オリチャ:纈×雫
- 2016/01/09 18:51:21
投稿者:紅蓮狐 糾蝶
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他の方のコメントはご遠慮させていただきます。
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内心あのまま目を覚まさなかったらと不安だったのだ。
警戒を強めないよう、物音を立てずそっと室内に足を踏み入れる。
後ろ手で静かにドアを閉めた後、勉強机の上にあるデスクライトを点けた。
明かりによって部屋の中が少し明るくなる。
隅で膝を抱えながら、こちらを見つめる少女の姿も明らかになる。
部屋の片隅から、廊下の光を反射した白い瞳が燃えるように輝いて、纈を見ていた。
目を覚ました人魚は、まだ人間を警戒している。
流石にソーセージとクッキーだけで空腹は収まらないだろう。塩、わかめ、のりたま。彼女が飽きないように違う味付けのものを3つ作っておく。
作り終わると今度は冷蔵庫からリンゴジュースを取り出してコップに注ぎ、念の為にとっておいたコンビニのストローを差した。
祖父母に今夜は自室で勉強することを伝えると、それらの軽食を持って二階の部屋に向かった。
音をなるべく立てないよう慎重に階段を上がる。ドアを開けると、廊下の光がゆっくりと室内に差し込んだ。
「……….…雫?」
暗い部屋の中はここからだとよく見えない。
小さな声で少女の名前を呼んでみた。
傷だらけの身体に冷たい体温、感じられるもの全て人間とは違う。
寝返りもうたずにただ眠り続けては、思い出したように睫毛が震え、薄く目蓋を開ける。
頭だけを動かして、そこに誰も居ないのを映すと、小さな身体を持ち上げて逃げるように這って部屋の隅で膝を抱える。
ここまでぐっすり寝ているとは思っていなくて、内心驚いていた。
手当てをしても、痛々しい傷は変わらず目立っている。
自分より遥かに小さい身体を労わるように優しく撫でると、急いで夕飯を済ませてこようと静かに自室から出て行った。
そこに居るのは少女だ。
けれど本当は人魚で、磯臭い水に住む人ではない、生き物で。
上下する薄い胸の下には心臓があって、休みなく動き続けている。
でも、まるでひとの声なんて聞こえないと言うように、少女は振舞うのだ。
身体を縮めたままスヤスヤと眠っている少女の姿が見える。
気持ち良さそうだが、今の体勢のまま寝ていればそのうちキツくなってくるだろう。
起こさないよう小さく溜息をつくと、まずは彼女の周りに置いてある物をゆっくりと退けていった。
暫くしてある程度のスペースが出来上がると、上の段に置いてある客人用の布団を引っ張り出す。
空いた空間にその布団を折り畳んで敷くと、壁に寄りかかったままの少女を優しく寝かせた。
身体が冷えないよう念のため小さいタオルケットをかけておく。
……ここまでやれば大丈夫だろう。疲れたように再び溜息を吐いた。
壁に寄りかかる肢体は脱力し、小さな肩はゆっくりと上下している。
極度の緊張からようやく解放された精神は幼い意識を一瞬にして夢の彼方に攫ってしまった。
このまま何かしても警戒されるだけだろう、一度距離を置かなくては。
「……腹減ってんならコレ食えよ」
クッキーの袋を戸の近くに置くと、なるべく彼女の視界に入らない位置にゆっくりと離れていった。
