読書生活報告トピ 8冊め
- 2016/09/01 15:19:10
投稿者:ヘルミーナ
読んだ本や著者、かんたんな感想や評価を書き込むトピです。
基本的には各自ブログで書き込むのですが、
ブログでは恥ずかしい方は感想もこちらへどうぞ。
本に関係する雑談などもこちらで好いかと思います。
思いっきり話題がそれまくりでなければふつうの雑談も好いかと。
(前トピが埋まったら使ってくださいね)
読んだ本や著者、かんたんな感想や評価を書き込むトピです。
基本的には各自ブログで書き込むのですが、
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本に関係する雑談などもこちらで好いかと思います。
思いっきり話題がそれまくりでなければふつうの雑談も好いかと。
(前トピが埋まったら使ってくださいね)
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読書生活報告トピ9冊めへ移ります~☆
郊外の空き地で暮らすジプシーの大家族。
彼等のもとに本を携えた司書がやってきます。
目的は無償の読みきかせでした。
ジプシー一家の痛々しい貧困と、
そのなかで生きぬくしたたかさが強く印象に残っています。
やがて小さな子たちばかりでなく、
女たちも男たちも、一家を率いるアンジェリーヌばあさんも、
司書のエステールを心待ちにするように変わりはじめて……
文字や物語が人生に与えてくれるものについて、
それらを欠いた人生の不便やさびしさについて、
あらためて思いを馳せさせてくれた一冊です。
無学で頑固だけれど聡明で、
一家みんなから慕われているアンジェリーヌの存在感も心に残ります。
あとエステールがジプシーたちとどれだけ親しくなっても、
自分のプライヴェートには一線を引く姿勢には示唆深いものがありましたね。
これは彼女の前歴が看護師という設定と関係があるのかも。
誰かと良い関係を持ちつづけるためには
「腹四分」くらいの加減で関わるのがベストなのかな。
わたしは、そう感じました。
ブラッド・スポーツとはいっても同名の映画や、あるいは競馬とは無関係です。
狩猟などを含めた「荒っぽい」アウトドア・スポーツのこと。
この本、調べたらネットにも書評らしき書評があがっていない、カルト小説のなかでも傑作の一冊です。
どうでもいい本や自分たちの頭の弱さを指摘する本にはかまびすしいアマゾンのカスタマー・レビューも件数ゼロ! だらしがない!
舞台は支那(中国)奥地に源流を発し、極地地方を通過し、アメリカ、ウィスコンシン州を蛇行しニューヨークにまで流れ込む伝説の大河ハサヤンパ川。
いきなりこれですからね、のちにティルカットとランナーと仮の名前で呼ばれる父と子は、ハサヤンパ川を釣り道具や銃や弾薬をたっぷりもって遡っていきます。
途中でマストドン(恐竜ですよ……)を狩ったり、喋るタクシーのルアーを使って歩行者を釣り上げたり、綺想というかもうめちゃくちゃな展開なのですが、父のほうは自分が仇を取るべき相手ラタノウス(ラットノーズ)の幻影がちらつきはじめ、ハサヤンパ川の自然がその妄想に拍車をかけます。
そうして本当に現れるラットノーズ、あることがきっかけでラットノーズの集団に入る息子、ランナー。
とにかく変な小説ですが、父の視点から書かれた第一部、息子の視点から書かれる第二部、そして三人称で書かれる怒濤、そして「なんだこりゃ」とそれまでの電圧の高い世界から一気に肩の力が抜けるエンディングまで、一気に読まされてしまいます。
たしかに、ラットノーズの集団は釣りと狩猟と麻薬と乱交に明け暮れる集団なのですが、訳者小川隆さんの解説ではマルキ・ド・サドをしのぐ……的な書かれ方がされています。
いやいや、それはカマトトぶりかサド侯爵をまともに読んだことないでしょ!
サド侯爵のようなエロ・グロはありません。
エロ・グロが無いかというと嘘だけどサド侯爵まで持ち出すのは大げさ。
自然と人間とを巡る哲学が──いかにもアメリカ的病理を基礎にしたようで──これはこれで説得力があります。
それも原住民を殺戮して住みつき、銃と麻薬が蔓延し、世界の警察を自称し、日本に2回の核攻撃をした国、そんな国からしか生まれない、マッチョなサバイバリズムというか。
とにかく奇書ですね。
Gideon Greif著
Fischer出版社
ナチスの強制収容所でSonderkommando(ユダヤ人の囚人ながら収容所で、ナチスのもと働いていた人達)の生き残りの人たちによるインタヴュー形式の報告書が本になったものです。
Sonderkommandoの人たちは、ガス室で働かされていた人たちもたくさんいるので、ガス室のことを知る貴重な資料となっています。
催眠シリーズの1巻目であり、作者のデビュー作です。物語の世界にすっと入りやすく、さくさくと読めていける作品です。これが松岡さんのデビュー作だなんて、今後の作品に期待できそうです。
詳しいことはブログにて・・・。
http://www.nicotto.jp/blog/detail?user_id=1519417&aid=63725394
ただでさえ読まれていなさげな読書日記でも、これは読書の興味をあまり惹きそうにない本かもですが、とにかく読書をしたので書いてみます。
今の支那(中国)語ではそういうのか知りませんが、辞書などの本は工具書と呼ぶか呼んでいたそうなんです。
この本も役に立つ工具書です。
短歌の文語表現での文法の入門解説本なのですが、
一定水準をクリアしていればわかりやすいよい本です。
一定水準といえば、わたしはバカなので連用形と連体形の区別も忘れてしまったので、そういうところの基礎をちゃんと押さえていなければならない。
昨日の日記にもちょっと書きましたが、
この本、役に立つだろうし、短歌の鑑賞や作歌に必須の本なので、図書館から今まさに借りてきているのに新刊書店で自分の本を買っちゃいました。
この本と、福田恆存先生の『私の国語教室』か、荻野貞樹先生の『旧かなづかひで書く日本語』があれば短歌の文法・文章面はクリアできるでしょう。
あとは神保町でもネット書店でも、ここへ行けば短歌の本がいろいろ置いてある、という古書店を見つけていろいろすぐれた歌を反復して読まないと。
ソードアート・オンラインシリーズの3巻目です。読後感は、色々な陰謀劇があって、なかなか面白かった・・でしょうか。ちょっとドタバタ劇があったりして、気休めの巻って感じを受けました。
詳しいことはブログにて・・・。
http://www.nicotto.jp/blog/detail?user_id=1519417&aid=63690007
宇宙よりも行ったことのある人間が少ない、深海。
その深海潜水調査船「しんかい6500」のパイロットが書かれた本なので期待していましたが、予想を裏切らない深海の驚異とロマンが詰まった本でした。
なにせ進水前にハッチの周辺を最終点検し、完璧にきれいになっているのを確認しなくちゃならない──髪の毛一本でも残っていると、水圧でそこから浸水し大事故になりかねない、という序盤の描写からして、未踏地におもむく厳しさがあふれています。
著者は、当時駿河湾でシロウリガイはいない、とされていた定説を、新人時代「見た」と自分の眼を信じ、先輩と再び潜行するときにいるかいないか賭けをするのですが、いたんですね、これが。
深海といえば生き物ですが、「しんかい6500」の探照灯に誘われるように集まってきた体長2mぐらいのでかい魚、しかも5~6匹になぜか体当たりされたり、そこらの一部は画像と、海洋研究開発機構のサイトに動画があがっています。
それにしても、著者は海洋研究開発機構への入所試験に際し、論文にかかりっきりで英語の答案用紙は白紙で出した、とか、面接では「お酒は飲めるか」って訊かれて「エチルとメチル以外ならなんでも」って答えたとか、豪快な海の男って感じですね。
あと、海洋研究開発機構に内定が決まる直前に、実家の近所のおうちには「吉梅さんのおたくは大丈夫か?」的な身辺調査電話がきたそうなんですが、共産党員や極左の家庭じゃないかのチェックじゃないかしら。
海洋開発は学術的だけでなく日本の産業をも左右する重要な問題ですから。
それが……また書くのかと言われそうだけど、その本が革マル派の出版部、こぶし書房から出るのは海洋研究開発機構としていいのでしょうか? ただ、本の内容としてはとっても良書でしたよ。
深海にロマンを感じる方には文句なくお勧めです。
ヤスケンこと安原顯さんはわたしが尊敬する編集者です。
といってもこの本を出したころには出版社専属の編集者をやめ、フリーのライターになっているのですが。
この本はヤスケンのジャズ、クラシック、現代音楽などの音楽、そのどきの面白かった新刊、それにオーディオのこと、それらの日記やコラムの集成です。
はっきり言って現代のジャズなどわたしはほとんど知りません。
だけど、楽しみというのは、知っていることをさらに知ることだけじゃありません。
ヤスケンの盟友があのジャズ評論家寺島靖国さんなのですが、その寺島さんに激賞される気っ風(きっぷ)のいい文章で、とにかく読まされてしまうし、知らないなりになにか「マニア道」をのぞいている楽しさがあるのです。
本書で、音楽や本に淫している者など現代日本では皆無、みたいなことが嘆いてあったけど、こういう本を楽しめてこそ、本物ファンだと思います。
優れたものは激賞、だめな盤や本はクズ、イモ呼ばわり。オーディオ機器を試聴して200万もするようなものの一気買い、その後の試行錯誤。本も月に100冊は読んで書評をパワフルに書き、CD評もいっぺんにディスクユニオンで新譜を50枚買っては「もう買う新譜がねえぞ!」と書いたり、ほんとに痛快。
晩年の、まだら呆けがはじまってしまった思想家、吉本隆明と対談されたときに、安原さんは吉本さんより失礼なことを言われたそうですが、そのときの文章が趣味人とはかくあるべし、ないい文章だったのでその引用で〆ます。
「つまり、吉本隆明がもし「音楽」なり「オーディオ」に趣味のある教養人であれば、盲目足萎えぐらいのことで「死にてえ」などとの弱音は吐かぬ筈だ。ぼくも寺島さんも還暦過ぎゆえ、いつ何が起こってもおかしくないが、少なくてもわれわれは、ジャズでもオーディオでも女でも、好きなものに淫し続けるつもりでいる」
蛇足。ヤスケンの意気にあてられて、駿河屋で日本のジャズ・レーベル澤野工房をサーチ。
ヤスケンも激賞の山中千尋トリオがあったので即注文しちゃいました。
さらに、本書中のヤスケンの澤野工房フェイバリット・ミュージシャンもありがたかったです。
安らかに、そして過激に本と音楽とオーディオを楽しんでください、ヤスケン。
初めての作家さんで、初シリーズです。これは花シリーズだそうです。それの1巻目です。擬人化したロボットの話がメインと表紙の可愛らしいメイド姿の女の子ロボットの絵。パラパラ読んだ感じとしては、童話的な感じを受けた。最初、読んだときは、アイリスは自分のこと”僕”と言っている。・・ってことは、もしかして女装の好きな男の子?いやいや・・かなりボーイッシュな女の子は自分のこと”僕”って言うこともあるし・・。・・・・ってことは女の子??と思い、疑問詞がいっぱいなところから始まります(笑)
詳しいことはブログにて。
http://www.nicotto.jp/blog/detail?user_id=1519417&aid=63671023
初めて読む作家さんです。表紙裏のプロフィールで、「丁寧に紡がれた物語に・・・。」と書かれてあったが、まさにその通りである。少々昭和初期の匂いがして、純文学っぽい薫りがする。ただちょっと丁寧に書きすぎて、物語がなかなか進まないのが、ちょっとイラつかせる気もしない。作者がとても真面目な方みたいで、物語の中にちょっと堅苦しい空気感が流れ、読んでいて肩がこりそうだ(笑)だけど、本の題名がそのまま章の名前になっているのは、面白いと思う。
詳しいことはブログにて。
http://www.nicotto.jp/blog/detail?user_id=1519417&aid=63655062
逆にいえば、それだけ大島先生の実学への成果が詰まっている本なのです。
ただ、見開きに1項目という縛りがあるせいか、心なしか普段大島先生が読ませる、ユーモラスな文章や、脳を中心として人の能力を低下させない、向上させようという人間愛のようなものが希薄で、いつもの名調子が好きなファンにとってはがっかり。
たとえばカタカナ言葉ばかりで言葉がむなしい記号となってしまっていることについて。この本ではただ単に日本語でキャッチーにわかりやすく言い換える脳のトレーニングを、と書かれているだけなのです。
別の大島先生の本だと、「サプライズ」は「首相のサプライズ人事」などは「首相の『ビックリ』人事、でいいのではないか」と書かれています。
そういうところがわたしはとっても好きです。
昨日ちょっと日記のレスコメで触れた姿勢について。
姿勢が悪く背筋が曲がっていると、脊髄と脳のつながりが悪くなって血流が停滞し、脳への酸素供給が悪くなるのです。
ちなみに一日に脳へ供給される血液の量は、血液総数の400倍だそうです。
……とは書いたけど、役に立つことがぎっしり詰まっている本、駿河屋では100円で買えるのでいかがでしょう?
