切れ中とは……。
新潮クレスト・ブックスから長編の邦訳も出てる、
アリ・スミスによる短編集です。
スコットランドでは脂の乗り切った作家と、
衆目が一致してるみたいですけど。
これは世界水準で見ても妥当でしょう。
もうねぇ、おもしろいのよ!
筋はあって無いようなお話ばっかりなんだけど。
奇特な状況設定と、
突っ走ったり転倒したりする語り口の妙で。
いったん捕まったら逃げられません。
こいつぁ凄ぇぜ(U`ェ´) ケッピャッハーッ!!
近所の家の庭木に恋する話、
『グレート・ギャツビー』の本でボートを作る男、
他人には聴こえないパグパイプの音につきまとわれる老女……
わたしとしては至極まともなようでいて、
頭のネジが緩んだり吹っ飛んだりしてる三姉妹が登場する
「天使」がいちばんツボったかな。
「物語の温度」も好き。
クリスマス・イブの夜、
教会に侵入してきた女三人組の非常識な善意のおはなし。
人生の真実が、ここにはあると思う。
設定的にはあり得ないお話ばっかだけど!
小説、とりわけ短編の醍醐味のひとつは、語りの妙だよね。
あらためて気づかせてくれる一冊です。
メノンがソクラテスに問う、「『徳』は人に教えられるか?」という問題を、例によってソクラテスが徹底的に問題をあらゆる角度から吟味するという内容です。
もはやソクラテスは誘導尋問レベルです。
しかも、ある程度メノンとソクラテスの議論が続くと、今度はソクラテスが……まるでメノンの問いを脱構築するように……「そもそも『徳』とはなにか、どういう状態か」という議論を始めるにいたります。
そして、「想起」という概念をソクラテスは提唱します。
人間は転生を繰り返すもの。
誰の中にも、原石のように「徳」がじつはひそんでおり、問題はそのひそんだ「徳」の「想起」にかかっているのです。
この考えは、当時のプラトンの哲学の途中であり、本書でプラトンが展開させる問題は、もっとあとの著作で「イデア論」などに結実します。
イデア……たとえば猫でいえば、猫と一言でいっても、牡牝の違い、被毛の色や模様、性格……などなど、現実にはたくさんの猫の違いがありますね。
だけども、人が「猫」という言葉で描くのは、抽象的・具体的に特権として浮かぶ「猫」のイメージなのです。
なので、「徳」といってもこれはイデアに沿って(本書ではイデアの概念はまだできておりませんが)、「徳とはなにか」というソクラテスの問いはもっとも根源的なものなのです。
『メノン』の本編は118ページぐらいしかありませんが、かなり手応えのある本です。
事実、現代思想などといっても、プラトンの思想、哲学はまだまだ完全に乗り越えられてはおりません。ニューアカなんて言葉が現代思想について語られたことがありましたが、ニューアカなどと言ってる暇があればプラトンをまずは! って本ですね。
東京創元社 2023年
日本でも『犯罪』が評判になった、
ドイツの元刑事弁護士の作家シーラッハによる戯曲です。
本編に続く形で収められた付録や解説が非常に充実しています。
愛する妻を亡くして生きる気力を喪失したと訴える、
元建築家ゲルトナーの訴えを受けて……
医学・法学・神学の参考人たちが登場。
臨死介助をめぐる是非が法廷で議論されます。
法廷劇だけあって、えらく理屈っぽいけど読みやすいです。
わたしは弁護士ビーグラーが、
保守的なティール司教を論破しまくるくだりを、
愉快に読みました(笑)。
正解の存在しない問いを扱う本です。
最終的な判断は観客(読者)に委ねられます。
「尊厳死を選ぶ権利」が認められて然るべきだと、
わたしは思いながら読んでいましたけど……
宮下洋一さんの解説によると、
ことはそう単純に解決しなさそうです。
海外ではひとたび安楽死を望んだ癌患者が、
病を克服して過去の判断を後悔している事例もあるのだとか。
いかなる法においても「拡大解釈」が生まれることは避けられない。
それだけに「生か死か」の二者択一を迫る法に対しては、
慎重な態度で臨むべきだ……
この問いかけは重いですね。
また「死ぬ権利」が公然と議論される西洋の
「個が尊重される社会」を、
「自己決定すら難しい」日本の現状と比較して……
わたしが素朴に羨ましく思ったことを、最後に明記しておきます。
日本でも『犯罪』が評判になった、
ドイツの元刑事弁護士の作家シーラッハによる戯曲です。
本編に続く形で収められた付録や解説が非常に充実しています。
愛する妻を亡くして生きる気力を喪失したと訴える、
元建築家ゲルトナーの訴えを受けて……
医学・法学・神学の参考人たちが登場。
臨死介助をめぐる是非が法廷で議論されます。
法廷劇だけあって、えらく理屈っぽいけど読みやすいです。
わたしは弁護士ビーグラーが、
保守的なティール司教を論破しまくるくだりを、
愉快に読みました(笑)。
正解の存在しない問いを扱う本です。
最終的な判断は観客(読者)に委ねられます。
「尊厳死を選ぶ権利」が認められて然るべきだと、
わたしは思いながら読んでいましたけど……
宮下洋一さんの解説によると、
ことはそう単純に解決しなさそうです。
海外ではひとたび安楽死を望んだ癌患者が、
病を克服して過去の判断を後悔している事例もあるのだとか。
いかなる法においても「拡大解釈」が生まれることは避けられない。
それだけに「生か死か」の二者択一を迫る法に対しては、
慎重な態度で臨むべきだ……
この問いかけは重いですね。
また「死ぬ権利」が公然と議論される西洋の
「個が尊重される社会」を、
「自己決定すら難しい」日本の現状と比較して……
わたしが素朴に羨ましく思ったことを、最後に明記しておきます。
デビュー作の『野獣死すべし (正編)』もいいのですが、ちょっと意外だったのが、こちらはけっこう衒学趣味がちりばめられているのですよ。
そちらもよいのですが、やはり自分の父の会社をハメて奪い取っていった京急コンツェルンへの復讐譚が小気味よい『野獣死すべし 復讐編』のほうがもう痛快で痛快で。
主人公、伊達邦彦の活躍と描写がもう恰好よすぎ!
これはハマります!
wikiで調べたら伊達邦彦シリーズはまだまだあるので読んでみたいですね……。
復讐編、ですが、かなり難しそうな三星銀行への攻撃、現金輸送車襲撃や、銀行の莫大な資産を狙う計画などああそうくるか……という。
コルト、ベレッタ、ブローニング、ウインチェスター、米軍の通称グリース・ガンなどなど、多彩な銃器とその描写も素敵。
それにしても、昔は角川文庫っていえば大藪春彦さんと西村寿行さんのイメージが強かったのですが、今は大藪春彦さんといえどあまり読まれないのかしらね。
本邦初訳。
アンナ・カヴァン姐さんの半自叙伝的長編です。
筋らしい筋はありません。
著者みずからのこととおぼしき独白に続いて、
孤独な少女Bが彷徨う夜の世界が静謐に綴られます。
『氷』なんかと同様っていうか、
わたしはカヴァンの小説はすべて、
散文詩として読むべきものだと思っています。
この本なんか最たるものね。
だから物語や劇性を期待するなら、
こんなに退屈な文芸書も、あまりないでしょう。
けれど全編を満たす夜と死の濃厚な気配。
昏く極美なイメージの饗宴!