このめちゃくちゃになった部屋をどうしようかと考え、一先ず着替えをしようと制服を脱いだ。
それでも前髪の隙間から覗く双眸は殺気混じりの威嚇と共に覗き込む目を睨み返している。
途中プールの近くに置いておいたクッキーの袋を手に取る。何も持たずに近付くよりはマシだろう。
「………………雫、」
しゃがみ込んで小さく彼女の名前を呼ぶ。
押し入れの戸は開いている。腕を伸ばせばすぐ届く距離だ。
変に刺激をしないよう、暫く少女をじっと見つめたままでいた。
よたつきながら向かった部屋の奥の押入れの戸を開け、小さな体躯をそこへねじ込む。
雑然と置かれた物と物の隙間に身体を落ち着けたところで、膝を抱える少女はようやく静かになった。
よたつきながら向かった部屋の奥の押入れの戸を開け、小さな体躯をそこへねじ込む。
雑然と置かれた物と物の隙間に身体を落ち着けたところで、膝を抱える少女はようやく落ち着いた。
異常なほど怯える姿を見て察する。
今の彼女を他人と会わせるわけにはいかない。
ばあちゃん、と小さな声で話しかけ、とりあえず一階に戻ってほしいことを伝えた。
祖母は戸惑っていたが自身と少女の様子を見ると、頷いて静かに下へと降りて行った。
自室に入ってドアを閉め、座り込みながら背を向けて寄りかかる。
「…………もう誰もいねぇよ」
ガタガタと震える少女の背中を撫でる。
このまま拘束しておくのも可哀想だろう、抱きしめていた腕の力を緩めた。
泥濘に足を取られたように動かない身体は、それでもなお抜け出そうと四肢の筋肉を硬直させる。
過剰な緊張と恐怖にガタガタとおののく少女は気の毒になるほど哀れだった。
剥き出した歯の隙間から漏れる獣じみた吐息が、薄紙のように空気を震わせる。
咄嗟に伸ばした手は空を掻いた。
少女がドアノブに触れると同時に、ガチャリ、とドアが開かれる。
廊下に転がり出しそうになったのを慌てて抱きとめた直後、「まぁ!」と驚いたような声が頭上から降り注いだ。
声の主は雰囲気の柔らかい老婦人だった。
顔のシワや白髪は多いが、身だしなみが綺麗だからかあまり高齢には見えない。
髪の毛は上手に結われていて、服装もシックにまとめられている。背筋が伸びていて姿勢も良い。
彼女こそ、苗代纈の実の祖母である。
「………雫、落ち着け。大丈夫だから」
目を丸くして眺めている祖母の前で、纈は抱きしめた少女に何度も言い聞かせた。
トントン、と小さな背中を叩く手は優しい。
それでも頭を撫でられるのを本気で嫌がらないのは、やはり満更でもないらしい。
パタパタと揺らす脚が畳を叩いていた。
ふと新しい気配が増え、そちらに目をやる。
タオルに包まれたままの四肢をこわばらせ、押さえつける力を無理やり跳ね除けてもう一度畳の上に転がり出る。前のめりになりながら後ろ足だけで立ち上がれば、危なっかしくドアまで駆け寄り、金属のノブに迷わず短い両手を伸ばした。
タオルの隙間から覗いた頭を優しく撫でる。
「……落ち着いたら遊んでやっから、な?」
そう言って笑いかけた時だった。
ギシ、と階段が軋む音が聞こえた。
自分の名前を呼ぶ声が廊下に響く。
ーーーヤバイ、と一気に青ざめた。
心臓がドクドクと嫌な音を立てて高鳴る。
抱きしめる腕の力が強まる。
心配そうな祖母の声が、とても恐ろしいものに思えた。
………どうすれば。
………どうすればいい?