初作家で初シリーズ物です。歴史上の人物、特に日本の戦国時代の人物や外国の戦国時代の人物、その人物が持っていた武器を中心に、色々な魔術などが入り混じったSFファンタジーとして、書かれているみたいです。色んな要素が入っていて、珍しくもあり、とても面白いが、戦国時代・・ってせいか、ちょっと人物などを広めすぎたせいかとても複雑で、読んでいて少々混乱を起こすのも、否めないか。。。(笑)
詳しいことはブログにて・・・。
http://www.nicotto.jp/blog/detail?user_id=1519417&aid=63643162
いよいよ『中井英夫全集 第2巻』の最後の本です。
『人形たちの夜』は、短編3作を春夏秋冬にあてはめた、合計12篇の連作小説です。
季節だけではなく、──必ずしも完全に全編にわたってではありませんが──人形尽くし、職業尽くしのよくできた短編集でもあります。
春。プロローグと母と娘のすさまじい業を描く3篇。
夏。苦い恋愛ものを描いた3篇。
秋。ここは3話がほぼ連続しており、ある学者から奥さんがこけしと暗号を残して失踪してしまったと告げられ、東北地方に調査に出る主人公。と、途中からなぜか暗号解読に乗り出してくる若い男──の3篇。
冬。春、冒頭の一篇「異形の列」へと一旦戻り、兄弟間の憎悪を兄の側から語る憎悪と人形と貴腐ワインの啓く世界──。そしてエピローグ。
中井英夫さんは『とらんぷ譚』(ハートからクラブまで4✖13+ジョーカー2篇の連作!)など、連作短編に本領発揮といってもいいぐらいの方ですが、『人形たちの夜』はその第1作になるかと思います。
こう書くと三島由紀夫さんを彷彿される方も多いでしょうが、よくできた文芸小説がそのままよくできたエンターテインメント小説でもあるのです。
芸術至上主義の気質と、「読み物」をという精神がみごとに結晶化しています。
……というわけで、やっと解説や月報込みで800頁以上の『中井英夫全集 第2巻』を読み終えました。次は小説以外の本かな。
いよいよ中井英夫さんの筆が冴えてきた、そんな感じの作品集でした。
最初に収録されている、とても好ましい同僚の実家、ある孤島に同行することになった主人公、その主人公が夢のなかで味わう、孤島ならではの高貴さをもった実家の人たち全員を次々と相手にする交歓。
「鏡のなかへの旅」は、すずやかなエロティシズムと、この世界ではない別世界より「流刑」されたという中井さんの感慨がこもっていました。
初出が、あの! 神保町でもプレ値のついている、そしてわたしもそこから出たJ.G.バラードの『死亡した宇宙飛行士』を持っている、NW-SF社の「NW-SF」誌だったのが意外でもあり、うれしくあります。
残り駆け足気味で。
裡なる魔性みたいなものをたたえた美也子。
彼女の幼い日から結婚もしてかなり年月が経つまでの肉親、他人を含め男性と関わり合うその隠微さ……「炎色反応」。
中井さんが実際に旅行したことは知っていましたが、
「うそだこれ……」というような挿話が続く(実際ウソ)、それでいて、先にも書いた「流刑者」ならではの恥辱の精神を緊迫した文章で綴るタスマニア旅行記──を偽装した創作──「黒鳥の囁き」。
さて、中井英夫全集2巻は、最初の1~3冊分をやっと読み終わりました。
どれも完璧で、なおかつ端正な文章に酔えました。
4冊め、『人形たちの夜』、これはかなり昔に読んでいるのです。
こちらは久しぶりの再会を楽しめそうです。
創元の中井英夫全集2巻に収録の「2冊め」感想です。
中井英夫さんといえば、「小説は天帝に捧げる果物、一行でも腐っていてはならない」という言葉が有名なように、芸術至上主義な雰囲気です。
が、前回の『黒鳥譚』の感想でも書いたように、太宰治が「こしらえもの」と呼ぶ、よりよく練って作り上げられた読みやすいいい小説、でもあるのです。
表題作の「見知らぬ旗」はほぼ中井英夫さんの体験談。
戦時中の大本営に通信兵として勤務しながら、銀座ではピンクのワンピースに下駄の女性を見たこと、昼休みには主に女性の軍属たちが嬌声をあげてバレーボールに興じていたこと──いかにもステロタイプな戦時下の生活とはぜんぜん違った一面があったことが書かれています。
戦争を生き延びた、そのことによる意識の断層といわゆる現実からの乖離。
「古代旅行者」、「銃器店へ」はそれらのテーマのSFっぽい2篇。
「在る」だけで寂しいような、いたたまれないような感覚。
こんなことも前回の日記で書きましたが、わたしが中井英夫さんの作品が好きなのはこの通奏低音にどこか共鳴しているのかもしれません。
「黒塚」はやはり戦時下を舞台にした一篇なのですが、親族4人である男性を奪い合いになったあげく、精神を病んだ──とされている──杏子の妄想、狂気と、その男性を成績優秀ならば特攻隊に推挙されるよう説得した3人のうち一人、香菜江の常識という狂気を対置させていて、──戦時中描写の濃密さもあいまって壮観でした。
中井英夫さんに落とす戦時中、戦後の影、というのが濃厚な作品集です。
それにしても雑誌「新思潮」の編集者として太宰とは何度かあったことのある中井さん羨ましい。
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戦後。
戦後はもう終わった、とかわたしの生まれる前にはもう言われていたそうですが、わたしはまだまだ戦後は終わっていないと考える一人です。
そのうち書くことがあるかもしれません。
言語化はまだできていなくても、数の暴力に曝され、「反・戦後民主主義闘争」へと駆り立てられていった小学生の頃から「戦後」を感じています。
これは創元ライブラリーの中井英夫(文庫)全集の2巻。
基本的に本ごとに作品がまとめられているので、4冊収録されており、4冊の本の読書日記を書いていこうと思います。
収録作品は5つ。
「麤皮(あらかわ)」バルザックを主人公にした、中井氏旧制高校時代の作品。
若書き感はあまりないのです。
中井さんらしい芸術至上主義な作風で。
ちょっととはいえ、バルザックを読んでいるのでなんとなく嬉しかった。
「蠅の経歴」「燕の記憶」。
戦後独特の喪失感、自分ひとりが世間やらに疎外されている「恥」の感覚。
居るだけでいたたまれない感じ。
中井さんの『金と泥の日々』を先取っているような感じ。
療養生活をしていて、無為な一日を送ったとき、夕暮れどきに起こるいたたまれなさにも似た感覚。──へんな話ですが中井さんがテーマにするとき、わたしもつい共鳴しちゃうのです。
「青鬚公の城」
中井さんは求めに応じて、商業主義的に書いたような反省もあるようですが、これはこれでよくできた恋愛心理小説だと思います。別荘地でのまだ高校生の青年と主人公で、鏡の向こうの世界へ連れていってもらえることを渇望する夫人。
細かい描写があとあと有機的につながって破滅にいたるのも太宰がいう「こしらえもの」の素晴らしさを感じました。
「黒鳥譚」。「蠅の経歴」「燕の記憶」のもっともテーマを煮詰めた作品。
戦後の喪失感が、時間や記憶やありもしない人物の妄想にまでいたる、それを動物園の黒鳥と語り合う、とっても静謐な作品。
それにしても文庫全集、総ページ800P以上って凶器になるわ……。
かなりお久しぶりです
新年あけましておめでとうございますという言葉はもう無効でしょうか…?
にごりえ・たけくらべ 樋口一葉 岩波文庫 を読みました
たけくらべは以前から読もう読もうと思いながら
文語体小説ということもあって遠ざけていたのをようやく(;´・ω・)
描かれる子供達のことを考えると切なくてやりきれない思いもありますが
それでもおもしろいなと思える作品でした
遊廓の仕組みをよく踏まえられた作品で
樋口一葉だからこそ書けた作品なのかなと思います
わかりづらい、というわけではないのですが、わかりやすい入門書を想像していたので驚いた一冊でした。
短歌という詩形でなにができるのか、という著者自らの苦闘のあともうかがえる一冊です。
第1部はそうした短歌の理念について。
第2部が、その宮柊二先生の苦闘のあとである厳しさをたたえた、投稿作品への添削と指導。
第3部が万葉から現代、宮柊二先生の主催されていた短歌結社コスモスにも掲載された歌の鑑賞篇。
こんな感じで構成されています。
短歌というものは詠むことも大切ですが、受け手として柔軟に、なおかつ細心の注意を払って歌に向かわないといけない、ということを、与謝野寛の歌についてが釈迢空が解釈しているその文の紹介を読んで教わりました。
第2部の添削と指導において、
「つねづねは良い感性の作を見せる人の歌だが、これでは困るのである。他の先輩のよい作を記憶するくらい読んで、語の斡旋法などを知って欲しいと思う。そうでないと単に三十一音数の中に語を布置しただけの、思いつきの歌に終ることが多くなる」
この言葉など、「三十一音数に語を布置しただけ」になりがちなわたしにとっては耳の痛い言葉です。
さらにではどうしたらいいのか、自己批評が求められるわけですし。
また、正統かなづかひの誤記についての鋭い意見もあり、短歌再入門のわたしにとってはその厳しさが──歌道講座に出て皆の前で添削と指導を受けているような──伝わってくる良書でした。
すでに発表された文章で、単なる啓蒙書以上のものができあがってしまったというのも凄いですね。
GOSICKシリーズの短編集の3巻目です。今回は年代と国が違うところのエピソードが、書かれているみたいです。エピソード・・というより、図書館から借りてきた本の一部を抜粋した・・という形で、創作の物語を創ったみたいです。今までと違い、描写を長ったらしくしようという意図が、全く感じられなく、素直に書かれていて、とてもすんなりと読みやすいです。これなら、サクサクと読めそうです。
詳しいことはブログにて・・・。
http://www.nicotto.jp/blog/detail?user_id=1519417&aid=63586228
この本は、神田神保町でよく行くけどなぜかいままで一度も買い物をしたことのない古書店、文庫川村で買ったもの。
著者の北山先生が古代学が専攻の方です。
柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)、大伴旅人(おおとものたびと)のパートがとくに読んでいて胸を熱くさせました。
柿本人麻呂はもともと『万葉集』でもっとも好きな歌人ゆえ、大伴旅人はこの本を読んで、そのみやびさと風流さに開眼しました。
歌の紹介と解説はもちろんあるのですが、タイトルと著者の専攻どおり、古代史、当時の政治やたとえば疫病の流行、仏教の隆盛などをからめて1300年前の歴史ドラマとして楽しめます。
ただ、「通常程度の教育をうけた」高校生から読めるようにという岩波新書にしては、歌の解説や固有名詞のルビなどが少なく、恥ずかしながらときどきググりながら読んでいました。
この本が出たときの(とはいっても'80年)学生はレベルが高かったのでしょうね。
この本で魅力を知った大伴旅人の歌二首から。
世の中は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり
それまでは風流の世界を詠んでいた旅人の老境の想いがしみてくるようです。
わが盛また変若(おち)めやもほとほとに寧楽(なら)の京(みやこ)を見ずかなりなむ
「薄桜鬼」シリーズに出てくる「変若水」(おちみず)の「変若」です。
この歌の解説には「変若めやも」の現代訳として、「またかえることがあろうか」となっています。変若水は若返りの霊薬なのです。
いや~、読んでもらわないとだめなので、『超集中力』を実地に活かして、
ブックリストを書いてみました。
わたしも岡本綺堂さんの本はまだまだ読んでいないのがあるので楽しみだし、
リストの本は皆そうですが、何度でも読んで味わいのあるものばかりです。
ヘルミーナさん、こんなにたくさんのブックリスト、どうもありがとうございます。入力大変でしたでしょう?ご苦労様でした。
書き方がとてもよいせいか、どれも魅力的な本たちです。
特に『火星のタイムスリップ』『半七捕物帳シリーズ』『美しい星』が魅力的で、いつかは読んでみたいと思いました。
あかーん。
それほどハードな本になじんでないけど、本物が読みたいという感じで選考しています。
「これが入ってない!」「これも追加して!」って場合はどなたか補完してください。
入手できないとつまらないので、現在入手しやすい本というのも基準です。
『夢十夜 他二篇』 夏目漱石 (岩波文庫)
「夢十夜」と随筆2篇。漱石はとっても小説の技巧的に優れていた人なので、小説を読みたい! って人は『三四郎』あたりが入門にいいかも。
『グッド・バイ』 太宰治 (新潮文庫)
とっても魅力的な文章家、太宰。「走れメロス」や『人間失格』よりさきにこちらを。
「フォスフォレッセンス」が忙しいなか口述でさらさらとできたということを聞いて、わたしは創作をあきらめた、というのは半分ウソで半分本当です。
短くて不思議だったりちょっと怖い小説を書く人。随筆もなかなかいいです。漱石の一番弟子だったというだけで凄さがわかると思います。
『沈める滝』 三島由紀夫 (新潮文庫)
あるSF作家が、三島由紀夫はその時代の風俗小説を独特の香り高い文章で、文学に仕立てあげた、と書いていましたが納得です。『美しい星』もいいかも。
『一千一秒物語』 稲垣足穂(いながきたるほ) (新潮文庫)
童話、小説、随筆、論文……? といろいろなスタイルを使い分ける、「地球へはネクタイを取り替えにきただけ」という彗星が書いた作品群。彗星が書いたという設定の作品があるのではないです。稲垣足穂さん自身が彗星のような「地球人離れ」した方なのです。
『檸檬』 梶井基次郎 (新潮文庫)
みずみずしくて端正な文章によって綴られた、宝石のような掌編小説集。微熱を帯びたような文章に病みつきになります。本屋さんに檸檬を置いてきたくなるかも。
『半七捕物帳』シリーズ 岡本綺堂(おかもときどう) (光文社文庫)
推理と江戸情緒の味わえる半七シリーズもいいのですが、岡本綺堂は怪談もなかなかの絶品です。彼のは全部読んじゃう、そして再読しちゃう、そんな魅力にあふれています。
『カフカ短編集』 フランツ・カフカ 池内紀編集 (岩波文庫)
同じような短編集で『カフカ寓話集』(岩波文庫)もいいです。『変身』や『審判』のような、重いカフカ像がひっくり返るかも。
『聊斎志異(りょうさいしい)』上下 蒲松齢(ほしょうれい) (岩波文庫)
清朝の支那(中国)の怪異譚集。短い話ばかりなのでぽつぽつと好きなように楽しんでいけます。他の出版社からも出ているけど、岩波文庫が安価で手に入れやすいと思います。ただ、岩波文庫は上下のボリュームでも全編を収録しておりません。
『デミアン』 ヘルマン・ヘッセ (岩波文庫)
小さいときの甘かったり切なかったりする記憶がとっても呼び起こされる作品。他の文庫でも出ていますが、わたしは実吉捷郎(さねよしはやお)先生の訳が好きです。
時間改変もののSFといえば楽なのですが、そんなふうには片付かない、現実が崩壊してゆく感覚が味わえる「読むクスリ」wです。ディックは『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』を読むとニコタのアイディア源かな? と感じると思います。
『饗宴』 プラトン (岩波文庫)
プラトンが描く、ソクラテスの知の産婆術。みんなでお酒を飲みながらわいわいと本当の愛についての対話。これがなかなか面白いのです。哲学の初歩にしていまだ乗り越え困難な一冊。岩波文庫バージョンは舞台背景の解説もあるのがいいですね。
『ブラウン神父の童心』 G・K・チェスタトン (創元文庫)
渋い推理小説。神父さんが主人公なので、必ずしも犯人を探るだけではなく、贖罪、赦しの道をも示してあげるところがいやな読後感にならないと思います。ブラウン神父のシリーズ、わたしも『童心』以外はこれから読むので楽しみ。文体意識がとてもしっかりしていて、文章だけで「酔える」と思います。
『賭博者』 ドストエフスキー (新潮文庫)
本当なら、『悪霊』『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』をお勧めしたいところ。最初はとっつきづらいけど、ハマると寝食を忘れます。あっというまに読めちゃう。でも入門として『賭博者』もいいかな、と。これを読んだら『悪霊』などに挑戦してみてください。
『夜の果ての旅』 ルイ・フェルディナン・セリーヌ (中公文庫)
上下巻と長いのですが、序盤を我慢すれば絶対にページを閉じられない破格の作品。全編を覆うがむしゃら感、やけくそ感がたまりません。一箇所だけ、きゅんと甘い箇所があるのですがそのインパクトときたら!
『悪魔の涎・追い求める男 他八篇』 フリオ・コルサタル (岩波文庫)
これ手許にあるはずなんですが見つからなくてネットで調べましたw ラテンアメリカ文学独特の熱気とユーモアと文明批評。難しいこと抜きで面白いです。「南部高速道路」がとくに傑作。
『黒いカーニバル』 レイ・ブラッドベリ (早川文庫)
短編の名手ブラッドベリ初期の、怪奇小説っぽさの強い一冊。ブラッドベリの短編集はどれを買っても「当たり」だと思います。自選短編集『万華鏡』(創元文庫)もなかなか。
これは役に立つ本です!