生きる意味を見出せず地上を彷徨う、
苦渋に満ちたその営みを、
どうして、こうも美しく描きだせるものなのか。
わたしは何度も溜息を吐かされました。
夜の帳のなかでしか安らげないひと。
昼の光のなかでは生きていけないひと。
これは、あなたのための本ですよ。
読みやすく、ねたもドロドロしたものが多いので楽しいです、この本。そしてかなり役に立たないトリビア満載ですねb
鳥は神聖や山から人間の世界にやってきた神意の伝達者、なので今でも神社の境内には(霊獣として)鳩が飼われている、とか。
「蛇に犯されたときの治療法」、なんて強烈なサブタイトルの文もあります。基本的に本書は見開き2ページがひとつのねたなので、なんだか集中力のないわたしでも楽しめました。
小野小町が雨乞いの和歌二首を詠んで見事に雨を降らすことに成功したとか。今調べたら、一首は「千早振る神も見まさば立騒ぎ 天の戸川の樋口あけ給へ」なのですがもう一首がわかりません。
歌といえば、例の安倍晴明のお母様、きつねの葛の葉さまが残していった歌、「恋しくばたづね来て見よ和泉なる 信太《しのだ》の森のうらみ葛の葉」もいいです。
しかしこの手のを読みたければ、『日本霊異記』なんかを読めばいいのかな? 角川のビギナーズ・クラシックスにあればいいんだけど……。
ちょっとでも民俗学や文化人類学などをかじったことがあると、ああ~という内容ですが、80年代後半の〈少女〉(または〈少女性〉)を巡る言説にはなにかこう懐かしい(歳ばれ発言ですかねw)ものと、なるほどなるほど……となるような題材と論旨が続く本です。
読んでないのでさも知った顔で書くのもなんですが、フィリップ・アリエスが書いた『〈子供〉の誕生』のように、少女もまた、本来の大人か子供の二択から解放されます。
第二次性徴を迎え、子供でもないし、かといって大人でもない女性を〈少女〉として扱い、当の少女たちも、「かわいい原理」でもってその〈少女性〉を自らの意志で生き始めます。
ちなみに明治天皇は女学生の(少女の)袴姿がお嫌いだったとかトリヴィアとともに、なぜ嫌いだったのか……まあ袴はもともと男性の服ですし……もちろん、セーラー服ももともとは男性の服、しかも軍服です。
〈少女〉ならではの「越境」がそこにはあります。袴、セーラー服、ブレザーと制服はみんな、少女にとっては男装であり、これは、〈少女〉であり、大人の女性であることを拒否する感受性が働いていること。
それにしても、資本主義は「かわいい原理」すらも取り込もうとしました。「資本主義には恥というものはない」(大塚英志)。
しかし、資本主義でも〈少女〉たちを上手に操れなかったこと、それはその〈少女〉の終わりと、そこからはじまる〈女〉としての生活、でした。
この着目点は、民俗学や文化人類学的には当然すぎるぐらいのものですが、〈少女(性)〉についても大いにあてはまるのです。
異界(タナトスを直接味わえるような)との交信。
しかもそれを表現するならば「かわいい原理」(←とは大塚英志は書いておりませんが)と巫覡性(巫女性)のミックスなのです。
出窓はあってもドアすらない、かわいいインテリアや雑貨で埋め尽くされたお部屋の理想像や……昭和天皇が御病気のときの快癒を祈る記帳に当時の女子中学生や女子高生が訪れたこと……さらにはこのために通称丸文字が出来たのではないかという「ポエム」の出現とか(『MY詩集』誌など……と書いてももう通じるかわかりませんね)……。
↓
そして、著者の指摘は、「おじさん」の中の〈少女性〉に向かいます。そう、いわゆる大人の中でも、もはや往時のような成長物語は無効なのです。
さて、なら、現代へ話を移すと、たしかに「かわいい原理」や〈少女性〉は当の少女たちよりも、もっと精神的な世界でもってかなりの割合が「かわいい」という終わりのない〈少女性〉に埋め尽くされているのではないか。
かわいいや少女性に終わりはない。
それはもはやパソコンやらIT系の技術によって裏打ちされているような感すらあります。Vチューバーとかね。ちょうど昨日ギガジンかなにかで読んだ記事にはBlueskyやPython、Discordなどのロゴをかわいくしたのが実装とか読むと、本当に〈少女化〉と「かわいい原理」の力を感じます。
作家であるマッツ夢井の元にある日届く「B98号」宛ての「召喚状」。差出人は総務省文化局・文化文芸倫理向上委員会。通称ブンリン。
召喚は当然マッツ夢井へ向けてのもので、千葉の海岸近くにある「療養所」で、ひらたく言えば国や政府、社会的に「よろしくない」ことを書きつける作家を講習によって「矯正」させる施設……とでも書ければいいのですが、実際にはそんなマイルドな表現など生ぬるすぎ、本当は刑務所などよりもずっと残酷で苛烈な、作家どころか人権さえ剥奪され、ずっと監視をされる毎日を送ることになります。
療養所では、規則を破ったりするごとに「減点」があり、マッツ夢井ことB98号はあっというまに減点7を食らいます……減点1ごとに一週間、拘禁は続くのです。
誰が味方なのか、あるいは本当に全員が敵なのか、療養所での毎日にはそんな精神的に消耗するようなことばかりで、何事ももう信じられない、かと思えば……一縷の希望がさしてくる……けれどそれもあとになって見れば、仕組まれた工作であったり……。
主人公マッツ……じゃない……B98号の独白をずっと読んでいると、常に監視され、常に圧倒的優位の施設の職員達の下劣な発言にさらされ、物理的に社会どころか同じ収監された仲間の作家とすら接点がなく……どんどんと精神がすり減って疑心暗鬼にとらわれるのです。
たとえば食の問題一つとってもそう、クソ不味そうな食事だけでも、それがなくなると、あるいは食べていても、例えば甘いお菓子、いや、塩気のある水ではなく、冷えた美味しい水の一杯だけで、ころっと精神がなびいてしまう……。
↓
取り憑かれています、と書いたけども、これまで小説を読んできて、こうまで身体が震えるほどの恐怖を味わったことがありませんでした。
表現の自由、という原理的な問題を巡っていたり、そもそもの国とその権力……少し前にあるYouTuberさんが、新型コロナのワクチンを推してくれれば300万円だかを報酬で……ということがあったと暴露したり(某有名YouTuberさんなんかも報酬をもらって……だったとか)、そういう時代に生きています……本書が現代の日本とは隔絶されたように読める人は皮肉抜きで幸せなのかもしれません。
本書をほとんど内容で紹介しておりませんが、わたしにはこんな怖い小説を読んだのははじめてです。
そして、「日没」……日はもうすでに沈みかけています……あるいはもう沈んで遅いかもしれない……なにを信じたらいいのかなにが自分を巡るセコいけれどそれだけ突き刺さる陰謀なのか……刺さるといえば、小説を書いている読書好きな方には刺さるでしょうが、安直に推すことはできかねます。
そうそう、まだ書きたりないことがありました。
この療養所の職員達は、どう読んでも、ジャンルはなんであれ、小説家、作家などに逆差別的な憎しみを抱いています。
単なる国家的、社会的な矯正施設とその実行、というだけでも怖いのですが、それを遂行する職員たちは「作家先生」に激しい憎しみと劣等感を持っているようです。作家の夢を諦めた人なんかも、こういう施設で、収容直前までは「作家」だった人物を虐待しては快感を得る、そんなパターンもあったのではないか、と……。
光文社古典新訳文庫 2011年(電子版)
「ミステリ」をキーワードに選ばれたモームの短編集。
いずれも狭義の推理小説ではなく、
なんらかの「謎」を感じさせる作品を揃えています。
いやぁ相変わらず、おもしろいわー!