部屋のドアを見つめながら、どんどん近づいてくる足音に混乱していた。
牙を剥いて獣のように威嚇しながら彼の目を睨み上げる。
しかし、次の瞬間文字通り手も足も出ないよう拘束されてしまえば、お得意の噛み付き攻撃も届かなくてもぞもぞとタオルの中で身をよじらせた。
やがて疲れきった声で彼がそう言うと、少女は不機嫌そうに鼻を鳴らして大人しくなった。
がさがさとバッグの中身を出し始めた少女を慌てて抱き上げる。
小さな手から教科書を取り上げ、一先ず机の上に置いておいた。
再びバスタオルで包むと、今度は逃がさないというように強く抱きしめた。
「………勘弁してくれ……」
そう呟く声と表情からは疲労の色が濃く見られる。
大きな溜息をつきながら、少女の肩に額を埋めた。
タオルの下から漏れるのは、威嚇する猫みたいな不細工な声。
押さえつけていないと、たぶんそのまま外に出る。
言うことなんて利かないし、手当たり次第なんでも中身をぶちまける。
真白い四肢を振り回して再び7割程度脱出に成功すると、口を開けたたまま放り捨てられた通学カバンに手を伸ばすや、教科書を引っ張り出した。
次から次へと予想外のことが起きて、もう何が何だかわからない。
腕の中からいなくなった少女を目で追っていけば、赤ん坊のように床を這っていることに気が付く。
服も床もびしょ濡れで、いつの間にか自室は大惨事になっていた。
「………っんの馬鹿…!」
思わず声を荒げながら少女を両手で抱き上げる。
ここに連れてきた時に使ったバスタオルで彼女を包み込むと、大きなため息を吐きながらその場に座り込んだ。
自分の下半身を見下ろした少女は、二本の脚を交互にぶらぶらと揺らしてみる。
紛れもなく骨と皮、肉で出来たホモ・サピエンスの持ち物である二足歩行をするための双脚は、蝋のようにひび割れたり、砕けて粉々になったりはしなかった。
持ち上げられた片足は、不意に少年の鳩尾をぐいっと押す。
人間になった人魚は暴れるように上半身を仰け反らすと、強引に彼の腕からすり抜けてプールの中へ落下する。白髪にかかった水を振り落とし、びしょ濡れになった服をそのままにして畳の上に転がり出せば、膝と手を付いたハイハイ歩きで床を這った。
顔の熱も少しずつだが収まってきている。
……そうだ、いくら異性とはいえ相手は子供なのだ。スキンシップの延長だと思えばいい。
どうにかして落ち着こうと深呼吸したその時、聞き覚えのある音がした。
「やっべ……!」
鱗のことを完全に忘れていた。
その音がパリパリと鳴り止まないことに気がついて、急いで水の中に浸からせようと抱き上げる。
が、視界に入ってきたのはボロボロになった魚の下半身ではなかった。
……脚だ。
人間と、自分と何一つ変わらない、ごく普通の脚。
再び言葉を失って、目を丸くしたまま凝視する。
いったい彼女の身に何が起こっているのか、さっぱりわからなかった。
彼の手の中の小さな手は、もう少し力を入れれば折れてしまいそうなほど頼りない。
首を傾げ、可笑しな汗を流す少年を不思議そうに見つめ返していた。
……と、そのとき。
パリ、と何かが割れる音がした。
先ほどから、何度か聞こえている乾いた鱗の剥がれる音。
それが、また聞こえて、崩した積み木のようにプールの中にバラバラと剥がれ落ちていく。
こぼれ落ちた数枚が、レジャーシートと畳の上に転がった。
最後の欠片が落ちたとき、また部屋に静寂が降りる。
そこにあるのは乾き始めた魚の下半身ではなく、白く輝く肢だった。
微かな音とともに唇に何かが触れる。
初めてーーいや、ついさっき知った感覚。
記憶を辿って彼女に唇を舐められたのだと気付くと、ボンっと音が出そうなほど顔を赤らめた。
「〜〜〜〜〜〜〜〜っっ!!?」
耳まで赤くしながら目を見開いて凝視する。だらだらと額から汗が流れ始めた。
思わず少女の手を握る力が強まる。
「……っお、ま………!!」
何か言おうとするも言葉にならず、魚のように口をぱくぱくさせるだけ。
先ほどのは頬だからまだ良かったのだ。しかし今度は唇、唇にされたのだ。