超集中と速読を駆使して一日に10~20冊の読書(!)をするという著者の、専門書のデータに裏打ちされた集中へのノウハウ本
まとめたブログなどもあるのですが、個人的に役だったところをまとめてみます。
☆多すぎる選択肢はウィルパワー(集中するための心的エネルギー)を消耗する。
やりかけのまま先延ばしにした案件があると「決定疲れ」を起こしウィルパワーを消耗する。
人は行動ではなく、「意志決定」で疲れてしまう。
☆集中できない、のはまだ野生の時代にあった名残り。
食事に没頭していると敵対生物に襲撃などに対処できなかったから。
☆姿勢は重要、血流がよくなって脳に酸素が行き届きやすい>前頭葉活性化
また、つねによい姿勢をとろうという集中は、他の集中にもよい影響を与える。
☆座っていても15分に一度は立ったほうがいい。
じつは座っているから集中力が上がるのではなく、立っていたほうが集中しやすい。
☆白米などの高GI値食品は血糖値の大幅な乱高下を起こす。これは人間にとってストレス。
低GI値の玄米、そば、りんご、全粒粉パンなどがよい。
☆脳の80%は水なので、水分をたっぷり摂らないと集中力と記憶力が落ちる。
(これはヒーリング、ダイエットでも言われていることです>水、白湯をたくさん飲む)
☆意志による選択を阻害する携帯、スマホ、読みかけの本や漫画などは、100均で売られているような大きな箱にしまって遠ざける。
しまう作業が「これからやるぞ」というスイッチにもなるし、視界から遠ざかると人間は重要ではない、という認識になるため。
☆集中力を高めるには口呼吸よりも鼻呼吸がよい。
☆目のストレッチ、ぎゅっとつむってまたパッとまぶたを開く、これを数回。そのあと、ゆっくり眼球を上下に動かし、右回り、左回りに動かす。
目の疲れによる集中力の低下からのリフレッシュもあるし、ドライアイ防止にもなる。
☆作業開始の5分後は、かんたんな作業でスタートダッシュのための起爆剤にする。
↓
……などなど。
とりあえず単独でも活きるやり方を抜き書きしてみました。
まとめブログを読むのもいいと思います。
例えばココ。
http://bit.ly/2juNo2r
ただ、読んでいて流れ的なものもあるので、有機的に把握するためにはぜひ読んでみて欲しいです。
猫好きには問答無用でうれしい本。
でも著者の河合隼雄先生はべつに猫好きではないそうで(犬好きでもない
魂の問題を考えるときに、猫の多種多様な性質がヒントになるから、と書いています。
でも、河合先生は猫についても人についても、もうユング派というか河合心理学ワールドに引き込んで、本当に面白く読ませてくれるのですよ。
ホフマンの『牡猫ムルの人生観』、ペローの『長靴をはいた猫』、ル・グィンの『空飛び猫』、宮澤賢治作品に登場する猫……などなど文学作品+漫画、大島弓子さんの『綿の国星』を題材にとりあげています。
個人的にはラスト3章の、大谷崎『猫と庄造と二人のおんな』、『綿の国星』、コレットの『牝猫』について書かれたものが深くて印象的でした。
母なるものとしての猫、そしてその逆に母から子供を見つめたときに、思春期になると感じ始めるという思春期アレルギーという「猫性」。
本書の冒頭で、猫性を「獰猛・残酷」「女性的・母性的」「気持ちのよい怠けもの」「自立的・ずるがしこい」の4要素から「猫まんだら」を作った心理学者の説が紹介されますが、たしかにわたしの思春期時代、母から見ればまさしく「猫性」全開で忌み嫌うべきものだったのでしょう。
魂とは、人の肉体と心を分離したのちまた合体させてももとの人間には戻らない、
そのためには魂というものが必要なのです。
魂を考えることと猫と考えること、その二つが一緒になった楽しい本でした。
平河出版社mind books
一言で表現すると、いい意味で途方に暮れてしまう、そんな本でした。
本書は、各パートが基本的に、瞑想に関するクリシュナムルティの見方、誰かと対話するその場所を瞑想するかのように見ているその描写、そして対話本編です。
たまたまクリシュナムルティについて調べていて、こんなサイトの文章があったのでURLを貼ります。
個人的にはとても納得するところの大きいものでした。
我々はなぜクリシュナムルティに数歩も近づけないのか?
http://bit.ly/2kfEcDh
上記URLにも書いてある通り、わたしの知り合いにも(さんざんわたしの趣味思考などを模倣しつつ)、創作への劣等感をこじらせ、やっと写真という道を見つけたはいいものの、機材が保証する最低の作品しか撮れぬくせに、ベレー帽などかぶって「芸術家」ぶりは一流という人がいます。
こう書いて、じつはブーメランではないようにするのは至難の業です。
クリシュナムルティの言葉は、ソクラテスの対話篇のように、対話者の質問に、相手が自分で気づくように質問で返す。
ソクラテスは思考の産婆術と呼んでいたけれど、クリシュナムルティは思考という人間を限定する精神の動きを否定します。
大多数の人間はまず考えてしまう。
なのでクリシュナムルティの語る豊饒にしてシンプルな内容に、「わかるんだけどわからない」という微妙なところで終わってしまうのではないかしら?
そして、クリシュナムルティの語る境地は、なにかの積み重ねでたどり着けるどこか、ではなく、さっと革命的な魂の動きさえあれば見いだせるものなのかもしれません。
でも重ね重ね書くとそういうものがどれだけ人間にとって難しいものなのか……。
↓
これが、いい意味で途方に暮れる、と書いた理由です。
ただ、毎晩寝る前の瞑想の効果、それにわけあってわたしは外に出るとき夕方ですが、その日の入り時の大きな公園の自然の美への没入、そこらはわかります。
とクリシュナムルティに切り替えされそうですが……。
「現在に生きるためには、精神は昨日の記憶や輝かしい明日への希望によって分断されてはならない。精神は明日も昨日も持ってはならないのである。これは何ら詩的な言辞ではなく、ありのままの事実である。生動しつつある現在には詩や空想の介在する余地はない。しかしこれは美を拒否することではなく、探求によっては見いだされないところの現在における美が、愛であることを悟ることなのである」(クリシュナムルティ)
あとがきによると
「時代を横に切るアンソロジーを編んでみたい」
というコンセプトから生まれた本だそうです。
短編小説にとどまらず、エッセイやパロディも盛りこまれています。
収録作品の傾向はばらばらですけど、
たしかに、なんとなく共通したトーンが感じられるような。
アンソロジーとしては編者のベストワークのひとつかも。
わたしが特に気に入ったのは、
スケッチ風に市井のひとびとを描いた、
アルテンベルクの「小品六つ」。
当時の文学者たちをおちょくった
ブライの「文学動物大百科」。
ユングの『タイプ論』には歯が立ちそうにありませんけど、
これだったら最後まで読みとおせるかと思って。
外向・内向とか合理・非合理とか、
人間を周到に観察したうえで導かれた概念だと感心させられました。
どうしても虫の好かない相手というのがいるものです。
タイプの違いとかシャドウとかに結びつけて解釈すると、
必要以上に相手を嫌ったり憎んだりしなくてよくなる、かも
(これは河合隼雄先生の受け売りです)。
わたしがいちばん惹かれたのは「キラキラ星」のくだりでした。
「キラキラ星みたいに小さくて、真っ暗闇みたいに大きい」
なにものかについての、男の子の問わず語り。
わたしたちの内側の深み、
どこか奥まった静かなくぼみのようなところで、
小さな小さな光が大きな大きな闇に包まれて輝いています。
それは、たぶん誰にも奪いとることも、
消しさることもできないものなのでしょう。
わたしたちが生きてるかぎり、
キラキラ星と真っ暗闇がそばにいるんだなぁ。
この本の下巻に入って比較的すぐ、革マル派が敵対している中核派のトップをテロで暗殺に成功します。
そのあとの中核派の猛反撃と、ひるんだ革マル派の「停戦宣言」。
また、あの、『死霊』の作者、埴谷雄高さんが代表となり、「革共同両派への提言」がなされるのですが、その中に中井英夫さんの名前もあります。
もしかしたら『虚無への供物』の中井英夫さんとは同姓同名かもしれません(が、中井さんはこうした政治的なコミットはしないような気もするのですが、同時に、中井さんはワーグナーですら嫌いという反戦主義だったのでちょっとわかりません
立花隆さんの予想では、ある程度公安が両派を泳がしておいてから一斉に検挙、組織として破防法適用、だったようなのですが、現実には(両派に公安のスパイが大量に潜入しつつ)現在に至るまで健在。
ただ、国家権力や敵対する革マル派への暴力闘争をメインにすえた中核派とはうらはらに、革マル派は国鉄→JR、郵便などなど大手労働組合への浸透をメインにしていたため、たとえば近年の民主党政権などには、革マル派の影響もあったのかもしれません。
大手組合を牛耳っているということはそれだけ票の影響も大きいでしょうし。
(実際に、ちょっと誰だったのかはわかりませんが当時民主党の誰かに近い人物が革マル派だとスクープされました
その意味では、革マル派はたとえ広告代理店のB層への影響という追い風を利用したとはいえ、いまだに(日本共産党と同様に)潜在的な脅威であるとはいえると思います。
公式トップページを見るとハングルのプラカードを掲げている画像があったりしてこちらもお里の知れる中核派のほうですが、去年、こんな記事がYahoo!に載りました。
http://news.yahoo.co.jp/feature/214
動画はちょっと必見かも。
立花隆さんは『日本共産党の研究』という大著も書いていて(全3巻)、もともと怖いなぁと思っていたけど、もっと本気で「ヤバさ」に気づいた日本共産党について、こちらもそのうち読みたいなぁと思っています。
あることがきっかけで(ブログネタにそのうちします)ちょっと読み返そうと思った本。
もともとは同じ左翼系政治活動組織だったいわゆる過激派、中核派と革マル派の思想的な変遷と熾烈な内ゲバ(敵対党派への暴力)のドキュメントです。
読んでいると、1970年代前半とはいえ、この日本のできごととはとても思えません。
暴力もただの殴り合いからはじまって、しまいには鉄パイプやバールを使った殺し合いに近いものになっていきます。
上巻では同じ組織から思想上の対立で中核派と革マル派とに分裂するところから、内ゲバで初の死者が出てしまい、お互いにもう引っ込みがつかずどんどんエスカレートするあたりまで。
この本、一時犯罪ドキュメントに凝っていたころ買ったものですが、わたしは主義や思想は嫌いでも旧ソ連の工業デザインやら、プロパガンダのポスターなど、共産主義がらみのものが好きだったりします。
共産「趣味」者とかいわれるやつですね。わたしはそこまでディープではないですが。
それにしても以前読んだときにはなんともなかったのですが、機関紙などに載った襲撃の詳細、その引用などを読んでいるとあまりの凄惨さに引きます。
なにが凄いかって結局、中核派も革マル派もいまだ健在なのですよね。
内ゲバをしているかどうかは知りませんが。
ただ、これを読み始めた日、ちょうどネットニュースで革マル派の二代目最高幹部が家宅捜査されたというのを読んだのはちょっとシンクロニシティかも。
約3ヵ月ぶりにこのシリーズを読んだが、なんの障害もなく、何も考えずに、スッと物語の世界に入りこむことができた。そんだけ作者の力量が素晴らしいという証拠。と言えるだろう。今回は女の子ばかり出てくるみたいだが、そんなことはどうでも良い。すんなりこの世界に入れることができるかどうかが、問題だ。・・・・だけど、本当に女の子目線の心理描写なので、可愛い過ぎて、ちょっと笑えてくる。ただ、キリト君、ちょっとモテすぎな気がしなくもない。
詳しくはブログにて
http://www.nicotto.jp/blog/detail?user_id=1519417&aid=63485476
きのう図書館に返してきました。
エッセイ集『あの素晴らしき七年』も秀逸でしたけど、
著者の本領は、
どちらかといえば短編小説にあるように感じられます。
短編っていうよりショートショートですね。
この長さは。
わたしたちが見落としてる現実の裂け目に鋭いナイフで切りこんで。
ちょっと誰も真似できないような手さばきで反転させたり、
内臓とか手品の白い鳩とか取りだして見せてくれたり。
シニカルさとひとなつっこさが、
絶妙な配合で共存してるのも、このひとの特徴かもしれません。
頭の回転がおっそろしく早いのだろうな、ケレットさん。
「らばの復讐」というエッセイがあります。
ドーデの『風車小屋だより』に、
若者から酷い目に遭わされたらばが仕返しをする話があるそうです。
私もらばに拍手を送った。
爽やかだと思った。
このくだりを読んで、この本は買って読まなきゃ!と。
人を人とも思わない性悪がどこにでもいて、
それを避けて通れない、とか。
転んで泣いている子をさらに突き倒すような大人とは、
関わりたくないけれど、
そういう人物について書いてみたくなる、とか。
よぉ、俺!と言いたくなりました(笑)。
こういう出会いって心の奥のほうの、
目立たないけど深いところで力になってくれてると感じるんです。
理恵さんは大の猫好きで、
愛猫についても数々のエッセイを残しています。
亡父が動物嫌いで室内飼いを厭がったので、
わたしは猫と縁がなくて犬派になりました。
家に猫がいたら猫派になっていたかもしれません。
他人と関わることの苦手な人間は、
犬よりも猫のほうと相性が良さそうに思えるので。
引き裂こうにも引き裂けない「無名の存在のざわめき」が告げるものは「ひとには存在する義務がある」ということである。私が存在するかぎり、私は存在そのものに曝されつづけるイリヤ(ミーナ註:il y a=「在ること」)だが、そうであるとすれば、私が存在することには、たんにあること以上の、イリヤ以上の意味があることになる」
この本は猶太(ユダヤ)人であり、猶太教の影響をかなり受けていた哲学者、エマニュアル・レヴィナスの哲学入門書です。
レヴィナスは現代哲学のなかでもマイナーなほうなので、レヴィナスの書いたモーリス・ブランショ論を読む予習のように読んだのでした。
本書では、自分や他者の存在論のテーマが、レヴィナスの主著を通じて、最初から晩年までを、どう進化/深化してゆくのかを書いた本です。
その意味では、レヴィナスの哲学についてざっと見取り図が欲しいという人には少々がっかりかもしれません。
本のまるまる要約をしないと書けないので、個人的にグッときた箇所をあげると、まずは☝で書いた部分。
それに加えて、最晩年の思考、
「生は生に反して剥がれ落ちてゆく。生は生であるとともに生が剥がれ落ちてゆくことである。老いることが不可避であるとは、そういうことだ。(略)この身体として生きているかぎりでの〈私〉は、こうして不断に自己を喪失している」
「生きてゆくかぎり、いつでも他者が死んでゆく。他者のみが死につづけてゆく以上、わたしはつねに「生き延びた者」ありつづける。(略)この私が生きのこることに最終的には根拠などありようがない。(略)そうであるなら「私は他者が死ぬことについて有罪である」」
この二つは存在のありかたを極端なまでに突き詰めた思考だと思います。
極端さは猶太教、旧約聖書の「ヨブ記」(義人ヨブが神からすさまじい試練に遭う)などを引き合いに出されればわかるかと思います。
また個人的には、旧い友人の一人が急死し、もう一人が行方不明・生死不明な状態にあるため、ずしんと響く言葉でした。
GOSICKs(外伝)の二巻目です。検屍官ケイ(パトリシア・コーンウェル)・シリーズの次にこれを読むと、この作品の甘ったるさが、眠気を誘う・・・というか、頭が少し混乱する。しかし、(短編集なので1話ごとに話が終結する。)話ごとの題名は、”花降る亡霊”、”夏から遠ざかる列車”、”絵から出てきた娘”など、なかなないいセンスをしていると思う。特に”花降る亡霊”が、ロマンがあって良い。花びらをまきながら、白いドレスの女の亡霊・・だなんて、(あるわけない・・とかは、別にしてw)ロマンがあって、良いじゃないか。
相変わらず三流漫画の表現の仕方だが、前巻と比べて、若干、推理が面白くなってきた感じだ。特に”怪人の夏”と”夏から遠ざかる列車”と”絵から出てきた娘”が面白かった。この短編集は続くみたいなので、次回にもっと面白いのを期待しよう。
検屍官ケイ・シリーズの9巻目です。相変わらず性とかの描写が、ストレートです。こちらが気恥ずかしくなるぐらいに・・・。まぁ~、そこがアメリカらしいっていっちゃ、アメリカらしいんですが・・・。でも、ストレート過ぎて、浪漫が少々無い気がします。
詳しいことはブログにて。
http://www.nicotto.jp/blog/detail?user_id=1519417&aid=63432562
今年も一年まことにありがとうございました♪
このサークルもあって、わたしも読書する励みになったというものです。
また、このサークルで紹介されたりして、興味を持って読んだ本もいくつかありました。
逆にわたしが紹介した本も皆様の刺激になっていれば幸いです。
皇紀2677年も、どうか本サークルをよろしくお願いいたします☆
皆様が迎える新しい年が、幸せと素敵な本との出会いに満ちたものでありますよう、
不肖の管理人ながら祈念しております。
……そして。
メンバーの凛凛香さんから、読書ガイドを作ってみるのはいかが? との提案を受けました。
このスレでかまいません、どんな方面、質的にはどんな感じ、
あるいはガイドづくりができる方なら誰でも、
このサークルならではの読書ガイドを作ってみるのはいかがでしょう?