モーム。
小説の技巧もさることながら、
緻密な人間観察には唸らされます。
さらに魅力的なのが着かず離れずの独特な……
いわば良い意味で「大人」の人間観ね。
たとえば「ジェイン」。
お人好しで飾らない中年女性が、
その素直さゆえに社交界の花形に。
ジェインを意地悪く見下してた自信家のミセス・タワーが、
何かあるたびヽ(U ˙罒˙)ノ<キーーーッ!!ってなんのw
あるいは「マウントドレイゴ卿」。
才能にも出自にも恵まれた外務大臣は、
見下していたライバル議員に恥ずべき秘密を……
傲慢で冷淡な俗物貴族の姿に、
モームの人間観が窺えます。
俗物を徹底的にやっつけることなく
「人間の卑小さ哀れさに対する敬意」
を感じさせるあたりモーム凄いな、と。
わたしはあらためてシャッポを脱がされましたよ。
近年では忘れられつつある作家の感がありますけど、
もっともっと読まれてほしいモームさん。
おもしろくて、ためになるんだってば!
ほんとよ。
2015年(電子版) 底本は1969年刊の旺文社文庫のようです
中学生のころ学校の図書館で手に取ったのが、
たしか旺文社文庫版の、この本でした。
標題作の「赤い花」では、
精神病院に入院させられた患者の男が主人公です。
ガルシンの入院体験を踏まえた作品だそうで、
執筆当時のロシアの精神病院事情がリアル。
患者は病院の敷地に咲いた罌粟の花が、
この世の悪の根源だと強く思いこみます。
誰にも理解されない戦いが始まり……
ガルシンの代表作といえば、これだと思います。
ひとりよがりもここまでくれば立派というか。
世に理解されない良心のありようを、
ここまで切実に掬いあげた小説もめずらしいです。
ほかに「信号手」「四日間」
「アッタレーア・プリンケプス」が、
特に優れた作品だと感じました。
「多くのひとには読まれないが、
好きなひとは、ほんとうに好きになる作家」。
訳者あとがきでのガルシン評には首肯させられました。
これからも細く長く読み継がれてほしいです。
『埃だらけのすももを売ればよい』に紹介されていたうち、
唯一まとまって日本語訳の出ている詩人。
アンナ・アフマートヴァの詩集です。
わたしこの本、たしかに持ってるはずなんだけど!
行方不明なので図書館で取り寄せてもらいましたw
検閲で長いこと発表が禁じられており、
近年になって発見されたのだとか。
アフマートヴァの息子は投獄されており、
詩人は差し入れの品を携えて監獄前の列に並んだそうです。
その場で見知らぬ女性から
「この体験を詩にできますか」と問われたといいます。
この本に収められた詩は、
監獄の行列での体験から生まれました。
ふたつ引用しますね。
静かに静かなるドンはたゆたい
黄色い月は家に入る
帽子をかたむけ家に入ると
黄色い月は影をみる
この女は病気です
この女はひとりです
夫は墓に 子は牢に
祈ってください 私のために
*
いいえ 私じゃない 苦しんでいるのは別の女
私にできるわけがない あのことには
黒い幕をかけてランプもあっちへやってください……
夜
図書館で借りた薄めの文庫本。
二ヶ月くらい、わたしの手もとに来てたかな。
あした何度目かの返却期限日です。
ようやっと読了できました。
読み進めるのが、もったいなかったんだよ(U´ェ`)プピピ!
左川ちか。
ずっと幻の詩人でした。
彼女の名前と、ごく一部の作品を知ったのは、
もう四半世紀くらい前のことになるのかな。
何かのアンソロジーか
『現代詩手帖』の女性詩特集だったと思います。
読みたくても詩集が手に入らなかったんです。
以前はどこかの篤志家がネット上に、
左川ちかの作品の一部を公開しておいてくれて。
そこで読めたんだけど、
いつのまにか見られなくなってしまいました。
彼女の作品の特徴は、
その鮮烈な生と死のイメージにあると思います。
耽美的といえなくもないけど、
何か、もっと切羽詰まったものを感じさせるんです。
あるいは若くして亡くなってしまったことと、
作風には何らかの関連があるのでしょうか。
たとえば比較的有名な、これ。
海の天使
揺籃はごんごん鳴つている
しぶきがまひあがり
羽毛を掻きむしつたやうだ
眠れるものの帰りを待つ
音楽が明るい時刻を知らせる
私は大声を出し訴へようとし
波はあとから消してしまふ
私は海へ捨てられた
とうとう岩波文庫に入りました。
ちかさんの詩、古典の殿堂入りしたってことね。
これから末永く、
必要とするひとのところへ届き続けますように。
2006年(電子版)
紙で読んで気に入ってた安西徹雄訳の『リア王』。
電子で買い直しました。
裏切りと罵詈雑言に不幸のオンパレード!
じつに愉快痛快で胸のすくお話です。
アホと狂人と変質者しか出てきません。
とっても素敵なご本です。
ほんとよ?
何が良いって台詞のひとつひとつに、
歳月を経ても摩耗しない機知が活きてるんですよ。
それに欲やエゴに囚われて自分を見失っていく、
人間の愚かさ醜さが余さず活写されています。
かつて吉野朔実さんが漱石を評して
「苦悩をエンタテインメントとして読める」
と書いてましたけど……
わたしはシェイクスピアが
「人間のおぞましさをエンタテインメントとして」
戯曲に封じることに成功したと感じました。
訳者の安西さんは舞台演出を手がけていたそうで、
そのおかげか台詞ひとつひとつの切れ味が鋭いこと。
たぶん何度読み返しても、
そのたび異なる顔を見せてくる作品だと思います。
リアにつき従って荒野を彷徨う、
道化がとりわけ強い印象を残していきました。
主リア王を「おっちゃん」と呼び、
舌鋒鋭い皮肉を切れ目なく繰りだします。
リアが完全な狂気に陥ってから、
道化はいっさい登場しなくなるんですよ。
きわめて意味深だと思いません?