いくら子供だといっても相手は異性、恋愛経験のない彼にとっては大事件だった。
どんどん頭の中に入ってくる情報量に追いつけなくなったのか、ふしゅうと湯気を出しそうなほど全身を熱くしたまま呆然と少女を見つめていた。
だからと言って突然流暢に言葉を紡ぎ出したとしたら、そんな恐ろしいことがあっては堪らない。
痛んだ髪は相変わらず引っかかるし、手触りが悪い。
おもむろに伸ばされた細い手は彼の頬に触れ、摘んで引っ張ったりしてみる。
額と、鼻先が息を混じらせながら掠める。小さな唇は言葉を紡ぐ代わりに赤い舌を出して、彼の薄い唇を舐めた。
こちらをじっと見つめる少女を見て、何か言いたいのだろうかと気になってしまう。
……喋ることも言葉を理解することもできない彼女にそう思うのは可笑しいが。
「…………どした」
幼子をあやすようにゆっくりと頭を撫でながら問いかけてみる。
触れ合った額は少しひんやりしていて気持ち良い。
ささくれ立ったように揃いの悪い鱗は、迂闊に触れると傷つきそうなほどボロボロだった。
すっぽりと彼の胸に抱かれながら額を合わせる人魚は、彼が自分を真似していると思ったのか黙り込むと、じっとガラス玉のような瞳で彼の目を覗き込んでいた。
大きく溜息を吐きながら踵を返す。
プールの外に転げ落ちそうになった少女を慌てて受け止めた。
腕の中に収まった身体は恐ろしいほど小さい。
「……一緒に行くか?」
そう言ったものの、頭の中ではどうしようかと必死に考えを巡らせていた。
このまま置いていったら間違いなくプールの外に出るだろう、万が一のことがあったら大変だ。
下の階に連れて行くこと自体は難しくないが、高確率で祖父母に見られてしまうだろう。普通の子供ならまだしも彼女は人魚だ、どう言い訳すればいい。
そうやって悩んでいるうちに頭が痛くなってきて、少女と同じように唸っていた。
サクサクと響く咀嚼の音。手にした一枚が無くなってしまうと、粉のついた手のひらを舐めた。
ふと前を見ると、遠ざかっていく少年に気付いてまた毛を逆立てる。
小さな唸り声を上げながら、プールの淵から身を乗り出す。
余った袖をまくり、自分より遥かに小さい手に食べかけのクッキーを持たせる。
数枚入っている袋はプールのそばに置いた。
「……これ食って待ってろ」
そう言って立ち上がるとドアへ向かった。
念のため、廊下に出るまで彼女の方を見ながら歩みを進める。
視線を外し、彼の足元のほうを見る。不意に鼻先を掠めた甘い匂いに身体を反らせると、慎重に鼻をヒクつかせてそうっと一口齧った。
硬さを持った焼き菓子が鋭い歯に噛み砕かれる。人魚は口にしたことの無い味に首を傾げた。
当然、彼の問いかけには答えない。
彼女からドアを隠すように前にしゃがみ込んだ。
この様子だと下に連れて行くのは無理だろう。プールの中で待ってもらうしかない。
持ってきたクッキーの袋を開けて一枚取ると、ソーセージの時と同じように口元に近付けた。
空いているもう片方の手は、人差し指の先でトントンとプールの淵を突く。
「……ここで待ってられるか?」
ビニールプールの淵を掴む指が容赦なくその場所に傷をつけた。
歪な手の指先は醜い怪物の鉤爪のようだ。
色のない瞳は真っ直ぐに扉を睨みつけていた。
これが彼女なりの感情の表し方なのかもしれない。
……なんだか、嬉しそうに見える。
そうか、と満足げに頷いた。
そんな時、階段を通じて下の階から声をかけられる。
晩御飯を作ってる間に風呂掃除をやってほしいそうだ。
返事をしてからさっそく取り掛かろうと立ち上がり、ふと彼女をどうしようかと考え込む。
またプールの中から脱走されたら困る。かといって祖父母のいるところに連れていくわけにもいかない。
それでも恐る恐る顔を上げ、やがて再び視線が交わる。
潤いを取り戻した肌は、その表面が僅かに煌きを帯びている。
彼の触れる指先にも、いくらか剥がれた鱗が付着していた。
ぱしゃり、と水が跳ね上がる。