さっそく新しい年への課題も出来たところで、皆様、よいお年を!! 多謝!!
ニーチェは、今日? ジャック・デリダ✖ジル・ドゥルーズ✖J.F.リオタール✖ピエール・クロソウスキー ちくま学芸文庫
この本は72年に行われた、ニーチェに関する講演とその質疑応答からできた本です。
はっきり言って難しすぎました。訳もこなれているとは言い難いです。
作家でもあるからなのか、クロソウスキーの論考がいちばんわかりやすかったです。
ニーチェの思想にある秘密結社性、陰謀性、パロディ性をあきらかにする作業。
この場合の秘密結社とか陰謀とかは、必ずしも政治体制的なものではなくて、それらが存在するだけで政治体制的に脅威となるような、精神的・存在的な前提として「なにかやばい」ものなのですね。
パロディもそう。基本的には旧い攻撃ではなく、笑いの戦略を持ってくること。
ジル・ドゥルーズの講演から、とっても素敵だったフレーズを抜き出すと、
「生きることは生き延びることではない」という活動家の言葉の紹介、
「ニーチェを笑わずに読む者、それも大いに笑い、ひんぱんに笑い、ときには狂い笑いすることなしに読む者は、言ってみれば、ニーチェを読んでいないようなものです」
やっぱりニーチェは、ニーチェこそが最強の哲学者!?
ニーチェのいいところは原典、彼の書いた本がそれほど難しくないところでもありますね。
とっても元気の出る本ですし。
そして、ちくま学芸文庫といえばもはやお約束?
本書にも、「全て」という意味で、「すべからく」(漢字で書くと「須く」)を誤用した箇所があります。
変に恰好をつけた訳文の前にもう少し日本語としてこなれた文章につとめて欲しいところです。
四作目は蛇足でした。
でも、全体的にテンポよくて、剣道に素養なくてもサクサクよめました。
個人的にエイティーンのサブストーリーで、モデルの姉の恋愛話にホロリ。
お手すきの暇つぶしに、まずはシックスティーンなどいかがでしょうか。
『鹿の王』
2015年本屋大賞、これは正直期待外れ。
守り人シリーズが面白かっただけに、うーん。
伏線が多いので、サスペンス系が好きな方はお好きかもしれません。
空虚と孤独みちみちて。
ここにも。
やがて、やってくる氷を待って。
いえ、芯にあるものは変わらないんだけど、
この本では意外なくらいに多面的な切り口に驚かされました。
戦争に伴う数々の体験が強く影響しているようですね。
カヴァンって自閉的な作家で、
外傷体験のモチーフを繰りかえし紡いで自己救済をはかってた。
そういう印象を、わたしは持っていました。
でも、そればっかりではなくて、
弱きもの小さきものの側に立って書く作家でも、あったようです。
いっさいの感情が凍結して捨象されたような、
彼女の世界の永久凍土の、その下に。
そして繰りかえし語られる、
不確かすぎるこの世への不信感。
ああ、これ、身に滲みて知ってるものだって感じがする。
世界のすべてが見えない誰かに操られ、
敵意を秘めて自分に向きあってきてる感じ。
「わたしの居場所」と「われらの都市」が、
とりわけ、わたしには響きました。
訳を手がけた細美遙子さんによる、
愛情こもったあとがきにも好感が持てましたね。
カヴァン姐さん、訳者に恵まれてるなぁ。
空虚と孤独みちみちて。
ここにも。
やがて、やってくる氷を待って。
いえ、芯にあるものは変わらないんだけど、
この本では意外なくらいに多面的な切り口に驚かされました。
戦争に伴う数々の体験が強く影響しているようですね。
カヴァンって自閉的な作家で、
外傷体験のモチーフを繰りかえし紡いで自己救済をはかってた。
そういう印象を、わたしは持っていました。
でも、そればっかりではなくて、
弱きもの小さきものの側に立って書く作家でも、あったようです。
いっさいの感情が凍結して捨象されたような、
彼女の世界の永久凍土の、その下に。
そして繰りかえし語られる、
不確かすぎるこの世への不信感。
ああ、これ、身に滲みて知ってるものだって感じがする。
世界のすべてが見えない誰かに操られ、
敵意を秘めて自分に向きあってきてる感じ。
「わたしの居場所」と「われらの都市」が、
とりわけ、わたしには響きました。
訳を手がけた細美遙子さんによる、
愛情こもったあとがきにも好感が持てました。
カヴァン姐さん、訳者に恵まれてるなぁ。
スッと物語の世界に入りやすく、1つの章が短いせいもあり、さくさくと読みやすい。話題が”就活”のせいか、今までと比べて、気楽な雰囲気で、読んでいて気が重くならなくて良い。
詳しいことはブログにて。
http://www.nicotto.jp/blog/detail?user_id=1519417&aid=63377216
「ぼくらはもう一度自分たちの大義の正当性に自信を持ち、すでに捨てかけていた愛国主義のぬくもりへと稲光りのような速さで戻ったのだ。ぼくらはもう一度、日々民間人を攻撃せざるを得ない占領国ではなく、自分たちの命のために戦う、敵国に囲まれた小さな国となれたのだ。
だからぼくらがみんなひそかにちょっとだけホッとしたとしても不思議ではないだろう?」
イスラエルの作家、エトガル・ケレットの自伝的エッセイ集です。
冒頭に抜き出した言葉はちょっと重々しくて反則かもしれません。
というのも、戦時状態が常態化しているイスラエルでの日常をただ重々しく書いただけではないから。
自分に対してとても醒めていて、そこから逆に生まれるユーモアがまた面白悲しいというか、とにかく、あらゆる状況を言葉で組み替えて、その言葉にユーモアを込める、その結果書かれたショート・エッセイの数々がとても面白いし、悲哀を感じさせるし、日本の文化とはまったく違う文化を教えてくれたり、日常に戦争という暴力があること、猶太(ユダヤ人)であること、猶太教の信仰の問題など、軽い文体のなかに複雑すぎる問題をさりげなく忍ばせる、それが読んでいてとても興味深いのです。
今興味深いと書いて面白いと書かなかったのは、書いたように軽い文体とユーモアのなかにとても重い事象が取り上げられていて、一篇一篇が短いのに、それを消化するのにけっこうこちらも労力を使うのです。
↓
基本的に団塊の世代というのはお花畑脳、とかよく言われますが、実際に朝日新聞を購読しているあるジャズ喫茶のマスターは、イスラエルのジャズ・ベーシスト、アビシャイ・コーエンについて「イスラエルは暴力国家なので聴かない」といった旨の発言をしました。
ジャズ発祥のアメリカのほうがよっぽど罪深い暴力国家だと思うのは置いておいて。
とにかくそんな人まで、暴力国家と称するイスラエルは、あたりまえですがイスラエルといえども政治的、人間的、さらに日本人にはなじみのない視点でしょうが宗教的なスタンスで、多種多様体なのですよね。
名前はとくに出しませんが、わたしの日記に触れて評価してくださった方が、(わたしの文章についてではないのですが)、「敵と思っている人にも敵にも血と肉があり、試行錯誤と苦悶と妥協を重ねてきた」ことを忘れないで欲しいということ。
確かに国としてのイスラエルはわたしも嫌いです。人種としての猶太人も。
わざわざ欅坂の衣装に文句をつける前にガザ地区の虐殺と弾圧をやめろ人権ヤクザ、と言いたい。
けど、ケレットの文章を読むと、その、血と肉があり、無様なことも毎日のようにあって、それをユーモアたっぷりに描く、そして、冒頭に引用した、戦争状態でなければガザ地区への弾圧があるけれど、戦争になれば自分達も危険にさらされて、フィフティ・フィフティでホッとする、そんな人もいるのだなぁ、
と。そしてケレットひとりだけでないことを祈るように求めます。
なんだかちょっと本から脱線したような読書日記になってしまいましたが、肩がこらずに肩がこるような問題をユーモアにくるまれた文章で読めて、豊かな読書体験でした。
Gシリーズの6巻目です。初めは、今までのと同じように、連続殺人事件(今回は首吊り自殺にみせかけた)かと思っていたが・・突然、10年以上前の、萠絵ちゃんのご両親が死んだ飛行機事故は、本当は何らかの陰謀があり、それによって萠絵ちゃんのご両親が亡くなったかもしれないことが分かり、動揺する萠絵ちゃん。そして、復讐に火がついた(お姉さんがこの事故で亡くなった)金子君と(恩師を亡くした)犀川先生。二人がどうやって、この感情をコントロールするのか、注目です。
詳しいことはブログにて。
http://www.nicotto.jp/blog/detail?user_id=1519417&aid=63359760
この本はニコ戦友のヨシノ@Eisさんの読書日記がすごいよさげだったので駿河屋で買ってみた本。
夏目漱石のお弟子さんでなおかつ理学博士だった寺田寅彦。
科学者ならではの明晰な視点と、人間らしい暖かみのある視点がひとつになっています。
寺田寅彦自身が単に科学者というだけでなく、俳人であったりチェロを習っているのです。
だから彼の短い(だいたい1ページぐらい)の随筆も「粋」というよりはむしろ素直な心地よさ、人間らしさにあふれています。
「三毛の墓」という一篇は、おそらく寺田家で可愛がられていたであろう三毛猫の死を悼む歌詞と楽譜だけです。
三毛のお墓に花が散る
こんこんこごめの花が散る
小窓に鳥影小鳥影
「小鳥の夢でも見ているか」
三毛のお墓に雪がふる
こんこん小窓に雪がふる
炬燵布団の紅も
「三毛がいないでさびしいな」
(寺田寅彦自筆の楽譜、それを打ち込んでみたMIDIファイルが
http://bit.ly/2hIjWs5
にあります)
ただ単に、歌詞と楽譜(ちゃんと曲まで作って楽譜を載せるとは)だけなのが、
寺田寅彦の猫への愛情を物語っているようで読んでいて心に沁みました。
心の忙(せわ)しくない、余裕のあるときにひとつずつ読んで欲しいという寺田寅彦の序文どおり、ちょっとした時間に柿の種をぽりぽり食べるように読むとこちらも気分がほぐれる本です。
わたしは後半からは我慢できないで一気食いをしてしまいましたが。
いつもツンデレ気味に書いているのですが、わたしはマルクス主義には否定的です。
ただ、マルクスも教養として必須だし、本来の政治経済思想よりも、もっと現代の哲学思想に与えている影響が大きいので読むのです。
この本は、下URLのブログを読んでからだとわかりやすいかも。
というか、そのブログを読まなければ本書は難解だったかも。
http://bit.ly/2hoH6nj
難解というのは政治哲学的思想が、ではなくて歴史的側面を知らないと難しいし、つまらないのです。
1871年の春に起こったパリでの市民蜂起。
序盤には、パリ・コミューン(英語でいうCommonの仏語ですが、コミュニティ、共同体という捉え方でいいと思います)は、弾圧、鎮圧しようとしてきた将軍2名を猛る群衆がぶっ殺したりして熱いです。
本書の巻末にある資料でも、なかなかその当時の労働者共同体へむけてのアピールなど、熱くてなかなか読んでてこちらも燃えてきます。
このコミューンはわずか72日間で幕を閉じました。
ただし、奇跡というか今から思うと牧歌的というか、公務員に相当する職務の給料が他労働者と変わらない、またいつでも罷免(クビね)できるなど、自分たちでパンや銃器の工場を稼働させながら必死の抵抗を続けたのです。
本書で何度も出てくるのが、新しい共同体は古い既存の政体などをそのまま使うわけにはいかない、新しい酒は新しい革袋に、という論理です。
これはなかなか示唆に富んでいると思います。
また、歴史に持ち出してはならないのですが、IFを持ち込むと、
パリ・コミューンに当時獄中にいたアナーキスト、ブランキが参加していたらどうなっていただろうということ、
パリ・コミューンがその母体、第一次インターナショナルの思想としては当然に、フランス国内だけに蜂起を呼びかけるのではなく、世界中だったらどうだったろうか、ということ、
パリ・コミューンの武装蜂起は10日あまりの民主主義的な作業のあとにはじめられた、その10間が無駄だったということ、これが即座にヴェルサイユ派への攻撃として繰り出されていたらどうだったろう、そこらが気になります。
↓
ちなみに、この本は岩波文庫の復刊フェアで出たものなので、かなづかいこそ現代のものですが、漢字はまだ正統漢字(旧漢字)を使っています。
反日左翼がかった連中がやたらひらがなやわかち書きをしたがり、愚民化を推し進めるのに必死な現在、日本主義者が正統漢字で書かれたマルクスを味わいながら読むという皮肉!