光文社古典新訳文庫 2024年(電子版)
忘れもしない中学二年のころ。
古本屋で見つけた創元推理文庫の
『吸血鬼カーミラ』が、わたしを虜にしました。
平井呈一さんの名訳によるものです。
今回の古典新訳文庫版は南條竹則さんの訳。
平井訳ほど強い個性は感じられませんが、
日本語として自然にこなれており、
かつ意訳臭も希薄で秀逸だと思います。
あらためて読むとレ=ファニュの語り巧者なこと!
苔むした石垣やお城お邸の出てくる、
ゴシック的な雰囲気づくりでは右に出るものがありません。
容貌や性格などの人物描写も的確です。
レ=ファニュの怪奇小説が、
十代の地獄で、どれほどわたしを救ってくれたことか!
夢中になったことでつかのま現実を忘れられただけでなく。
はじめて海外文学や外国文化へ目を向けさせてくれた恩人が
『吸血鬼カーミラ』だったんですよ。
懐かしい親友に再会できた気分です。
カーミラ、カーミラ♪
わたしの素敵なお友達☆彡
カーミラ、カーミラ♪
わたしの大事なお友達☆彡
そうそう。
この新訳文庫版は、訳者によるあとがきが充実しています。
レ=ファニュの人となりが掴めて重宝です。
余談。
標題作の「カーミラ」。
ここまで萌える話だったのね……
初読当時には気がつきませんでした(笑)。
1587年に発行された民衆本です。当然ですが、ゲーテの『ファウスト』みたいな純文学Xグレートヒェンとの恋バナwX後半の欧州教養ぶちまかし……みたいなのは一切なし!
当時の民衆にうけるようないたずらだの占星術だのの内容に加えて、キリスト教、それもプロテスタント寄りの教化を狙ったような(しかもとってつけたような)教訓めいた側面があったり、なかなか面白い読み物です。
グレートヒェンとの恋愛沙汰がないのがちょっと残念でしたが。
なお、併録で人形劇用の台本まで入ってます(わりと短め)。
さて、一番の読みどころ……といっては民衆本版のファウスト博士に悪いかもしれませんが、巻末の訳者・松浦純先生の50頁近い論考が面白いのです。モデルとなった人物やら、書誌的な解題、それにやはりさまざまなファウスト伝説の考察とか。
それにしても、ファウスト伝説がこんな感じで残り、ゲーテの『ファウスト』は当然ですが、民衆にうけた本の野趣に富むヴァージョンまでこうして日本語、達意の名訳で読めるとは……b
やっと「ドイツ民衆本の世界」III巻まで読了。残りはあと三冊。読破がもったいないような……。
光文社古典新訳文庫 2017年(電子版)
百年ほど前の作品で、もともとは息子さんのために書かれた童話だとか。
主人公は十歳の男の子。
罰として閉じこめられた部屋で、
鏡の内側の世界へ旅する不思議な体験をします。
ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』そっくり。
どうやらボンテンペッリは、
キャロルのアリスを読んで参考にしていたみたいですね。
ただし、お話の印象は正反対といえるほど異なります。
キャロル作品にあった言葉遊びや、
アッパーなクレイジーさは、この作品にはありません。
静かで抑制された筆致で、
淡々とダウナーな狂気が語られていきます。
わたしはキャロルより、こっちが怖いと思いました。
鏡のむこうの世界で、
チェスの王さまが男の子に語ります。
きみたちは自分のいる世界が本物で、
こちら側は幻や偽物だと思ってるんだろう?
とんでもない間違いで、
鏡のこちら側こそが、ほんとうの世界なんだよ……
それから挿絵!
初版の原書に掲載されていた、
セルジョ・トーファノによる絵を漏れなく収録しています。
これが、なんともセンスの良い楽しいものなんです。
挿絵だけでも一見の価値あり。
ハヤカワ文庫SF 2009年(電子版)
日本語訳の初出は1972年刊のハヤカワSFシリーズ
大富豪マラカイ・コンスタントの前に、
全知全能の怪人ウィンストン・ナイルズ・ラムファードが出現。
舞台は地球から火星、水星さらにタイタンへ転々とします。
マラカイの、そして人類の運命やいかに。
悪ふざけ、そのものを地で行ってるバカ話ですけど!
なぜか涙が出てきます。
ほんとよ?
これは傑作。
壮大かつ、みみっちい。
とことんシニカルで、どこまでも心優しい。
そういうお話。
訳者の浅倉久志さんは、あとがきでヴォネガットを
「とても話し上手のおじさん」と評しています。
そのとおりだわ。
おじさんが凄いのは、
話し上手の技巧に溺れないところ。
言いたいこと、言うべきことに物語を奉仕させてるけど、
それでいて、ちっとも説教臭くありません。
ほんとよ。
これ傑作なんだってば。
ヴォネガットおじさんは人間の愚かさに、
ほとほと愛想が尽きかけてた様子だけど。
人間そのものを心底から嫌いには、なれなかったんだろうな。
余談だけどブライアン・オールディスが本作を
「ワイドスクリーン・バロックの代表作」
と評してるそうです。
この分野ではバリントン・J・ベイリーの印象が強く、
ヴォネガットが挙げられるのは、ちょっと意外でした。
2009年(電子版) 日本語訳の初出は1972年刊のハヤカワSFシリーズ
大富豪マラカイ・コンスタントの前に、
全知全能の怪人ウィンストン・ナイルズ・ラムファードが出現。
舞台は地球から火星、水星さらにタイタンへ転々とします。
マラカイの、そして人類の運命やいかに。
悪ふざけ、そのものを地で行ってるバカ話ですけど!
なぜか涙が出てきます。
ほんとよ?
これは傑作。
壮大かつ、みみっちい。
とことんシニカルで、どこまでも心優しい。
そういうお話。
訳者の浅倉久志さんは、あとがきでヴォネガットを
「とても話し上手のおじさん」と評しています。
そのとおりだわ。
おじさんが凄いのは、
話し上手の技巧に溺れないところ。
言いたいこと、言うべきことに物語を奉仕させてるけど、
それでいて、ちっとも説教臭くありません。
ほんとよ。
これ傑作なんだってば。
ヴォネガットおじさんは人間の愚かさに、
ほとほと愛想が尽きかけてた様子だけど。
人間そのものを心底から嫌いには、なれなかったんだろうな。
余談だけどブライアン・オールディスが本作を
「ワイドスクリーン・バロックの代表作」
と評してるそうです。
この分野ではバリントン・J・ベイリーの印象が強く、
ヴォネガットが挙げられるのは、ちょっと意外でした。
底本は1975年第1刷、1976年第2刷の岩波版ほるぷ図書館文庫『あかい花』
これも童話風の掌編。
暑い日の午後に草むらで、
馬や虫たちが思い思いに自分の長所と短所を語りあいます。
思いがけない闖入者によって、
小さな会合は惨憺たる最期を迎えるのですけど……
皮肉で意地の悪い話にも思えますし、
小さな生き物への愛惜に満ちた話にも思えます。
たぶん、どっちも正解でどっちも間違い。
この密度の高さがガルシンの美質でしょうね。
わたしも知らずどこかで、
小さな生き物たちの団欒を破壊しまくってるはず。
人間とは、なんと罪深いものか。
やぁねぇ!