水の中で犬のように振った尾びれが、彼にまた飛沫を掛けた。少女はどこか嬉しそうに見えた。
彼女は自分の予想外の反応をしてくる。それが面白くて仕方がなかった。
「名前、気に入ったか?」
再び両頬を手で包み込むと、もちもちとした感触を堪能する。
自分より冷たく柔らかい頬は触っていて心地良い。
驚いたように揺れた瞳は見開いたまま彼を見つめる。
心なしか輝きを宿したその目はきらりと照明の光を反射した。
「んぎゅ」
直後に、身構えた変な姿勢を取ると子犬みたいな声を喉の奥から漏らした。
このぐらいの歳の子供はすぐ真似をする。
……可愛いなと、柄にもなく思ってしまった。
「………………………………しずく、」
ふと風呂場でのことを思い出す。
あの時室内に響いていた水の落ちる音が、やけに耳に残っていた。
「……………お前の名前、『雫』にすっか」
そう言って笑うと、少女よりはるかに大きな手でわしゃわしゃと頭を撫でた。
このぐらいの歳の子供はすぐ真似をする。
……可愛いなと、柄にもなく思ってしまった。
「…………………….………しずく、」
ふと風呂場でのことを思い出す。
あの時室内に響いていた水の落ちる音が、やけに耳に残っていた。
「……………お前の名前、『雫』にすっか」
そう言って笑うと、少女よりはるかに大きな手でわしゃわしゃと頭を撫でた。
触れた頬も、同じように冷たかった。
低い体温が手のひらを通して伝わる。交じり続ける視線の先で、人魚は真似するように首を傾げた。
きっと、何も考えてはいないのだろう。
髪を引っ張られ思わず声を上げた。
痛みで表情を歪めながらも彼女が放り投げたソーセージを拾い上げる。
食べ物を粗末にするなと叱りたかったが、まともに会話もできない今の状態で言っても無駄だろうと諦めた。
「……ワガママにも程があんだろ………」
髪の毛を掴む小さな手に自分のを重ね、ゆっくりと離した。
結局質問の答えは貰えなかった。だからといってこれからも「お前」と呼ぶのはやはり気が引ける。
「どーすっかな……」
絆創膏を貼った頬を両手でそっと包む。
人間離れした瞳をじっと見つめながら、これからどうしようかと首を傾げて考え込んだ。
じっと黒色の瞳を見つめ返し、不規則な瞬きを繰り返す。
そして首をかしげた。
同時に、飽きたというようにソーセージを床に放って手を伸ばすと、無造作に彼の髪を掴んでぐいっと引っ張った。
黙々と食べる姿にホッと一安心すると、彼女の前に座ってぼーっと見つめた。
胡座をかいた足に肘をついて頰杖をつく。
「…………お前、名前は?」
ふとそんなことを訊ねてみた。
このまま「お前」と呼び続けるのもあまり気分がよくない。
流石に名前は付けられているだろう。
ガメツイところがあるのか、両手で持ったそれを離さないようにムシャムシャと食べ、口を動かしながらしきりに彼のことを気にしているようだった。
そうしているうち腫れた右目に巻かれた包帯にペタペタと触れると、何を言う(喋りはしないが)わけでもなく食べる作業に戻る。
艶のない髪に手が触れても、身を引くことは無く大人しくしていた。
自分と同じように咀嚼する少女を見て眉をひそめた。
今度ちゃんとした食べ方を教えた方がいいだろう、今はとにかく腹の中に何か入れてやらなければ。
「ちょっとこれ持ってろ」
プールの外に出されていた腕をそっと掴むと、小さな手に余った魚肉ソーセージを握らせる。
自分の手が空くと持ってきた保冷剤を取り出し、それを包帯で軽く覆った。
保冷剤がちょうど閉じられた右目の上にくるようにあて、長い包帯の両端を後頭部に回す。
そのまま頭にくるくると巻きつけていけば、腫れた目の処理も一応できた。
「……頭。痛くねぇか」
きつく締め付けないようにしたつもりだが念の為に聞いておこう。
頭をぽふぽふと優しく撫でた。
ぞろりと生え揃った魚の歯は何度見ても凶悪だ。
その細い歯並びは鮫というよりかは、田畑を耕す馬鍬を思わせる。
やがて少年の指ごと噛み付き食べ物を口に入れれば、先程の彼をそのまま真似するように可愛げのない食べ方をするのだった。