「もっとうたいましょう。
もっとうたいましょう。
それが「○(か。可の字を上下につなげた文字)」。それが、うた。
今の歌という字は、新生児。
「欠」は口を大きくあけた人の形。「欠」がなくても「うた」でした。」
(本書最終ページより)
漢字、支那(中国)文学の大家、白川静先生と哲学、歴史の梅原猛先生の対談本です。
日本の教養を代表するような二人の先生ですが、かたくるしくなく、漢字の話から、孔子、そして支那古代の詩などについて楽しく語り合っています。
古代の日本語は古代アイヌの言葉と古代朝鮮語を混ぜたものではないかという説、
よく言われるように孔子の言葉で「人間は中庸がよい」というの、でもどんなときにも「中庸を失わない」というような人間はいない、孔子は中庸の次の狂狷(きょうけん)、なんでも採り入れてしまう進取の才を持つか、まったく採らないという潔癖さか、とにかく狂った状態がいいということ、
支那古代の殷の時代「文身(ぶんしん)の俗」という風習があり、これは実際には彫らない入れ墨のこと、で、この習俗は現代にいたるまで日本にあって、妊婦さんに「犬」の文字を朱で書き入れたりすること──殷と当時の縄文時代の日本にはかなりの文化的な関係があったのではないかということ、
平将門公、首と身体をべつべつにされてしまうわけですが、首は首塚で、身体は神田明神、この「神田」の地名、(将門公の)身体という語源ではないかという説、
とにかく読んでいて、好奇心や歴史へのロマンをかきたてられる本なのです。
そういう本は一級の教養を持ってないと生まれないし、
真の読書の楽しみのひとつは、やはり教養なのだなぁと痛感した本でした。
↓
白川静先生の分野でいえば、漢字というものは、表音、表意と組み合わさって出来ており、同音異義語が多い日本語では便利であること。表音、表意と組み合わさっているので、情報の圧縮がしやすいこと。さらには現在では簡体字だけど支那語とも文字を同じにしているので文字の共有が一応はできていること。
どれだけ漢字が日本語、日本の文化にとって重要で、なおかつ神聖といってもいいのかということを実感した本でした。対談本なので比較的読みやすいというのもメリットですね。
最後に、冒頭にもってきた編集部サイドの文章のように「呪」とは神へと向けた祈りなのです。
歌う、詠むことが祈りであること──まさしく言霊ですね。
今月でお仲間に入らせてもらってから、1年が経ちました。1年間、色々とお世話になりました。皆様ほど、投稿数は多くなく、そして、皆雅と比べれば、とても拙い投稿内容で、1年も読んでくださり、誠にありがとうごさいました。これからも同様になるかと思いますが、どうかこれからもよろしくお願い致します。
さて、本題の読書感想にまいります。
『暁の脱出(グイン・サーガ117、栗本薫)』を読みました。
ガンダルの死も、告発の章も、意外な人の助けのタイミングも、タイスからの脱出劇も、ありきたり過ぎて、とてもつまらない流れだった。
詳しくはブログにて。
http://www.nicotto.jp/blog/detail?user_id=1519417&aid=63306788
スペイン、カタルーニャのバルセロナについて書かれた哲学的紀行文です。
……と片付けられたらどんなに楽なことか……。
雑誌、「マリ・クレール」の取材でバルセロナに訪れた中沢さんが、
数秘学の3、そして4のせめぎ合いをバルセロナやカタルーニャ地方に見た本。
三位一体の3、十字架の4。生産的で能動的な3と、それらを支配、統合、制御しようとする4。
ヨーロッパのなかでキリスト教文明が4で塗り尽くされているとすると、カタルーニャ地方だけが3で生き延び続けているのです。
そのあたりの数秘学、宗教的、数学的、哲学的、美術的なアプローチはとても衒学的で難解な箇所もたくさんありながら読んでいてうっとりする感じでした。
最後になるにつれ、ポリリズムの音楽の終結のように、3と4が手を取り合い、「白」という無の色彩だった現代とそれ以前が「青」という色に塗り変わっていくだろうことが書かれています。
しかし、3次元で起こった旅、そのなかで考え、感じたことを4次元的に書いたというので、バルセロナな古書店のおやじさんならまだしも、飲んだくれのくせにバルセロナの3のことを夜更けに語るジョアン・モレロなどは存在そのものが大嘘なんだろうなあ、これ……。
それにしても黒いマリアのおわすモンセラート山、ピカソやジョアン・ミロの美術館、それにガウディの建築、おいしい食べ物やワイン、といままで似たような憧れはわたしのなかではローマにあったのですが、どうもバルセロナに変更しないといけないようです。
「真っ青な空。それは、ぼくがカタルーニャに来て見た青空のなかで、もっとも青い空だった。スポンジのように、ぼくのたましいを吸いあげていく青い空間。無限をたたえ、方向もなく、表面も深さもない、青いコーラ(場所)。空虚でありながら、なにかの力を放出させつづけている、青。その青空はいま、マリアのふところを離れて、モンセラートの岩の掌から、宇宙にむかって広がっていこうとしている。この無限の、永遠であり、いのちである青空が、生命の受胎をおこなった惑星であることによって、地球は青いのだ」
散文詩のように素敵な終盤の文章です。
完全か完全に近い日本語を流通させないという理由で早川書房の本を不買中ですが、
これは図書館に入っていたので借りて読みました。
が、クオリティではこの本は買うべきです。
SFが好きでよかった、としみじみ読了して思ったSFは久しぶりでした。
全10篇の短編集、どれも傑作揃いで、ハーラン・エリスンの別作品集『世界の中心で愛を叫んだけもの』よりずっと粒が揃っています。
人間への悪意と憎しみしかないAIの世界に閉じこめられ、責めさいなまされる男女5人を描いた、「おれには口がない、それでもおれは叫ぶ」や、
亡くしてしまった愛犬への悲しみと、宇宙スケールでの地球の滅び、それに宗教的な問題がかかわる、じつは読者へのテストである表題作「死の鳥」、
ずっと五つのままで歳を取らない友人のジェフティ。思考の言動も五つのままなのですが、あるときふと、かつて同い年だったジェフティとの信頼を得ていることで、今もまだ彼が五つのときのままのラジオ、映画、まんがなどの〈黄金時代〉が味わえることを知ったジェフティの友人である主人公……「ジェフティは五つ」などなどこの3篇がとくによかったです。
「ジェフティは五つ」のラストがほろっときて涙ぐんでしまいました。
それにしてもエリスンの文章は、形容、装飾が多めで次々とたたみかけるようなめまいのするような文章なのも魅力的です。
最後にやっぱり早川書房だな?! という点をひとつ。
「竜討つものにまぼろしを」冒頭で、ジャズ・コンガ・ドラマーのチャノ・ポゾに対し「パップ」という形容詞をつけていますが、これは「バップ」のあやまり。ちなみに綴りはbopなので原著のミススペルでもないはず。
「ジェフティは五つ」のなかでは、悪党パーカーの作者をドナルド・ウエストレイクと書いていますが、これはウエストレイクだけどリチャード・スターク名義で書かれたものです。エリスンのミスかな?
俳句の同人誌などに書いた、
ごく短いものばかりが集められています。
短くて手軽なぶん、
著者の本音とか人柄が率直に出ている印象を受けました。
大学の構内を歩いていたら、
顔じゅうに皮膚病のできた
「見るもおぞましく、身の毛のよだつ」風貌の男が歩いてきたそうです。
「恐ろしい男」は背中に女の子をおぶっていました。
その子が「おとうちゃん」と呼びかける「なつかしそうな声」に
「何物かが胸の中で溶けて流れる心持ち」がした。
そう書かれたくだりが強く心に残っています。
夏目漱石 三四郎を読みました
あらすじだけをとると漱石作品らしく
すごく簡単な小説のように思えるのですが、
三四郎と美禰子の関係のあの微妙な感じを表現するのは
なるほどそうくるのか〜思いました
三四郎は一体どうなるんだろうと不安が残りますが…
読み終えてほっとしています。
ジュース〈フレッシー〉製造会社の伯父の豪華な洋館で過ごすことになった主人公の朋子。
ひとつ下の小学六年生の喘息持ちで身体の弱い美奈子──ミーナ──は洋館で飼っているコビトカバのポチ子に乗って小学校に通う。
読み始めてすぐ感じたのは、ジョン・アーヴィングの小説のような印象でした。
どこかが突出して異様、というか風変わりなのにたんたんと進んでゆく日常。
その日常にひそむ、文体がいつかカタストロフィックな出来事を起こしてやろうという予感めいたもの。
実際、途中までいきなり、あるいは準備をしながら小規模なカタストロフは起こります。
かつて洋館に併設されていたフレッシー動物園の✖の✖✖が✖✖を起こして✖が✖✖✖しまうこと。
1972年、ミュンヘン・オリンピックのバレーボールに夢中なミーナと朋子が見てしまう、
あのオリンピック史上最悪の人質が全員死亡してしまうという悲劇。
ジョン・アーヴィングが下品というわけではないのですが、
小川洋子さんは上品に『ミーナの行進』を終えられています。
ミーナがマッチ箱を集め、そのラベルから物語を作り出す、小説内の物語、
一般的な日本人には夢のような毎日。
それらが本当にていねいに描かれている作品です。
ミーナの喪失感とそれとは逆にミーナと朋子の力強さを示す終盤近くは、なかなかの描写力でした。タイトルの意味がわかるところなんか涙ものです。
今は中公文庫で出ています。
この本について書くのは困難です。
いわゆる読書日記とは違う感じにならざるを得ないし、できたらクリシュナムルティの言葉に傾聴し、少しでも自分の問題として考えて欲しいので読んでその場でできるコメントやその返しはできないようにしようかと思っているぐらいです。
いくつぐらいの学童を対象にしているのかわかりませんが、全的な人生の問題として教育を重視するクリシュナムルティが彼の学校での講演、質疑応答の記録です。
生に至るはずの英知が恐怖、比較、模倣、野心、などによって殺されてしまうことについて。
たくさんメモを取ったのですが、それを「模倣」するので、わたしはこの本をたぶん一生かかって消化するしかないと思います。
内容で選ぶとどれも片っ端から載せたくなり、しまいには全文を掲載しないとおさまりがつかない本なのでメモや付箋を貼った箇所からあくまでもランダムに載せます。
「敏感であることは、愛することである。「愛」という言葉は愛ではない。また愛は、神への愛と人間への愛というように区別するものでも、一人および多数への愛というように、秤にかけるべきものでもない。花が香りを放つように、愛はそれ自身を豊かに与える。しかしわれわれは自分の関係においてつねに愛を秤にかけており、それによって愛を殺しているのだ」
↓
「恐れている人は他人のまねをするものだ」
「自分が将来何かになるつもりだと言うことはたんなる理想主義であり、そして理想主義者とは、あるがままから逃避し続けている人間のことである。彼は事実から逃げているのだが、しかし事実はただ現在においてのみ変えることができるのだ」
「現代の教育の欠陥のひとつは、それが私たちをきわめて独特だと感じさせ、いわゆる普通の人よりもずっと偉いと思わせることだ」
「私は野心的であることは災いだと思う。野心は一種の私利私欲、自己閉鎖であり、それゆえ、それは精神の凡庸さを産む。野心に満ちた世界のなかで野心なしに生きることは、実は報い、結果を求めずに、何かをそれ自体として愛することを意味する。しかしそれは非常に困難だ。んぜなら全世界、君たちのすべての友だち、親類の誰もが成功し、達成し、ひとかどの者たちになろうと必死になっているからだ。しかしこのすべてを理解し、それから自由になり、そしてほんとうに自分が愛すること──それが何だろうと、あるいはいかに地位が低く、認められないものだろうと──をすること、思うにそれが偉大な心、、けっして是認、報酬を求めず、もとごとをそれ自体のために行い、それゆえ凡庸さの影響に左右されない力、能力を持つ偉大な心を目覚ますのだ」
これは実際に佐野元春の楽曲からタイトルや歌詞を拝借して、まったく新しくてみずみずしい短編にしたてあげた作品集です。
この本は再読で、前回読んだときにはぜんぜん佐野元春の音楽に触れてなかったのですが、今は「ナイアガラ・トライアングルvol.2」「ビジターズ」それにスポークン・ワーズ作品「エレクトリック・ガーデン」などで知っているので味わいもちょっと違いました。
小川洋子さんの小説、その小説の物語性って特殊な気がします。
たとえば歌詞に物語を聴き込むから邦楽の日本語詞しか聴かないという人や、創作にあたっていて、とにかく定型的な「波瀾万丈」、作られた「波瀾万丈」さ、というのかな、そういうのを声大きく喚くような人種とは正反対に位置している印象を受けます。
現実に少しずつゆがみが入っていったり、こう入った光が予想どおり反射せずまったく違う方角へ反射してゆく、どこかがちょっとひずんだり、ねじれた世界が本書の10篇には描かれています。
これは小川洋子さんの作家としての資質で、小説と物語が手をとりあった最高の奇跡のように思えます。
Angelinaと名前の入ったトウ・シューズを拾い、新聞に靴をあずかっていることを告知し、アンジェリーナ本人が訪ねてくる……というタイトル作「アンジェリーナ」や、左足が自分の記憶から欠落してしまい、都会のオアシス、あるいは避難場所のような温室にやってきて自然に囲まれる……「誰かが君のドアを叩いている」がとくに好みです。
余談。わたし自身そういう影響を感じたのですが、ニコタで創作をされている方、あるいはこれから書きたいっていう方には、いいヒント、お手本になる本だと思います。
これ、好きな本なのです。
薄いし(岩波文庫版)。
身辺を綴った短いエッセイを集めたもので、
内容は犬や猫のこと、幼少期のこと、読者との交流のことなど。
標題どおりに激しい感情の発露は抑えられ、
すりガラスのむこうを眺めるような、
おぼろげな懐かしさが漂っています。
そのときそのときの自分のありようとか、
感情の動きしだいで異なる表情を見せてくる本です。
あと動物に対するスタンスがドライなのが印象に残りました。
犬や猫に愛情を持ってないわけではないんだけど、
彼等の死に対しても恬淡としていて。
現代人の動物観とはずいぶん隔たりを感じました。
何度でも読みかえせて、
末永くつきあっていける一冊。
つぎに読みかえすのは、いつになるだろう。
漱石入門としてもお薦めできそうです。
ニコタ復帰して読書日記を書いて、何冊目の岡本綺堂さんだろう?