モンテーニュなんかの「エセー」は、というかもともとの意味は、日本でいうエッセイや随筆といった文章とは違い、もっと論理的になにかを取り上げ、語ったりする。そんなニュアンスだそうです。
だから! レム・コレクションに収録された文学エッセイも、難しいのは当然のことなのです。
それにしても論理的にボルヘスやナボコフまでぶった斬っているところはレムさん舌鋒鋭い。
A&B・ストルガツキー兄弟の『ストーカー』(つきまといではなく、本来の意味の「狩る者」)も、どこまで作品をことほいでいるのか、はたまたディスが効いているのか判然としません。
で、P・K・ディックについて書かれた文章なんでしたっけ。
ディック以前に(ディックも米国の作家ですが)、レムはアメリカのSF作品やSF界について、原始的だと非難されればこれはエンターテインメントに過ぎないと逃げ、そうではないとアメリカSFは芸術と思想、レムはそこまで書いておりませんが、思弁や奇想の持ち主だと自己主張をする。
そこまで米SFの嫌いなレムでも、ディック作品にはかなりの評価をしております。
とはいってもディック作品、とくに長編を読んだ方ならわかるように、彼の作品には破綻や強引なところもあるのは明白です。でも、あれだけ現実が崩壊してゆく感覚を描けるのはディックだけでは、ないか。
そしてレムはディックが残していった思弁と奇想に塗りつぶされた作品は、完璧な完成品ではなく、「未来の前ぶれ」(本書416-417ページ)だったのだと。
もちろん、米SF界はディックを取り込もうとしました。
ですが、それはディック作品が扱う、米SF界でも通用する感覚やなにかのガジェット趣味であり、基本的に米SF界はディックの本質、わたしがあえていえば「現実崩壊」について、見て見ぬふりをしてきた、と……。
↓
実際にディックは生前、ろくな評価を受けておりませんでした。本書でのディック論ではなく、別の本でのレムは、「ディックは(いくら貧乏だからといって)作品を乱造しすぎる、三冊を一冊にするぐらいに注力したほうがいい」みたいなことを書いていた気がするのですが、これはディック・ファンなら確かに分かるかも。
それにしても辛辣なレムですら、本書に収録されたディック論『フィリップ・K・ディック にせ者たちに取り巻かれた幻視者』ではかなりのべた褒めです。
いや、でも本当に凄い本を読んでしまいました。スタニスワフ・レムは小説はかなり訳出されておりますが、こうした自伝や批評はこれまであまり取り上げられなかったので、素直に喜びたいですね……SF好きなら読んでおきたい一冊です。
神西 清 (訳) 青空文庫 2009年(電子版)
底本は1975年第1刷、1976年第2刷の岩波版ほるぷ図書館文庫
中学生のころ学校の図書室でガルシンの
『あかい花』に出会いました。
たしかハードカバーの旺文社文庫だったかと。
どこに惹かれたのかわからないけど、
どうしても気になって読みました。
大人になってから再読したくなり、
こんどは岩波文庫版を買った憶えがあります。
まだ屋根裏にあるだろうか。
ガルシンは十九世紀末、
帝政ロシア末期の時代に生きた小説家です。
精神を病んで三十三歳で亡くなっています。
「アッタレーア・プリンケプス」は、
温室の植物たちを主人公に据えた童話風の短編です。
標題はブラジル産の棕櫚(しゅろ)の学名だとか。
窮屈な温室暮らしに嫌気がさしたアッタレーア。
あるとき天井を突き破って、
外の世界を見てみようと決意します。
周囲の植物たちが笑いものにしつつ制止するけれど、
アッタレーアは耳を貸しません。
小さな蔓草だけが彼女を応援して……
このお話には嘘がありません。
わたしは「救済のない宮沢賢治」だと感じました。
アッタレーアが目にするロシアの都の、
停滞して薄汚れた印象が心に残っています。
あるいは執筆当時の閉塞したロシア社会が、
著者ガルシンに与えた率直な印象だったのでしょうか。
小さな作品ながら強烈な印象を残していきます。
多様な解釈を許す懐の深さも魅力的です。
ゴーゴリ以上に忘れ去れた感の強いガルシンですけど、
できることなら新しい訳で読んでみたいな。
余談。
アッタレーアと蔓草の関係に、百合的に萌えましたw
絵が描けたら擬人化したいんだけどなー。
神西 清 (訳) 青空文庫 2009年(電子版)
底本は1975年第1刷、1976年第2刷の岩波版ほるぷ図書館文庫
中学生のころ学校の図書室でガルシンの
『あかい花』に出会いました。
たしかハードカバーの旺文社文庫だったかと。
どこに惹かれたのかわからないけど、
どうしても気になって読みました。
大人になってから再読したくなり、
こんどは岩波文庫版を買った憶えがあります。
まだ屋根裏にあるだろうか。
ガルシンは十九世紀末、
帝政ロシア末期の時代に生きた小説家です。
精神を病んで三十三歳で亡くなっています。
「アッタレーア・プリンケプス」は、
温室の植物たちを主人公に据えた童話風の短編です。
標題はブラジル産の棕櫚(しゅろ)の学名だとか。
窮屈な温室暮らしに嫌気がさしたアッタレーア。
あるとき天井を突き破って、
外の世界を見てみようと決意します。
周囲の植物たちが笑いものにしつつ制止するけれど、
アッタレーアは耳を貸しません。
小さな蔓草だけが彼女を応援して……
このお話には嘘がありません。
わたしは「救済のない宮沢賢治」だと感じました。
アッタレーアが目にするロシアの都の、
停滞して薄汚れた印象が心に残っています。
あるいは執筆当時の閉塞したロシア社会が、
著者ガルシンに与えた率直な印象だったのでしょうか。
小さな作品ながら強烈な印象を残していきます。
多様な解釈を許す懐の深さも魅力的です。
ゴーゴリ以上に忘れ去れた感の強いガルシンですけど、
できることなら新しい訳で読んでみたいな。
余談。
アッタレーアと蔓草の関係に、百合的に萌えましたw
絵が描けたら擬人化したいんだけどなー。
底本は1938年第1刷、1965年第20刷の岩波文庫
わたしが中学生のころ読んだ岩波文庫版では
『外套・鼻』っていう標題で一冊になってました。
貧しい小役人アカーキエウィッチは、
外套を新調せざるを得なくなります。
それまでの人生にない高価な買い物が、
彼の心を翻弄して……
「鼻」に比べてシリアスなお話です。
ここでもゴーゴリの鋭い観察眼は健在。
まず主人公アカーキエウィッチの、
つつましい小物っぷりといったら……
まるで、わたしではないか(笑)。
社交や不慮の事態が大の苦手で、
極端なくらい対人関係に不器用です。
どうもASD傾向を強く備えているように見えます。
こういうひと昔からいたんですね。
それからアカーキエウィッチをとりまく、
官吏どもの卑俗なありさまといったら……
序列にうるさく肩書に固執する人物は、
こんにち日本の市井にも、うようよしてますよね。