片方の端をちぎって口の中に放り込み、ムシャムシャと少し大げさに咀嚼した。
自分の行動を見て真似してくれれば彼女もきっと食べられるだろう。
再び一口サイズにちぎると、小さな口にそっと近づけた。
鼻を寄せ、近付けられたソーセージの匂いを嗅ぐ。
それを食べ物だと認識するのには至らなかったのか、両手をプールの外に出した姿勢のまま、じっと色のない双眸が彼を見上げた。
少女の表情を見て同じようにムッとした。
人差し指の先で眉間を軽く突く。
もっと言ってやろうかとも思ったがこれ以上何を言っても無駄だと考え、諦めて食事の準備を始めた。
魚肉ソーセージを包んでいるシートを取る。
「これ、食えるか?」
端の方を持ってもう片方の端を口元に近付ける。
そういえば彼女の声をまともに聞いたのはさっきが初めてだったなと、ぼんやりと思い出していた。
そこで少女は、初めて辛うじて聞き取れるような悲鳴を上げた。
じたばたと尾びれと腕を動かすが当然、彼に敵うわけもなく人魚は水辺へと引き戻される。
水に浸っている下半身も酷い有様だが、水に浸けておく限り手当の仕様は無いだろう。
相変わらずその表情は読み取りにくいが、心なしか眉を寄せて不服そうな目を向けた。
祖父母は居間でくつろいでいるらしい。
この隙を狙って今度は冷蔵庫の扉をそっと開けた。中から食べかけのサラダと魚肉ソーセージを取り出す。
最後にカウンターに置いてあるプレーン味のクッキーを手に取ると、ビニール袋にまとめて自室に戻っていった。
と、廊下から聞きなれない音が微かにする。
何か嫌な予感がして小走りで階段を駆け上がると、部屋から這いずり出ようとしている少女の姿が目に入った。
「…………お前なぁ……」
呆れて言葉を紡げなかった。
大きな大きな溜息をすると、ヒョイと脇に抱えるようにして軽々と抱き上げる。
そのまま彼女をプールの中に入れ、そばに座り込むと言い聞かせるように話しかけた。
「……ここで待ってろっつったろうが」
しかし、また出て行った後ろ姿を見送って、少女はプールの淵から身体を持ち上げると、転がるようにして床に落ちる。
飛び散った水がもれなくカーペットを濡らした。
歩けもしない身体を引き摺るようにして這うその後には、剥がれた鱗が道を作っていた。
少女の口の中からゆっくりと袖を引き抜く。
この歳くらいの子供なら、服の一部を噛むなんてことはしなくなる筈なのだが。
……もしかしたら、普通の人間の子供が受けるような躾をされなかったのかもしれない。
そもそも最初に手首を噛まれた時点で気付くべきだったんだ、と大きく溜息をついた。
とんでもない奴を助けてしまったと心のどこかで後悔し始めていた。が、今更放り出して捨てるなんてことはできない。
「…………そこで待ってろよ」
まずは手当を済まそうと重い腰をあげる。
自室を出ると、保冷剤とちょっとした食料を持ってこようと再び一階へ向かった。
やっとこさ着せられた服を見下ろせば、長い袖をひらひらと揺らす。
きっと見たことが無いのだろう、包帯を巻かれた時のように不思議そうな顔をしていた。
警戒していた物音のことはもう忘れてしまったみたいだった。
彼の逡巡をよそに、プールの縁に顎を乗せ、余った袖をあぐあぐと噛む。
すると突然立ち上がってタンスに向かう。引き出しからごそごそと取り出したのは黒の長袖Tシャツだった。
胸元に英語のロゴがあるだけのシンプルなデザインで、シワがついて少しよれよれしていることからよく着ていたものだというのがわかる。
最近はほぼ寝巻きになっていたし、いっそあげてしまう方が良いかもしれない。
「……風邪引かれたら困るしな」
小さく溜息を吐くと再びそばにしゃがみ込む。
そのまま少女の首にすぽんと襟を通し、悪戦苦闘しながら両腕にも袖を通した。
その後無事に着せられたが、彼女にこの服は大きすぎた。
袖は指先から何センチも余っているし、裾も長くワンピースのようになって水の中に沈んでいる。