怪談の名手、江戸~明治初期あたりの風俗描写を盛り込んだ作風、今読んでもぜんぜん古びていない文章表現、と毎回岡本綺堂の紹介にはこんなことを書いていますが、この本は個人的にはけっこうこわい一冊でした。
怪談に怪異の説明とかがつかない、「不思議な話」の性格が強いのですが、なんだか読んでて妙な怖さがあるのですね。
明治に入って吉原も手が入り、身につけていた俳諧で暮らしていこうと引っ越すときにその父が手放していなかった猿のお面。箱のなかに目隠しをするように布で目のあたりが隠されており、お客が泊まった際にはじめて猿のお面が目に光をたたえている。
なぜか猿の面はその後行方不明になってしまい、語り手の父の知り合いが骨董品をもって訪れてくる。その品物のなかになぜかあるあの猿の面……。
という「猿の目」とか、
タイトルだけでもう怖そうな(実際に怖かったのですが)「蟹」「蛇精」などほとんどすべてが話によけいな説明のつかない怪異譚集です。
あとはやっぱり岡本綺堂さんの語り口ですね。
達意の妙文という感じで読んでいると心地よい感じに酔えます。
ここに書こうか迷ったのですけれど……
村上春樹の「蛍」を読みました。
これを読みかえすのは何度目でしょうか。
わたしは冬の気配を感じると読みたくなるみたいです。
はじめて読んだのは20代のなかばくらいのころだったと思います。
アルバイト先から使い走りに出されて、
出先でたまたま見かけた古本屋の店先に並んでたんです。
たしか『蛍・納屋を焼く・その他の短編』が100円、
『カンガルー日和』が200円でした。
村上春樹の短編から好きなものをいくつか選べと問われたら、
「蛍」は確実に候補に入ってくるでしょうね。
感傷と郷愁の匙加減を巧妙に、
人間のわかりあえなさが掬いあげられて定着されていると感じます。
これを下敷きにした「ノルウェイの森」も悪くないとは思いますけど、
わたしは「蛍」のほうが、ずっと好きです。
短編と長編を比べるのは乱暴なのを承知のうえで、
小説としての純度はこちらのほうが高いような気がします。
泉鏡花 高野聖を読みました
なんとか鏡花作品を読み進めようと奮闘する今日この頃です
高野聖は鏡花作品の中でも読みやすいとされている作品らしいので
わたしでもなんとか話の筋を理解することができました
何重にもなっている入れ子型小説で、語りと場面が複雑なのに
自然と読みいってしまうのはさすがだなと思いました
鏡花さんほんとに奥が深い…
宝彩有菜 光文社知恵の森文庫
ニコ友さんに導かれるように、瞑想をはじめて一週間以上になります。
ただし、わたしは本書のように「眠らない」という原則を無視して、寝付きが病的に悪いため、
眠るときに横になって瞑想をしています。
だから瞑想をして終わり、じゃなくて瞑想がそのまま眠りになってしまうという……。
本書では、ひとつの技術として、瞑想のやり方が細かく書かれています。
(宗教的、哲学思想的、そういう部分はまったく抜きということです
個人的にけっこういい案だなと思ったのは、本書オリジナルのマントラのこと。
瞑想に入るときに、雑念を取り除くため、マントラ(真言)を心の中で唱えつつ深呼吸をし、
雑念が湧いてもそのマントラに集中することによって雑念を追い払い、
瞑想の第一目的、静かな、空の心を実践するのですが、
この本では「オーン・ナーム(ここで息を吸う)・スバーハー(ここで息を吐く)」という、
音素的には意味がない、ただ瞑想に入りやすいよう音を考えたオリジナルのマントラが、
とっても役に立っています。
また、心や精神へのアプローチも、例えばNLP(神経言語プログラミング)に通じるような、
かなり深いものです。
雑念、というか普段の生活でも、「それにこだわっていてはしょうがない」的な事柄、
「Get(得たい)」「Hold(保持したい)」「Compare(比べたい)」「More(もっともっと)」
といった欲の4要素やさらに手強い4つの思考、
「後悔」「心配」「怒り」「嫉妬」などを、
愛の4要素、「与える」「自由・放つ」「認める」「足る」、
へ持っていくやり方もなかなか参考になります。
これらを精神論ではなくて技術論で語っているあたりが高評価です。
明恵(みょうえ)は鎌倉時代の仏教僧です。
若いころから没までかなり精力的に夢の日記をつけていました。
その夢分析の本、といえばかなり楽なのですが、実際にはもっともっと深い本です。
まず明恵本人にしてからが凄いのです。
宗教者としても合理主義者としても男性のなかの女性性への理解についても。
ちなみに明恵本人は、女性と交わらないという仏戒をおそらく唯一守り通した人です。
さらにそれは石のような感受性を持つことでも女性をただ遠ざけることでもなく、
ひとりの人間、ひとりの女性としてきちんと遇していること。
承久の乱なのの戦争被害の女性を世話したりしているぐらいです。
また、仏教がまだ形骸化しておらず、ひとつの……なんというんだろう……、
価値観でも世界観でもない、「生きる」あり方であった時代だからか、
宗教的な超能力をも発揮するのです。霊視とか。
また夢にしてもただの睡眠時のヴィジョンというだけでなく、文字通り、
「夢を生きた」人でもあります。
わたしは仏教は原始仏教かチベット密教、それに般若心経ぐらいしか評価はしていないけれど、
明恵も当時の仏教者としては珍しく、釈迦の教えに忠実であろうとしたのです。
(実際に天竺(インド)へ渡ろうとしたぐらいです。また、その渡航計画は夢の内容で中止されました)
河合隼雄先生の本はすらすら読めて楽、という印象がありましたが、
この本は明恵との格闘のせいか、かなり読むのに骨が折れます。
河合先生の本すべてを読んだわけではないので断言しづらいところではありますが、河合先生のベストな仕事のうちには間違いなく入ると思います。
なお、余談ながら、明恵は12,3の頃に、
身を捨てようと(もちろん宗教的な理由から)、
野犬などがうろつく墓地に身を横たえて自死を決行するのですが、
12、3のころ、ちょうど思春期直前あたりに、これは現代人でもそうですが、
子供ならではの人格の一旦の完成に至る時期があるというのです。
もちろんすぐ思春期が来て性の問題によってその完成は破壊されます。
わたしの若いお友達がちょうどそのぐらいの年齢なので、
わたしとしては見守ることしかできませんが、それでもとっても気になります……。
いとうせいこう・糸圭(糸篇に圭で、読みはスガ)秀実・中沢新一
http://www.nicotto.jp/blog/detail?user_id=343518&aid=63064929
☝先日のこの日記でも触れた本です。
まず☝URLの日記の疑問から言うと、「オウムの事件後に、それでも精神世界ものの本が大量出版されているのはどういうことか?」という問いから生まれた本です。
宗教学者中沢新一の論は、他の本でも凄いと思っているし、ちょっとまずい言動もある方ですが、やっぱり中沢発言が読んでいていちばん面白かったです。
宗教学の概念でグノーシス主義というのがあります。
グノーシスとは知恵という意味。
神から切り離されて、現世は基本ネガティヴなもの、そこに真の知恵を獲得・出会って、再び神へとの一体化、解脱・悟りにようになる概念。
中沢さんは基本的に宗教や精神世界ものはグノーシス主義だし、それどころか、
ソヴィエトの共産主義でさえ、貴族制・資本主義を悪とし、自分ら共産党が真の知恵、共産主義に至るものであると語っています。
共産主義、というかマルクスの用語で疎外論というのがあるのですが、
要するに、自己の本質が外に「疎外」され、自分にとってよそよそしいものに見えてしまう、
マルクス主義での文脈だと、「疎外」というのは宗教、政治、経済的に、人間が「物の奴隷」となってしまう事態を指します。
で、疎外論は結局グノーシス主義によって乗り越えられてしまうんです。
言ってみれば、政治と経済の「科学」であるはずのマルクス主義が、グノーシス主義という「オカルト」に簡単にねじふせられてしまうこと。
これは別に共産主義者じゃなくても、疎外というのは資本制社会のなかでふつうに起こることです。
となると、結局人は精神世界によってしか救われない?!
いとうせいこう、糸圭秀実、中沢新一らの鼎談は面白かったのですが、
文芸批評家らがああだこうだ書く精神世界本の書評はまぁまぁでした。
というか、シュタイナーやグルジェフ、ウスペンスキー、高橋巌という本格派から、どう見てもうさんくさいだけの本まで勢揃いは凄かったんですけどね。
↓
ああ、余談。
中沢さんは発言のなかで、そのグノーシス主義に関連して、
オウム(麻原彰晃)と共産主義(レーニン)について、どちらもどれだけ早く「知恵」を得るための「技術の人」だった、と発言しています。
個人的にはなかなか面白い指摘。
しかし、これから心を癒されたいって人にとって、この本が役に立つかは微妙……。
ただし、☝の日記のように本物と偽物の区別には役に立ちそうです。
子安宣邦校注 岩波文庫
江戸時代の末期に国学という学問が勃興しました。
文字通り古来の日本を学ぶ学問で、古事記や日本書紀の研究、万葉集をはじめとする和歌の研究、皇室の祭祀などの研究、日本語そのものの研究、などでした。ちなみに仮名遣いなどは国学の研究が今でもベースになっています。
『霊の真柱』は国学者、平田篤胤大人(うし)が、日本書紀、古事記、祝詞式、神代記、古語拾遺、姓氏録、出雲風土記、それに同じ国学者の本居宣長『古事記伝』、服部中庸(はっとりなかつね)の『三大考』を統合するように、日本の創世神話と死後の魂の向かう先を論じた神話・神学の本です。
創世神話は世界創造から(古事記でいうと)天孫降臨まで。
死後の魂については神々も人も死して黄泉に落ちることなく、一柱の神として幽世(かくりよ)へ行くということ。
だから、古事記でいうとイザナミが死んではおらず火傷のあとを恥じて一旦黄泉へ下る、という解釈になっています。
一柱の神にしてもそう、よくない性格や念などに固執したままだと病の神などになってしまう、ということが書かれています。
読みやすくした原文の本なので、すらすらとは読めませんが、古事記の知識があれば、古い言葉やいい回しを楽しみながらのんびり読めるかと思います。
日本がどこよりも早く出来た国であり、優れた国であるというのは、神話というものは当然自国中心になるので当然ですが、書かれた時代は欧米列強の存在も知られてきた頃なので、日本思想のバックボーンを強化したいという思いもあったのでしょう。
漢意(からごころ)の排除というものが国学の一大テーマですが、
漢意とは支那(中国)からの影響、思想などのこと。
国学の時代にはすでに神仏習合などからかなりの時間を経ており、純粋な神道というのも難しかった。
明治に移りつつある時代、とくに実際に明治になってから、天皇陛下を中心に据えた神国を神道や神社をもとに構成しようとしてもがたがただったのです。
湯浅学 『ボブ・ディラン ロックの精霊』 を読了しました。
岩波新書がロック・ミュージシャンの本を出すなんて、
時代は変わりましたね。
コンパクトに読みやすくまとまっていて、
ディラン入門書としては格好ではないでしょうか。
『超ボブ・ディラン入門』と併せて読むと、おもしろいかもしれません。
ボブ・ディランっていうのは、
イタコみたいなミュージシャンかもしれないと感じました。
無意識のうちに、
時代を感受して音にしていく才能に特に恵まれているような。
迷いに迷って買ったディラン氏のアルバム3枚を聴き終えましたので、
手短な感想を添えさせてください。
『偉大なる復活』 1974年
ザ・バンドをバックに行われたツアーの実況録音盤。
骨太のロック・アルバム。
カッコ良いです。
『ナッシュヴィル・スカイライン』 1969年
カントリー・ミュージックのアルバム。
穏やかかつ丁寧なつくりで和めます。
毎日聴ける1枚。
『地下室』 1975年
60年代後半にザ・バンドとデモ用に制作した音源。
くつろいだ雰囲気の曲が多く、
ディランさんたちの趣味がよくわかります。
親しい仲間うちのセッションに同席してる感じ。
どれも良い作品でした。
わたしは『地下室』がいちばん好きかな。
2トラックのオープンリールで録音されたそうですけど、
2008年のリマスタリングが良かったのかストレスなく聴けます。
ベースの音階もきちんと拾えますし。
湯浅学『ボブ・ディラン ロックの精霊』を読了しました。
岩波新書がロック・ミュージシャンの本を出すなんて、
時代は変わりましたね。
コンパクトに読みやすくまとまっていて、
ディラン入門書としては格好ではないでしょうか。
『超ボブ・ディラン入門』と併せて読むと、おもしろいかもしれません。
ボブ・ディランっていうのは、
イタコみたいなミュージシャンかもしれないと感じました。
無意識のうちに、
時代を感受して音にしていく才能に特に恵まれているような。
迷いに迷って買ったディラン氏のアルバム3枚を聴き終えましたので、
手短な感想を添えさせてください。
『偉大なる復活』 1974年
ザ・バンドをバックに行われたツアーの実況録音盤。
骨太のロック・アルバム。
カッコ良いです。
『ナッシュヴィル・スカイライン』 1969年
カントリー・ミュージックのアルバム。
穏やかかつ丁寧なつくりで和めます。
毎日聴ける1枚。
『地下室』 1975年
60年代後半にザ・バンドとデモ用に制作した音源。
くつろいだ雰囲気の曲が多く、
ディランさんたちの趣味がよくわかります。
親しい仲間うちのセッションに同席してる感じ。
どれも良い作品でした。
わたしは『地下室』がいちばん好きかな。
2トラックのオープンリールで録音されたそうですけど、
2008年のリマスタリングが良かったのかストレスなく聴けます。
ベースの音階もきちんと拾えますし。
図書館で目立つ場所に置かれていたので、
なんとなく気になって読んでみることに。
怖い。
怖すぎる。
わたしの読書史上、最恐の1冊かもしれません。
これまで読んだなかでは
帚木蓬生『ギャンブル依存とたたかう』が、
お立ち台だったのですけど。
今回はそれを上回ってるように思えます。
ギャンブルは手を出しさえしなければ無害ですけど、
犯罪はむこうからやってきますから。
「スーパープロ」と呼ばれる大泥棒への取材を軸に、
侵入盗や路上犯などの心理が平易かつ具体的に語られています。
どんな町、どんな家、どんな個人が狙われやすいのか。
わたしの生活環境なんか隙だらけ。
いつ、どんな犯罪の被害に遭っても、おかしくありません。
大半の日本人がそうかもしれない。
この本に書かれていることをきちんと実践するのは、
なかなか難しいかもしれません。
それでも、いえ、それだけに。
誰もが手もとに1冊置いて目を通す価値はありそうです。
著者らしい、おちゃらけた文章でスルスル読めます。
でも中身はけっこう含蓄に富んでて、頷かされることいろいろ。
日本人がネイティヴとおなじように英詞を実感することはできない。
でも優れた音楽は歌詞までサウンドの一環として、
聴くものの心になんらかの作用を及ぼすものだ……
的な話を、北島三郎の「函館の女」を例に引いて述べてみたりもしてました。
あの「は~こだってぇ~」の「はるばる感」は、
たぶん日本で生まれ育ってなきゃ、わからんだろ?と。
ディラン氏のノーベル「文学」賞に、
わたしが違和感をおぼえてるのも、このへんが理由なんです。
意味とか細かいニュアンス抜きでも伝わり得るってことは。
あくまでも言葉に依拠した表現である「文学」の範疇から、
はみだす部分があるからじゃないの?って思うのですよね。
まぁノーベル受賞の空騒ぎがなかったら、
わたしは死ぬまでディランを聴いてみようと思わなかった、かも。
きっかけを作ってくれたことには感謝したほうがいいのかな。
科学精神と、哲学精神と、文明批評、この3つの鋭さがSF作家の尺度なら、
レムをSF作家と呼んでしまうと他のジャンルSFの作家はSF作家とは呼べなくなってしまうかも。