ゴーゴリは若い時分に生活に困り、
下級官吏として勤めていた時期があったそうです。
溜息を吐かされるほどに的確な、
俗物造形の数々は当時の経験に裏打ちされてるのかな。
そして、なんといっても着かず離れずの人間観。
「冷たく抱きよせて温かく突き放す」という言葉に、
わたしは河合隼雄先生の本で出会った憶えがあります。
それを地で行ってるからゴーゴリさん偉いわ。
こんにちの日本でドストエフスキーは読まれてるけど、
先輩格のゴーゴリは忘れ去られた作家と化してます。
もっと親しまれる価値があると思うんだけどな。
あと平井肇さんの手になる翻訳も秀逸です。
日本語として自然なうえ、
必要以上に「くだきすぎた」感じもありません。
時代を感じさせる部分もあるけど、それが味わいになってるのね。
底本は1938年第1刷、1965年第20刷の岩波文庫
わたしが中学生のころ岩波文庫で読んだのは、
平井肇さんによる、この古い訳でした。
懐かしくなってダウンロード。
なんといっても無料ですし。
たしか中学二年の夏休みだったと思います。
当時の岩波文庫は薄いのだと百五十円で買えたんですよ。
現今の物価からは信じられません。
鼻が顔から離れて好き勝手に歩きまわる、
ナンセンスなお話をくすくす笑いながら読みました。
鼻の持ち主の少佐が、
新聞の広告係と嚙み合わないやりとりを交わしたり。
鼻を捕まえようとしたら巧いこと逃げられてしまったり。
言葉でないと表現が難しい笑いというものがあるなら、
この小説は最右翼のひとつではないでしょうか。
けど、いま大人の目線で読み返すと、
また違った顔を見せてくるんです。
少佐をはじめとした登場人物たちが、
揃いも揃って俗物ばかり。
誰もが欲得の虜で自分のことしか考えず、
見栄や体面の追及に身をやつしています。
ひとつ間違えると、
情けなくも醜悪な印象を残しかねません。
ゴーゴリのトボけた筆致が、それを見事に救っています。
みっともないし愚かだけど人間こういうものだよね。
古典新訳文庫のほうは落語の語りを意識した訳だそうです。
なるほど落語の人間観に通じるものがあると感じました。
人間なんて鼻なんてラララ。
底本は1938年第1刷、1965年第20刷の岩波文庫
わたしが中学生のころ岩波文庫で読んだのは、
平井肇さんによる、この古い訳でした。
懐かしくなってダウンロード。
なんといっても無料ですし。
たしか中学二年の夏休みだったと思います。
当時の岩波文庫は薄いのだと百五十円で買えたんですよ。
現今の物価からは信じられません。
鼻が顔から離れて好き勝手に歩きまわる、
ナンセンスなお話をくすくす笑いながら読みました。
鼻の持ち主の少佐が、
新聞の広告係と嚙み合わないやりとりを交わしたり。
鼻を捕まえようとしたら巧いこと逃げられてしまったり。
言葉でないと表現が難しい笑いというものがあるなら、
この小説は最右翼のひとつではないでしょうか。
けど、いま大人の目線で読み返すと、
また違った顔を見せてくるんです。
少佐をはじめとした登場人物たちが、
揃いも揃って俗物ばかり。
誰もが欲得の虜で自分のことしか考えず、
見栄や体面の追及に身をやつしています。
ひとつ間違えると、
情けなくも醜悪な印象を残しかねません。
ゴーゴリのトボけた筆致が、それを見事に救っています。
みっともないし愚かだけど人間こういうものだよね。
古典新訳文庫のほうは落語の語りを意識した訳だそうです。
なるほど落語の人間観に通じるものがあると感じました。
人間なんて鼻なんてラララ。
わたしが中学生のころ岩波文庫で読んだのは、
平井肇さんによる、この古い訳でした。
懐かしくなってダウンロード。
なんといっても無料ですし。
たしか中学二年の夏休みだったと思います。
当時の岩波文庫は薄いのだと百五十円で買えたんですよ。
現今の物価からは信じられません。
鼻が顔から離れて好き勝手に歩きまわる、
ナンセンスなお話をくすくす笑いながら読みました。
鼻の持ち主の少佐が、
新聞の広告係と嚙み合わないやりとりを交わしたり。
鼻を捕まえようとしたら巧いこと逃げられてしまったり。
言葉でないと表現が難しい笑いというものがあるなら、
この小説は最右翼のひとつではないでしょうか。
けど、いま大人の目線で読み返すと、
また違った顔を見せてくるんです。
少佐をはじめとした登場人物たちが、
揃いも揃って俗物ばかり。
誰もが欲得の虜で自分のことしか考えず、
見栄や体面の追及に身をやつしています。
ひとつ間違えると、
情けなくも醜悪な印象を残しかねません。
ゴーゴリのトボけた筆致が、それを見事に救っています。
みっともないし愚かだけど人間こういうものだよね。
古典新訳文庫のほうは落語の語りを意識した訳だそうです。
なるほど落語の人間観に通じるものがあると感じました。
人間なんて鼻なんてラララ。
……。
と、「ためて」書きたくなるような一冊です。
SF系で高い城といったらフィリップ・K・ディックの『高い城の男』ですが、現代海外文学ならカフカの『城』でしょう。
本書の『高い城』は幼いときからだいたい十八歳程度になるまでのレムの自伝的エッセイです。
少年の頃のレムの「記憶だけを忠実に書く」とか言っておきながら、なにかあると執筆時四十四歳だったときの大人レムが口を挟んで文明批評などをぶってきたり……そうかと思えば胸がきゅんとなるような、なつかしい感覚の記憶を瑞々しい文章で書いてきたり……。
で、なにが『高い城』なのかというと、レム少年は当時、勝手に自分の頭の中だけでこしらえた城を舞台にそこの通行証などをやはり勝手にこしらえていたんです。
それがどんどん展開されると城の規模は膨大なものになり、カフカの『城』のような、複雑すぎる官僚的な存在になってゆく……。
ちなみにレムの育ったリヴィウ(旧ポーランド領 そのときの地名というか読みはルボフ。現在はウクライナ侵攻での報道でも使われるリヴィウ)にはもともと「高い城」と「低い城」というかつての要衝を象徴する遺跡があるのだとか。
レムは英仏露羅語に堪能で、原書をすさまじい速度でかたっぱしから読んでいたそうですが、やっぱりクラクフの賢人と言われるだけあって、ただものではないですね……。
本書の前半の『高い城』の感想で一旦やめて(気圧に殺られて調子悪いんですよ……)、残りは、といっても本書末尾を飾るフィリップ・K・ディック論は明日以降の更新で書くつもりです。
書肆侃侃房 2024年
図書館の本。
およそ百年くらい前のことです。
「銀の時代」と呼ばれる、
優れた詩人たちの隆盛期がロシアにありました。
その銀の時代に活躍した、
女性詩人たち十五人を選んで紹介する素敵な一冊です。
ひとりひとりが個性的で魅力にあふれ……
これ常套句じゃなくて素直な感想ね。
各人の作品に触れてみたくなるんですけど!