この様子だと今度服を買ってやらなければならないだろう。再び溜息を吐くと頭を掻いた。
叱られたことは分かっているのかいないのか、噛み付いた場所にもう一度鼻を近付けて匂いを嗅ぐと、やっぱりすぐに止めた。人間と同じでツンとするキツイ匂いは苦手らしい。
心なしか涙目になりながら、大人しく手当を受ける。
ただ薬を塗られた時は痛かったのか、わずかに身動ぎした。
くすんくすんと鼻を鳴らしながら、こちらを見てじっとしている彼の前で小さくくしゃみを漏らす。
少し呆れたように呟くと、再び少女を抱き上げてプールの中に戻した。
シートの上に散らばっている鱗を見て罪悪感が湧いてくる。
それを忘れ去るように軽く頭をふると、気を取り直して救急箱の中を漁った。
「じっとしてろよ」
最後に顔の傷の手当に取り掛かる。
切り傷などには絆創膏を貼り、火傷の痕には腕と同じように薬を塗ってガーゼで覆った。
残った目の腫れはどうしようかと考え込む。保冷剤で冷やすのが一番いいかもしれない。
最初に見たとき、暴れていたのとは大違いだった。
やがて真っ白になった自分の腕、身体を見下ろして、また不思議そうに首を傾げる。
角度を変えて腕の包帯を眺めながら、重なって捻れた部分に噛み付いて引っ張ろうとすると消毒液の匂いに顔をしかめてすぐに離した。
けれどその間にも、濡れていた下半身はもう渇き始めていた。艶を持った鱗がパリパリと小さな音を立て、レジャーシートの上に落ちる。
両腕の処置を終わらせると、脇の下に手を伸ばしてそっと抱き上げる。
「……少しだけ我慢しろよ」
ビニールプールの淵を背もたれにしてレジャーシートの上に座らせた。
彼女は水の中でないと生きていけないのだろう。なるべく早く済ませなくては。
痩せ細った上半身に包帯を巻きつけていく。
急いだせいか、ガタガタと少し歪になってしまった。
それでも抵抗しなかったのは、彼を信用したからなのかはまだ分かりかねた。
人魚は腕に巻かれた白い包帯を不思議そうに見つめていた。
右腕をプールの外に出しながら、左手も水の中から持ち上げて彼の前に差し出す。
こうして上半身だけ見ていれば、何ら普通の人間と変わらなく見える。
血の滲む切り傷や擦り傷に、次々と絆創膏を貼っていく。
火傷には塗り薬を塗ったあと、同じように絆創膏やガーゼで覆っていった。
打撲痕には小さく切った湿布を貼っておく。
……こうして手当てはしたものの、水の中に入ってしまったらほとんど効果が薄れてしまうだろう。
何もしないよりはマシかと小さく溜息を吐くと、最後に腕全体に包帯を巻いた。
視線でもう片方の腕も出すよう促す。
血の滲む切り傷や擦り傷に、次々と絆創膏を貼っていく。
火傷には塗り薬を塗ったあと、同じように絆創膏やガーゼで覆っていった。
打撲痕には小さく切った湿布を貼っておく。
……こうして手当てはしたものの、水の中に入ってしまったらほとんど効果が薄れてしまうだろう。
何もしないよりはマシかと小さく溜息を吐くと、最後の傷の処理を済ませた。
視線でもう片方の腕も出すよう促す。
ビクッと身を震わせた少女は恐る恐る顔を出して、見よう見まねで右腕をそうっと前に伸ばす。
細い腕には打撲痕や切り傷、火傷など、色々な種類の傷が無節操に付けられている。
色のない瞳はじっと彼を見つめていたが、先ほどとは違って、あちこちを警戒して落ち着きなく辺りを気にしていた。
別に怖がらせる気はなかったのだが、全く知らない場所で見えないところから物音が聞こえてくれば怯えるに決まっている。
小さく溜息を吐くと、救急箱を持ったまま先ほどと同じところにしゃがみこんだ。
「おら、傷見せろ」
淵から見えている頭を再び撫で、身体を見せるようジェスチャーで伝えた。
落ち着きない視線が物音のした方を怯えた目で見つめている。
取り乱した様子はどこか痛々しく、けれど頭だけプールの淵から覗いている様子だけ見れば少し滑稽でもあった。
視線を少し下にずらすと、傷だらけの上半身とボロボロになった魚の下半身が目に映る。