そのぐらい、SF作家としても現代文学としても独自の路線を突き進んでいる人で、
「泰平ヨン」のシリーズの宇宙規模ほら話、それと紙一重の恐怖みたいなものは最高でした。
この本は改訳版というように、最初深見弾氏によって訳され、その後、
大野典宏とかいう奴に「改悪」されています。「改訳」でなおかつ「改悪」。
まず、助詞がない(省いても当然の場所ではなくないとおさまりが悪い)箇所が2、3見受けられます。
また、~すべし、のク語法、つまり命令形の「すべからく」を、「すべて」の意味で誤用としている箇所が三箇所。
何度か書いていますが、「すべからく」の誤用は正しい日本語を使いましょうという次元ではなく、
「すべて」と書けばいいところを「すべからく」と書けば高級そうに見える、という品性が透けてみえて情けない。
で、この問題について、「泰平ヨンの航星日記 すべからく」で調べると、この件に突っ込んだ者はゼロ(!)、ほかはどれも、「レムの作品はすべからく科学が~」みたいな間違いの田舎っぺ文章ばかり。やれやれ。
なんども書きますが、すべてと普通に書けばいいのに、わざわざすべからくと間違えるのは、
田舎ものがブランドもので身を装い、このコーチにあってるべ? とか言っているような情けなさなのです。
しかし、天下の早川書房も落ちぶれたものです。
わたしは伊藤計劃氏死去のあと、今のSFに興味がないので、
欲しい本は古本で求め、早川書房のような欠陥品を世に平気で送る出版界の恥部みたいな版元の本は不買しようかと思います。
作者はブライアン・ハーバート氏とケヴィン・J・アンダースン氏です。第1部の完結巻としては、こんなもんだろう。と思った。出来事が色々あった。
詳しいことはブログにて
http://www.nicotto.jp/blog/detail?user_id=1519417&aid=62987668
童話作家兼民話研究家の松谷みよ子さんが編んだ「狐の口承」大全。
明治から、はっきり年代が記されている口伝では昭和58年(!)まで、
狐と人間の関わりが集められた楽しい本です。
狐はときに人間を助けたり、化けてきたり、最終章の「こわい狐」では狐憑き、狐の報復などが語られますが、
基本的には読んでいてほのぼのとするような、いい狐と人の関係を描いた話ばかりです。
実際に松谷みよ子さんがフィールドワークして集めた話や、
郷土資料などに載った実話がメインであり、
その語り口も標準語と方言が半々ぐらいのわりあいで、
なかなか面白く読めました。
方言が激しすぎるのは細かいニュアンスもわからないものもあったりしたのですが……。
わたし自身、狐顔だし、神社のお稲荷様も好きなので、
なんだか嬉しい一冊でした。
玄蕃之丞(げんばのじょう)という有名な狐がいたのですが、
2度(解説を含めると3度)出てくるのも嬉しいポイントでした。
しかも仲違いしている狐のグループが玄蕃之丞のもとへ走り出してまもない汽車の姿をとって出て、
玄蕃之丞たちも汽車に化けて応戦、とか。
これ、ごく個人的な話になるのですが、2年ほど前に、
具合が極端に悪くなったときに一度図書館で借りて、
結局読めずに返した一冊なので、やっと通読できて嬉しかったです。
生命を助けた男から、とんでもない態度を取られた老姉妹。
激しやすい母親に愛想を尽かして家出した少年。
土中の骨を集めることが趣味の少女。
音楽の先生が宇宙人に拉致されたと信じている小学生たち……
人生において、なんらかのかたちで
「一線を越えてしまった」ひとたちばかりが登場します。
社会の片隅でひっそり生きている人物にスポットを当てた点で、
ケヴィン・ウィルソンの『地球の中心までトンネルを掘る』と、
よく似た肌合いの本でした。
ただし作風には若干の違いがあって、
ウィルソンのほうがリアリズム寄り。
こちらのジャクソンはやや抽象度が高く、
短い作品が多かったですね。
エドワード・ゴーリーの絵本を散文にしたような、
って形容すると、なんとなく感じが伝わるでしょうか。
皮肉で救いのない結末に終わる話もありますけど、
ふしぎと意地悪な印象は希薄でした。
「人生って、ときに救い難く面倒で、やりきれなくなるよね」
みたいな、静かな共感の視線を作者が主人公たちに寄せているからでしょうか。
微笑ましいお話もいくつかありますよ。
活字が小さくて、やや読みづらいのが難でしたけれど、
短めの作品ばかりなこともあって、わたしには愉しい読書でした。
生命を助けた男から、とんでもない態度を取られた老姉妹。
激しやすい母親に愛想を尽かして家出した少年。
土中の骨を集めることが趣味の少女。
音楽の先生が宇宙人に拉致されたと信じている小学生たち……
人生において、なんらかのかたちで
「一線を越えてしまった」ひとたちばかりが登場します。
社会の片隅でひっそり生きている人物にスポットを当てた点で、
ケヴィン・ウィルソンの『地球の中心までトンネルを掘る』と、
よく似た肌合いの本でした。
ただし作風には若干の違いがあって、
ウィルソンのほうがリアリズム寄り。
こちらのジャクソンはやや抽象度が高く、
短い作品が多かったですね。
エドワード・ゴーリーの絵本を散文にしたような、
って形容すると、なんとなく感じが伝わるでしょうか。
皮肉で救いのない結末に終わる話もありますけど、
ふしぎと意地悪な印象は希薄でした。
「人生って、ときに救い難く面倒で、やりきれなくなるよね」
みたいな、静かな共感の視線を作者が主人公たちに寄せているからでしょうか。
微笑ましいお話もいくつかありますよ。
活字が小さくて、やや読みづらいのが難でしたけれど、
短めの作品ばかりなこともあって、わたしには愉しい読書でした。
QEDシリーズの7作目です。初めから終わりまで雰囲気や設定などがとても良くて、読後も爽やかな気持ちになり、二重丸の作品でした。
詳しいことはブログにて。
http://www.nicotto.jp/blog/detail?user_id=1519417&aid=62933436
有名なSFの古典なので今さら説明はいらないかもしれません。
人間よりもおそらく高度な意識と持っているらしい惑星ソラリスの表面を覆う海。
(なにせ2つの太陽のあいだを複雑な計算で最適な軌道を取るぐらいです)
ソラリスの海上空に浮かぶ研究ステーションに、
主人公のケルビン博士がやってくる。
それまで3人いた研究者の一人はケルビンの到着直前に自殺、
またケルビンが到着しても誰も迎えにこないし、
ケルビンを含めて3人以外の人間と会っても驚くな、と言われるのです。
ソラリスの海は、研究ステーションの人間の意識や潜在意識を調べて、
記憶に強く残っている人物像をステーション内に存在させる。
ケルビンのもとにやってきたのは、
ずっと前に自殺したかつての恋人、ハリーでした。
といった感じで、人類とソラリスの海との接触が語られるのですが、
地球が銀河が拡張したような「なんとなく似ている文明」同士の衝突ではなく、
まったく人類にとって異質な文明との接触にもなっていないような接触が、
幻想的でいてなおかつ凄く科学的なのです。
作中語られるソラリス研究の歴史も、ソラリスに関する考察も、
人にとっての意識や記憶の問題も、本当にこんな惑星があったなら……という、
リアリティにあふれています。
ケルビンと偽のハリーの関係とか、
苦い恋愛小説のようだし、いろいろの読み方ができると思います。
ちなみにラストはタルコフスキー監督が映画化したときの、
あのラストのほうが好きかも。
ちなみに駿河屋で古本を買ったのですが、タルコフスキー監督の映画版表紙だからわくわくしていたのに、
届いたのは新版のほうでした。タルコフスキーのほうが好きなのにー。
1965年から1970年代初頭まで活動していた、
アメリカのロックバンドについての評伝です。
やや思い入れ過多に感じられた記述もあるけれど、
全体としてはバランスの取れた優れた仕事だと思います。
ジム・モリソンは多様な才能に恵まれた稀代のフロントマンでした。
こういう人物が夭折すると、えてして神格化されがちなものです。
残る3人-レイ・マンザレク、ロビー・クリーガージョン・デンズモア-の、
非凡な才能を紙幅を費やして紹介していることに、
わたしは著者の良心を感じました。
4人あってのドアーズなんですよね。
ジムがステージで脱いで暴れたの、暴れなかったので、
アメリカじゅうが大騒ぎになった70年代は遠くなりました。
ロックも世の中も若かったのでしょう。
エキセントリックな印象が強いジムですけど
「どんな日にでも、その日の天使がいるものだよ」
という言葉が、わたしの心に残っています。
そうだよなあ。
きっと、それは正しい。
彼等の音楽が古典として聴きつがれ、
愛されていくのは幸福なことでしょうね。
夭折とかスキャンダルからは遠く離れて。
1885年に生まれて1973年に没した、
ユダヤ系ドイツ人指揮者へのインタビューをまとめた本です。
クレンペラーの録音はほとんどがCD化されているはずです。
わたしも一時期よく聴きました。
「運命」の冒頭を「ぢゃぢゃぢゃぢゃーん」ではなく
「ずだだだだだーん」と鳴らせるのは彼だけでしょう。
どっしり悠揚迫らぬテンポと大伽藍のような構築性のなかに、
血も肉も涙もたっぷり詰めこんで。
いささか聴き疲れはするけど得るところ大きい音楽でした。
このクレンペラー博士は奇人変人の毒舌家としても有名で、
エピソードには事欠きません(関心をお持ちの向きはWikiをご参照ください)。
指揮者の世界ではクナッパーツブッシュと並ぶ双壁かも。
でもインタビューを読むと生真面目なんですよ。
誤解されやすいけど実直で、
自分の信条に忠実なひとだったように思えます。
生い立ちや学生時代の話から、
音楽遍歴、音楽観までが訥々と語られていました。
音楽家ではマーラー、ストラヴィンスキー、シェーンベルクの名前が頻出。
クレンペラーはマーラーの弟子筋ということで知られてますけど、
推薦状を書いてもらったくらいで、あまり教わってはいないみたいですね。
それでもマーラーの音楽には(一部を批判しながらも)
率直に敬意を表していたことが印象に残っています。
同世代の指揮者たちのことも、おおむね高く評価していました。
ストコフスキーがアメリカで関わった映画を
「じつに、おぞましい」と貶してもいたけど(笑)。
こういう指揮者はもう現れないでしょうね。
涼しくなったらクレンペラーを聴こう。
1885年に生まれて1973年に没した、
ユダヤ系ドイツ人指揮者へのインタビューをまとめた本です。
クレンペラーの録音はほとんどがCD化されているはずです。
わたしも一時期よく聴きました。
「運命」の冒頭を「ぢゃぢゃぢゃぢゃーん」ではなく
「ずだだだだだーん」と鳴らせるのは彼だけでしょう(笑)。
どっしり悠揚迫らぬテンポと大伽藍のような構築性のなかに、
血も肉も涙もたっぷり詰めこんで。
いささか聴き疲れはするけど得るところ大きい音楽でした。
このクレンペラー博士は奇人変人の毒舌家としても有名で、
エピソードには事欠きません(関心をお持ちの向きはWikiをご参照ください)。
指揮者の世界ではクナッパーツブッシュと並ぶ双壁かも。
でもインタビューを読むと生真面目なんですよ。
誤解されやすいけど実直で、
自分の信条に忠実なひとだったように思えます。
生い立ちや学生時代の話から、
音楽遍歴、音楽観までが訥々と語られていました。
音楽家ではマーラー、ストラヴィンスキー、シェーンベルクの名前が頻出。
クレンペラーはマーラーの弟子筋ということで知られてますけど、
推薦状を書いてもらったくらいで、あまり教わってはいないみたいですね。
それでもマーラーの音楽には(一部を批判しながらも)
率直に敬意を表していたことが印象に残っています。
同世代の指揮者たちのことも、おおむね高く評価していました。
ストコフスキーがアメリカで関わった映画を
「じつに、おぞましい」と貶してもいたけど(笑)。
こういう指揮者はもう現れないでしょうね。
涼しくなったらクレンペラーを聴こう。
1885年に生まれて1973年に没した、
ユダヤ系ドイツ人指揮者へのインタビューをまとめた本です。
これ1年くらい前にディスクユニオンで見つけて、
オクで売ってしまおうかと思ってたのですけど……
なんとなく開いてみたら、おもしろくて手放せなくなりました。
クレンペラーの録音はほとんどがCD化されているはずです。
わたしも一時期よく聴きました。
「運命」の冒頭を「ぢゃぢゃぢゃぢゃーん」ではなく
「ずだだだだだーん」と鳴らせるのは彼だけでしょう(笑)。
どっしり悠揚迫らぬテンポと大伽藍のような構築性のなかに、
血も肉も涙もたっぷり詰めこんで。
いささか聴き疲れはするけど得るところ大きい音楽でした。
このクレンペラー博士は奇人変人の毒舌家としても有名で、
エピソードには事欠きません(関心をお持ちの向きはWikiをご参照ください)。
指揮者の世界ではクナッパーツブッシュと並ぶ双壁かも。
でもインタビューを読むと生真面目なんですよ。
誤解されやすいけど実直で、
自分の信条に忠実なひとだったように思えます。
生い立ちや学生時代の話から、
音楽遍歴、音楽観までが訥々と語られていました。
音楽家ではマーラー、ストラヴィンスキー、シェーンベルクの名前が頻出。
クレンペラーはマーラーの弟子筋ということで知られてますけど、
推薦状を書いてもらったくらいで、あまり教わってはいないみたいですね。
それでもマーラーの音楽には(一部を批判しながらも)
率直に敬意を表していたことが印象に残っています。
同世代の指揮者たちのことも、おおむね高く評価していました。
ストコフスキーがアメリカで関わった映画を
「じつに、おぞましい」と貶してもいたけど(笑)。
こういう指揮者はもう現れないでしょうね。
涼しくなったらクレンペラーを聴こう。
1885年に生まれて1973年に没した、
ユダヤ系ドイツ人指揮者へのインタビューをまとめた本です。
クレンペラーの録音はほとんどがCD化されているはずです。
わたしも一時期よく聴きました。
「運命」の冒頭を「ぢゃぢゃぢゃぢゃーん」ではなく
「ずだだだだだーん」と鳴らせるのは彼だけです(笑)。
どっしり悠揚迫らぬテンポと大伽藍のような構築性のなかに、
血も肉も涙もたっぷり詰めこんで。
いささか聴き疲れはするけど得るところ大きい音楽でした。
このクレンペラー博士は奇人変人の毒舌家としても有名で、
エピソードには事欠きません
(関心をお持ちの向きはWikiをご参照ください)。
指揮者の世界ではクナッパーツブッシュと並ぶ双壁かも。
でもインタビューを読むと生真面目なんですよ。
誤解されやすいけど実直で、
自分の信条に忠実なひとだったように思えます。
生い立ちや学生時代の話から、
音楽遍歴、音楽観までが訥々と語られていました。
音楽家ではマーラー、ストラヴィンスキー、シェーンベルクの名前が頻出。
クレンペラーはマーラーの弟子筋ということで知られてますけど、
推薦状を書いてもらったくらいで、あまり教わってはいないみたいですね。
それでもマーラーの音楽には(一部を批判しながらも)
率直に敬意を表していたことが印象に残っています。
同世代の指揮者たちのことも、おおむね高く評価していました。
ストコフスキーがアメリカで関わった映画を
「じつに、おぞましい」と貶してもいたけど(笑)。
こういう指揮者はもう現れないでしょうね。
涼しくなったらクレンペラーを聴こう。
『アルプスの少女ハイジ 心を照らす100の言葉』を読み終えました。
ハイジのイラスト(正確にはテレビ放映時のアニメ画像)と共に、
アインシュタインやマザー・テレサ等の人物の名言が載っている本です。
古いアニメなので画質は粗いですが、
懐かしいシーンと心地よい肌触りで楽しく読めます。
個人的には苦しくなったら読みたい本だと思います。
余裕がなくなったときとか、どうしようもないようなときに読むと