惜しいことに、ほとんどの詩人の作品が、
日本語になっていないんですよ。
例外はアンナ・アフマートヴァくらい。
わたしはソフィア・パルノークに強く惹かれました。
彼女の作品には、独特の倦怠感が漂っています。
金色に染まった木々の物憂げなふくらみに
揺れもせずにしなだれた枝の疲労に
秋の凪がある 輝きの失せた彼方は
ひっそりと蒼白い そして夜には星々の
戯れは冷たく 敏感な沈黙が
見張っているかのようだーー消えゆく葉たちの
無力な嗚咽、おどおどした最後の呻き声が
漏れ出さぬだろうか? だが空気は霧で
重くなり……疲れきった庭はため息をつきそうだが
ためらっている そして木々の葉の中で
妙に赤く燃えているのは くすんだ金色で
血を流しているかのごときルビー色の一葉
著者によればパルノークの詩には、
自然のモチーフがちりばめられています。
そして、そこかしこに詩人そのひとの気配が感じられるんですよね。
象徴主義的な美意識と、
印象派的な手法が詩人のなかで無理なく溶けあっているようです。
前世紀初頭の困難な時代にあってパルノークは終生、
女性を愛することを隠さないひとだったといいます。
できることなら彼女の詩を、
もっとたくさん読んでみたいです。
著者は毎日新聞の元特派員として、
英米に滞在した経験を豊富に持っているそうです。
コンパクトな新書ながら、
王室から地方分権まで幅広い目配りに感心させられました。
スエズ動乱に起因する失墜からサッチャーの功罪、
ブレアとその近代化路線、二大政党制のほころび、
スコットランドの独立運動などなど……
日本では「イギリス」という国があると思われがちですけど、
実態は「連合王国」なんですよね。
成文憲法を持たず判例が法として強い拘束力を持つとか、
いろいろ特殊な社会ではあります。
彼の地にあって、わが国にないもののひとつが、
柔軟さでしょう。
移民政策では深刻な分断を招来してもいる反面、
イギリスがしたたかに生きのびてきた武器のひとつです。
外向強者といわれる所以でもありますね。
それと、もうひとつ。
著者は「コア・バリュー(中核的価値)」が、
日本の政治、社会に決定的に欠けていると指摘します。
何をいちばん大切にするか。
一見してアホみたく簡単そうな問いですけど、
ほとんどの日本人は身を削って考えたことなど無いはずです。
さもなければ物質的にこれほど豊かで、
稀に見るような治安の良さに恵まれているのに、
自殺者の数が世界でも上位に来るような社会になるでしょうか。
日本人には自らのありようを根本から見直してもらいたいところ。
永遠に無理そうな気もしますけど。
著者は毎日新聞の元特派員として、
英米に滞在した経験を豊富に持っているそうです。
コンパクトな新書ながら、
王室から地方分権まで幅広い目配りに感心させられました。
スエズ動乱に起因する失墜からサッチャーの功罪、
ブレアとその近代化路線、二大政党制のほころび、
スコットランドの独立運動などなど……
日本では「イギリス」という国があると思われがちですけど、
実態は「連合王国」なんですよね。
成文憲法を持たず判例が法として強い拘束力を持つとか、
いろいろ特殊な社会ではあります。
彼の地にあって、わが国にないもののひとつが、
柔軟さでしょう。
移民政策では深刻な分断を招来してもいる反面、
イギリスがしたたかに生きのびてきた武器のひとつです。
外向強者といわれる所以でもありますね。
それと、もうひとつ。
著者は「コア・バリュー(中核的価値)」が、
日本の政治、社会に決定的に欠けていると指摘します。
何をいちばん大切にするか。
一見してアホみたく簡単そうな問いですけど、
ほとんどの日本人は身を削って考えたことなど無いはずです。
さもなければ物質的にこれほど豊かで、
世界でも稀に見るような治安に恵まれているのに、
自殺者の数が世界でも上位に来るような社会になるでしょうか。
日本人には自らのありようを根本から見直してもらいたいところ。
永遠に無理そうな気もしますけど。
同じ岩波文庫で岡本綺堂の随筆集も出てて、その紹介文に「著者はいい時代を生きたらしい」とありますが、まさしく鏡花もそんな感じがします。
本書249ページに、鏡花が太平記の完本や源平盛衰記を国書刊行会本で読んだ……云々というくだりがあり、たぶんこれを読まれている諸兄姉も一瞬びっくりしたと思いますが、これは現在の国書刊行会ではなく、現在の国書刊行会が名前をいただいた明治期の同名版元からです。
八幡書店という版元がありますが、八幡書店がそうであるように、明治期の国書刊行会は江戸期の貴重な文献などの復刻をされていたとか。
286ページ、(7)との注釈の番号がついておりますがそもそもその随筆、『九九九会小記』の注釈は5までしかありません。わたしが持っている版は第五刷なのですが、岩波文庫の中の人たち気づいてないのかしら?