心に大きな余裕が生まれるような気がしています。
随分と久しぶりに新書で買った本です。
私にとっては大金でしたが(約1500円です)、
やはり人生にはお金では変えられないものがありますね。
物語としてではなく深いところへ届いた本は、
私にはとても珍しいです。普段は詩集等読まないものですから。
良い本でした。必ずまた読みます。
ここで、ほんの少し中が見られます。
興味のある方はぜひ。
https://iroha-shop.jp/Form/Product/ProductDetail.aspx?shop=0&pid=0500101000053&vid=&bid=iroha_shop&cat=&swrd=
2015年に出された詩集です。
切りつめられた言葉と内容の厳しさは変わりませんけど、
こちらは、いくぶんのゆとりというか、
情緒のふくらみのようなものを感じさせる部分もあります。
何十年も異国をさまよって暮らすというのは、
どんなことなのだろうか。
わたしには想像もつきません。
心を圧することばかりでは、ないのですね。
たぶん世界のどこにいて生きていても。
犬が
犬が先にわたしに気づいている
台所の戸口があいていて
籠に卵がある
坂に惑わされ
撫でさせてくれる山羊のにおいになだめられ
心を圧することばかりでない
内からも胸を狭くかきみだしていた
病棟の灯り
刺青の青い雉
なにも見つけられなかった と言わないこと
ふざけ散らす村人のなかで
少年の描く雲から
遮断された心の道はひらけないが
危いものが ひとかけらづつあらわれ
受けとめかたもわからないまま
何なのかと思っているあいだだけ
存在する
検死官ケイ・スカーペッタ・シリーズの8巻目です。バイオテロの危機迫る緊迫感を、とても良く表現されていて、夢中になって読んだ。USAMRIID(米国陸軍伝染病医学研究所)の詳細な描写も良かった。
詳しいことはブログにて。
http://www.nicotto.jp/blog/detail?user_id=1519417&aid=62835578
詩人はあいかわらず、
世界じゅうを彷徨しつづけている様子です。
1969年に刊行された『ピサ通り』からずっと。
今回の本に収められた作品はラオスで書かれたもののよう。
詩情に骨格というものがあるのなら、
それに限りなく肉迫するところまで無駄を削ぎ落した。
そういう禁欲的な厳しさを備えた詩集でした。
ごく薄い本なのですけれど、わたしは時折辛くなったくらいです。
いえ、禁欲的とか厳しいとかいうより、でき得るかぎり、
あるがままを感受して自分の言葉で記そうとした結果でしょうか。
人間という脆くてしたたかなフィルターを通して感光された、
無情で豊饒な世界の一断面が、ここにさしだされています。
印象に残った作品を、ひとつだけ。
しいんと
林が立ち枯れている
血を吐き
神経はへし折れ
わたしたちは立ち枯れて 身を引くところもない
ひかりは沈み
地の傷口が人のふるさとなのか
出来事の果て
剥きだしのひびきが目を覚ましている
重い、憂鬱な事例の連続する本でした。
例えば、派遣切り、ワーキングプア、シングルマザー、ネットカフェ難民、自殺、生活保護打ち切りなどなど。
本書のなかで、「五重の排除」としてあげられている(処凜さんの概念じゃなくて他の方なのだけど
1.教育課程からの排除
2.企業福祉からの排除
3.家族福祉からの排除
4.公的福祉からの排除
5.自分自身からの排除
がなかなかいい切り口でした。1~4までは説明がいらないと思いますが、
5は、「自分なんか要らない人間だ」とか思いこんでしまうこと。
ただ、処凜さんは例えば派遣切りするキヤノンやトヨタに対して、こういう人を奴隷以下のように扱う企業は不買すべきだ、とか、なんでも自己責任論で終わらせてしまうマスコミ、広告業者を敵とみなせ、とまでは書いていないのが現実実効性として惜しいのです。
秋葉原の連続通り魔事件の加藤被告にしても、
殺傷したのはトヨタに関連した敵でもなんでもない、むしろ被害者にも似た境遇の人がいた、
などと書いていますが、通り魔など犯罪の前に真の敵にテロをなせ、といった言論もない。
大は政治家、経団連などから小は派遣請負会社などに対して。
竹中平蔵が実はパソナという大規模派遣請負企業をやっているからこそ、
「労働者は全員正社員ではなく派遣請負のほうがいい」
なんていう手前勝手なことも紹介されることはなく。
また各種セイフティネット団体の名前を本文にちりばめておきながら、
それらへの連絡先が一切巻末に載っていないのも誠意を疑う本のつくりです。
ただ、今の社会のゆがみ、ひずみみたいなものについての、
また、イラク戦争あたりからはじまった、戦争と貧困ビジネスなどについての、
いいルポルタージュだとは思います。
だからこそ惜しいところが多くて少々批判的にならざるを得ないのです。
「山人が語る不思議な話」の副題どおり、
怖いっていうよりも奇妙な話がたくさん収められています。
可能なかぎり、実名で語り手に登場してもらっていることが特徴でしょう。
若いひとたちが都会へ出て行ってしまって、
口承が絶滅に瀕していることへの危機感から編まれた本だそうです。
狐や狸に化かされた話、いまだに残ってるものなんですね。
「ここ数十年くらいに起きたこと」として掲載されています。
これ、外国なら「妖精のしわざ」って話になるのだろうか。
いちばん強く印象に残ったのは
「動物や人間のたてる物音とはあきらかに違う、
聴いたことのない音が山中から響いてきた」話でしょうか。
ひとりで深い山奥に分け入っていくと、
意識に変化が起こるものかもしれません。
怖い話が含まれてないわけじゃないんだけど、
どぎつさは感じられませんでした。
読みやすいので幅広くお薦めできそうな1冊です。
「山人が語る不思議な話」の副題どおり、
怖いっていうよりも奇妙な話がたくさん収められています。
可能なかぎり、実名で語り手に登場してもらっていることが特徴でしょう。
若いひとたちが都会へ出て行ってしまって、
口承が絶滅に瀕していることへの危機感から編まれた本だそうです。
狐や狸に化かされた話、いまだに残ってるものなんですね。
「ここ数十年くらいに起きたこと」として掲載されています。
これ、外国なら「妖精のしわざ」って話になるのだろうか。
いちばん強く印象に残ったのは
「動物や人間の立てる物音とはあきらかに違う、
聴いたことのない音が山中から響いてきた」話でしょうか。
ひとりで深い山奥に分け入っていくと、
意識に変化が起こるものかもしれません。
怖い話が含まれてないわけじゃないんだけど、
どぎつさは感じられませんでした。
読みやすいので幅広くお薦めできそうな1冊です。
「山人が語る不思議な話」の副題どおり、
怖いっていうよりも奇妙な話がたくさん収められています。
可能なかぎり、実名で語り手に登場してもらっていることが特徴でしょう。
若いひとたちが都会へ出て行ってしまって、
口承が絶滅の危機に晒されていることへの危機感から編まれた本だそうです。
狐や狸に化かされた話、いまだに残ってるものなんですね。
「ここ数十年くらいに起きたこと」として掲載されています。
これ、外国なら「妖精のしわざ」って話になるのだろうか。
いちばん強く印象に残ったのは
「動物や人間の立てる物音とはあきらかに違う、
聴いたことのない音が山中から響いてきた」話でしょうか。
ひとりで深い山奥に分け入っていくと、
意識に変化が起こるものかもしれません。
怖い話が含まれてないわけじゃないんだけど、
どぎつさは感じられませんでした。
読みやすいので幅広くお薦めできそうな1冊です。
簡単に思いついた法則を100個綴ったような本です。
メモ書きのような文章でとても読みやすかったですが、
定価で買うのは少し痛いかなと・・・。(私は古本屋さんで買いました)
帯に書いてあることが素敵です。
http://www.d21.co.jp/shop/isbn9784924751415
今回この日記ではあまり触れないとは思いますが、わたしは「現在」の彼女を全面的に支持しているわけではありません。
というと、じゃあこの自伝に書かれている処凜さんを支持しているのかって感じですが、それも、うーん。
ただ、筆力があるので、ものすごく読んでいて引きずり込まれてしまうのですね。
彼女の語る半生には痛々しいところもあるし、またネットスラングで言う「痛い」箇所も多い。
いじめ体験、その鬱憤を晴らすような動物虐待や子供誘拐未遂。リストカット。ビジュアル系バンドの追っかけから始まってバンドの人との乱れた性生活。カタン・ドールやサブカルチャーへの傾倒。
過激な民族派団体への参加。民族派パンクバンド結成。左派赤軍派議長だった塩見孝也の誘いに応じて北朝鮮渡航、そしてイラク戦争直前のイラクでのパンクバンドライヴ。
今は貧困問題などに取り組んでいる彼女ですが、正直イメージダウンやその思想の純度すら問われかねないことまでちゃんと書いているところは好感度高いです。
抜き書きするとえらい過激な発言になっちゃうので要約になっちゃいますが、確かに戦争に負け、アメリカに押しつけられた言葉、憲法、民主主義によって、さらには拝金主義や自己責任論といったこれまたアメリカナイズされた価値観、グローバリズムetc...などによって、たぶんちょっとでもものを──そのレベルが幼稚なレベルであっても自力で考える者には──「生きづらい」世界であること。
これはとても共有できる感覚でした。
ただ、処凜さんが天皇陛下、皇室と決別したことについては違和を感じます。
処凜さんは全員が真面目に天皇賛美でないとおかしいと感じていたようだけど、愛国党の総裁だった故・赤尾敏先生も昭和天皇崩御の際に思いを聞かれて「わからんよ」と答えています。
全員が全員真面目な賛美だったらそれこそ北朝鮮に近くなるのでは、と思います。
もっとこう「なんだか親しみを感じる」「長く続いた皇統だし」でもわたしはなんら問題ないのでは、と考えるのです。
次は、「現在」の処凜さんの本の読書日記になるかもしれません(ならなかったらすみません
こけしさん、ニーチェは本当に元気の出る哲学者ですので、ぜひぜひ読んでみてください。
最初に読むなら上下で長いのですが、『ツァラトゥストラはこう語った』がお勧めです。
密度の高い本です。
大江健三郎が新しい小説の構想を練りながら、その都度、集中的に読んでいる著作家をつれづれの出来事ともに書いているエッセイ集なのですが、彼が挙げる著作家がみな好きだったり、興味深そうな著作家ばかりなのです。
冒頭にあげたイギリスの詩人オーデン、ルーマニア生まれの宗教学者兼作家ミルチャ・エリアーデ、霊感にとんだ作品を書いたり/描いたりした神秘主義者ウィリアム・ブレイク……。
わたしにはアイドルのような仏文学者渡辺一夫や彼が訳したフランソワ・ラブレー、それに文化人類学者の山口昌男は言うにおよばず。
バーナード・マラムッド(邦訳ではマラマッド表記)の『神の恩寵』の紹介にはびっくりしました。
核戦争が起き、潜水艦で調査をしていた学者と実験動物? だったチンパンジーが生き延びる。
学者はユダヤ教、チンパンジーには発語用の機械が取り付けられており、しゃべることもできるのですがその過程でチンパンジーはキリスト教徒に。
学者は島に漂着して、島の霊長類たちに文化を残そうとするのですが、チンパンジーとの宗教的な軋轢(あつれき)は広がるばかり。
最後は学者はメスのチンパンジーと混血の子供を作ろうとし、実際生まれるのですが、こうした宗教対立により、アブラハムによるイサクのいけにえが現実に行われ、学者も混血の子供も殺されてしまう。……
上質な著作の紹介としても優れた本ですが、現代の純文学では笙野頼子、中原昌也ぐらいしかいない方法論や技術をきちんともった大江健三郎という作家の舞台裏がのぞき見られます。
が、ツンデレなのですが、作家としての大江健三郎は大好きですが、
(憲法)九条主義者の側面は嫌いです。
もっとも、それより本書で許せないのは、フランスの破格的作家、ルイ・フェルディナン・セリーヌについて。
アメリカの作家、カート・ヴォネガットがそう書いている尻馬に乗って書いているでしょうが、
なんとセリーヌが「ナチスシンパ」と決めつけていること。
セリーヌは反猶太(ユダヤ)主義者ではありましたが、それを理由にナチスドイツ側が話を持ちかけたときに、
「猶太も嫌いだがおまえら(ナチス)も嫌いだ」といい、
フランスを亡命し、対独協力の疑いで獄中に入り、その後デンマークへ亡命。
ナチスシンパではけしてありません。
ただ、原文が正統(旧)かなづかひの文章はそのままで引用する、解説でいいかげんそうな評論家が、「child+ども」の意味になる「子ども」という誤記で得々としているなか、ちゃんと「子供」と表記するなどなど、日本語はとてもしっかりしているのです。
だからこそ、そういうインテリには破れかぶれだったセリーヌのような作家は理解できないのかなぁ、と思ったり。セリーヌについていい加減な定見を撒き散らすというのは見過ごせません。
短編集の1巻目です。ヴィクトリカと一弥が出会ったころだったから、あと、作者が初めて書く短編集だから、仕方ないとは思いますが、推理がとても甘ったるいもので、まるで児童書の探偵本みたいで飽きてきました。(最後の方にちょっこと面白そうなのがありましたが。)
詳しいことはブログにて。
http://www.nicotto.jp/blog/detail?user_id=1519417&aid=62797037
ヘルミーナさん
「人はつねに強い者を、弱い者たちの攻撃から守らなければならない」
というニーチェの言葉!本当に心強い言葉ですね!!
読んでみたいと思いました
宮澤賢治「風の又三郎」を読みました
又三郎の描写の書き分けがさすがだなと思うところです
そして出てくる子供達が増えたり減ったり…
それが故意なのか作者のミスなのか気になるところでした
MMORPG(大人数オンライン・ロールプレイ・ゲーム)をヴァージャル化したのはとても目新しい設定だと思う。近未来のファンタジーにしたのは面白い。
詳しいことは、ブログにて。
http://www.nicotto.jp/blog/detail?user_id=1519417&aid=62775250
鬱が酷くて読書が難儀だったのに加えて、本書自体がけっこう難しかったです。
この本は訳者解説の「ドゥルーズとニーチェ」を先に読んだほうがわかりやすいかも。
ニーチェの哲学は生の全面的な肯定ですが、そのバックグラウンドが細かくわかった気がします。
例えばニヒリズムについてもそう。
エントロピーの法則のように、人は死ぬし、物は壊れるし、宇宙でさえいつかは終息する。
それに対して「しょうがない」と言っちゃうのがニヒリズムの本質だとわたしは読みました。
実際、なんに対してであれ、すぐに「しょうがない」と言っちゃう人は軽蔑に値します。
本当にしょうがないんだから、とも言えますが、そこでブチ切れた呪詛の言葉を吐くほうがまだ人間らしい。
「人はつねに強い者を、弱い者たちの攻撃から守らなければならない」
というニーチェの言葉は心強いものです。ここでいう「弱い者」とは、べつに身体や心が弱いとかそういう意味のネガティヴさじゃありません。
さっき書いたような身近だったり宇宙規模であるニヒリズムに毒されきった者。
だから、「弱い者」が世俗的な権力を持っても、それは「強く」なったわけじゃないんですね。
「神の死」「超人」「永遠回帰」とかニーチェのさまざまな概念について書きたい気もするのですが、これで終わり。ただ、やっぱりニーチェの哲学というのは生の肯定だけあって元気が出ます。
『書店ガール3~託された一冊(碧野圭)』を読みました。
なんというか東日本大震災の被害の描写のリアルさに圧倒されました。
詳しいことはブログにて。
http://www.nicotto.jp/blog/detail?user_id=1519417&aid=62750339