そしてこの『九九九会小記』、何度か書いたように、わたしも参加したかった……というぐらいなんとも味わいのある一篇です。
鏡花の文章は独特なので、小説から入るよりもこの随筆集から入るのもいいかもですね。
そうそう、文語体であれば正統かなづかひを採用しているのも岩波書店の見識の高さがうかがえます。
最初に収録されている、『苦境』は基本的に反ユダヤ文書、反共産主義文書……政治的パンフレットのために書いた文章の集積です。
他には、実際に医者だったルイ・フェルディナン・セリーヌが書いた、医療に関する文書などを収録。
「あいつらは、人の悪口をいい散らす乞食の集団だ! 屁っぴり腰のカタリだ! 極悪人! タカリ! よたもの、飲んだくれ! 胸糞の悪いゴロツキ! 抜け作! 糞! 飲み屋で管まく下種! 穀潰し! 盗賊の群れ! あぶくだらけの老いぼれだ! もうなんの役にも立ちゃしない! 何の役にも! なんに対しても、もう一切投票さえしない! ああ! 社会の屑! あの悪臭ふんぷんたる奴ら! まさにあいつらがフランスを、まったく駄目にしてるんだ!」(「苦境」147ページから)
ここらはまだ可愛いほうで、実際にはもっとよくもまあこうヘイトを炸裂させた言い回しを考えるものだ……なレトリックが炸裂しております。
ただし、この『セリーヌの作品』、最初は仏文学者の生田耕作先生が監修ということだったのですが、あまりにも訳文が酷く、とうとう生田耕作先生は途中から監修をやめたぐらいなんです。
生田先生の言う通りだと、国書刊行会側も商業ベースに乗らない、ということだったのですが。
ただ、たしかに訳文にはファランドールが「ファンドラール」、「全て」の意味での「すべからく」誤用が三箇所、生田先生なら絶対にやらない、許さないようなところが散見されます。
とはいっても、セリーヌの文章には独特のノリがあるのはたしかで、「……」を使いまくってセンテンスを書いていくとかは、わたしもけっこう影響を受けてます。
呪われた思想家といえば、ジョルジュ・バタイユですが、呪われた作家とくればセリーヌです。なにせ反ユダヤ文書集成である『虫けらどもをひねりつぶせ』はこの国書刊行会さんの邦訳でしか世界規模で入手できないそうで……ちなみにもう国書側にも在庫は無いようです。
『後悔するイヌ、嘘をつくニワトリ──動物たちは何を考えているのか』
本田 雅也 (訳) 2021年 ハヤカワ文庫 NF(電子版)
ドイツの森林管理官によるエッセイ集です。
「動物は、どこまで人間か」。
端的に言っちゃうと、そういうお話です。
ドイツは動物福祉に関して、
日本よりだいぶ進んだ社会のようですけど……
「動物と人間は異質なもの」。
そういう認識は根強くあるものと窺えます。
著者は身近に接した動物のエピソードに、
学術的な知見を併せて引きながら論じます。
「わたしたちが常識的に思っているより、
はるかに豊かな精神生活を、動物は経験している」。
毛の生えた臭い機械みたいなものだと、
動物嫌いの向きからは思われがちなようですけど……
動物と身近に暮らした経験を持つひとなら。
彼らの「心」について、
何かしら思いあたる節があるのでは。
昔、家にいた犬の足を踏んでしまったことがあります。
「キャン!」と鳴かれたので、
とっさに「ごめん!」と謝ったら……
犬が跳びあがって顔を舐めてきたんですよ。
あきらかに、こちらの意思を理解していました。
ただ動物に心があるからには、よ。
悪意や暴力も彼らの世界には、
わたしたちが思っている以上に存在します。
著者は兎の群れで起こった、
残酷で理不尽な暴力に接した経験を書いていました。
おなじ地球に暮らす隣人(?)たちについて知ることは、
わたしたち人間のありように対して、
理解や洞察を深めることに繋がっているように思えます。
『後悔するイヌ、嘘をつくニワトリ──動物たちは何を考えているのか』
2021年 ハヤカワ文庫 NF(電子版)
ドイツの森林管理官によるエッセイ集です。
「動物は、どこまで人間か」。
端的に言っちゃうと、そういうお話です。
ドイツは動物福祉に関して、
日本よりだいぶ進んだ社会のようですけど……
「動物と人間は異質なもの」。
そういう認識は根強くあるものと窺えます。
著者は身近に接した動物のエピソードに、
学術的な知見を併せて引きながら論じます。
「わたしたちが常識的に思っているより、
はるかに豊かな精神生活を、動物は経験している」。
毛の生えた臭い機械みたいなものだと、
動物嫌いの向きからは思われがちなようですけど……
動物と身近に暮らした経験を持つひとなら。
彼らの「心」について、
何かしら思いあたる節があるのでは。
昔、家にいた犬の足を踏んでしまったことがあります。
「キャン!」と鳴かれたので、
とっさに「ごめん!」と謝ったら……
犬が跳びあがって顔を舐めてきたんですよ。
あきらかに、こちらの意思を理解していました。
ただ動物に心があるからには、よ。
悪意や暴力も彼らの世界には、
わたしたちが思っている以上に存在します。
著者は兎の群れで起こった、
残酷で理不尽な暴力に接した経験を書いていました。
おなじ地球に暮らす隣人(?)たちについて知ることは、
わたしたち人間のありように対して、
理解や洞察を深めることに繋がっているように思えます。
2022年
図書館の本。
『月のケーキ』に続く、ジョーン・エイキンの短編集です。
こちらも作風は一貫して変わらず、
日常のなかに超自然が舞いこむ話が多いですね。
あと皮肉で底意地の悪い視線や、
弱いもの小さいものへの労わりが感じられます。
きわめて「イギリスらしい」本でした。
サキとかジョン・コリア、
あるいはロアルド・ダールの衣鉢を継ぐ書き手かと。
特に強く印象に残ったのが、
掉尾に置かれた「キンバルス・グリーン」。
孤児院育ちの少女エメリーンは、
援助金目当ての粗野な親子のもとで暮らしています。
彼女を変えることになる、
ほんの、ささやかな奇跡とは……
エメリーンがいきなり超能力少女として覚醒したり、
石油王の大富豪に見初められたりすることはありません。
ただ彼女に起こった変化は、
ある意味では超能力やお金よりも力強いものでした。
わたしは涙を禁じ得なかったよ。
「葉っぱでいっぱいの部屋」にも不遇な男の子が登場しますし、
「フィリキンじいさん」の主人公は、
苦手な数学と意地の悪い先生に苦労を強いられています。
ジョーンさんは苦悩する少年少女の伴走者ですね。
わたしは十代のころ、この本に出会いたかったな。
壇ノ浦の合戦で、八歳という幼さで入水された安徳天皇が、琥珀のようなものに包まれその中でずっと当時のまま生きている、というのがベースにある作品です。
第一部は源実朝とその安徳天皇。第二部はマルコ・ポーロと安徳天皇。澁澤龍彦先生の『高丘親王航海記』などに影響を受けた、と作者の言葉にあるように、どうしても『高丘親王航海記』みたいになるのかなーと思いつつ読んでいて、そうじゃなかったのですよ。安徳天皇がもっと活躍するのかと思ってました。
や、ある意味活躍するんですが。
第二部のマルコ・ポーロは、たぶん作者も読まれていると思いますが、イタロ・カルヴィーノの『マルコ・ポーロの見えない都市』(河出文庫刊)を彷彿とさせました。
第一部、第二部、つまらないわけじゃないんですが、もっと爆発力の高い奇想と、この手の小説は一般受けしないから(←非常に暴言)もっと衒学趣味を鏤《ちりば》めて欲しかったです。なんなら正仮名使ひをしてもいい、ぐらいの。
でも、なんていうんでしょうね、敗残の美学、みたいなの。そういう雰囲気がまとわりつつ進行していく小説なのはよかったです。ラストもねb