ちょっと待ってろと言い聞かせ、救急箱を取りに一階へ向かった。
数分後、無事目当てのものを抱えて階段を上っていると、チリン、と軽快な鈴の音が響く。
祖父母が帰ってきたのだ。
ドキリと心臓が跳ねた。ただいま、といつもの優しい声で2人が家の中に入ってくる。
おかえり、と少し大きめの声で返事を返すと、早足で自室に入っていった。
ーー不審に思われてなければいいのだが。
大人しく頭を撫でられながら、彼の顔を凝視する。
その目は驚いたように少し見開かれていて、プールの中の尾びれがパシャリと水面を揺らした。
ほんの少し、プールの水は汚れている。
剥がれた鱗、傷ついた肌から流れ落ちた血が、透明だったはずの水面を濁らせた。
頬を撫でた慣れない感触に思わず身体が強張る。ぞっと鳥肌も立ったが、決して不快な感覚ではなかった。
人魚は未だに声を発しない。
結局質問の答えも聞けなかったが、やはり傷が消えたのは彼女に舐められたからなのだろう。
「………治してくれたんだな、お前」
数十分前まではあんなに反抗的だったのに、こうして触れ合って、更に傷を癒してもらえるなんて想像もつかなかった。
人間嫌いの犬や猫に懐かれるのと同じような、何とも言い難い喜びが胸を満たす。
「…………ありがとよ」
そっと手を伸ばすと、小さな頭の上に乗せて控えめに撫でた。
無意識に頬が緩む。
浮かべた笑顔はごく一般のものと比べるとぎこちないが、纏った雰囲気は柔らかい。
身を乗り出して距離を詰める。
相変わらず声も、言葉も発さない少女は目と鼻の先にまで近づけた顔を、目を逸らさないまま、返事の代わりのようにぺろりと彼の頬を舐めた。
互いの鼻息がこそばゆく、頬を撫でていく。
先程舐められていた手首だ。
「…………あ?」
袖を捲ると思わず声を漏らしてしまった。
傷はどこにもなかった。血の痕すら見当たらない、まるで最初からなかったかのように。
しかしシャツには僅かに血が付いている。つまり傷は本当にあったということだ。
考えられる理由は一つしかない。
「………お前が、やったのか?」
信じられない、とでも言いたげな顔で少女をまじまじと見た。
果たして少女が頷いたか見極めることは出来ないが、嫌がらない素振りを見るに満更でも無いのだろう。
色のない瞳はしばらく少年を見上げていたが、ふと視線を外して彼の手首をじっと凝視した。
先ほど熱心に舐めていた場所だ。
何をするんだと怒りがこみ上げてきたが、彼女の顔を見るとふっと収まった。
少女から怯えや攻撃的な雰囲気は感じられない。
水をかける仕草も遊んでいるように見えた。
「……気に入ったか?」
しゃがみこんだままビニールプールの淵を突く。
先ほど泳いでいた様子を見ると、居心地は悪くなさそうだった。
扉の開く些細な音にも肩を揺らし、微かに怯えたような表情をするのだった。
水面に身体が付けられた瞬間、頭まで沈んでぶくぶくと泡を吐き出した。
漂白に付けたような品のない白髪が水に広がる。
プールの円周に沿って泳ぐ人魚は嬉しそうに無くした尾びれで水をはね上げた。
そして少年の目の前で顔を出し、柔らかい淵に手を付けば、口から水鉄砲のように細く水を吐きかけた。
少女の腰あたりにバスタオルを巻き、水が滴るのを防ぐ。
祖父母の帰ってくる気配がないことを確認すると、そっと浴室を出て二階の自室に向かった。
階段を慎重に上がって奥にある部屋に入る。
白と黒を基調とした室内は適度に散らかっていて、いかにも男子高校生らしかった。
一人用の部屋にしては比較的広いため、その中に大きめのビニールプールを置いてもあまり窮屈には感じられない。
プールの中に少女をゆっくりと降ろし、しばらく様子を見た。
………大丈夫そうだ。
少女の腰あたりにバスタオルを巻き、水が滴るのを防ぐ。
祖父母の帰ってくる気配がないことを確認すると、そっと浴室を出て二階の自室に向かった。
階段を慎重に上がって奥にある部屋に入る。
白と黒を基調とした室内は適度に散らかっていて、いかにも男子高校生らしかった。
一人用の部屋にしては比較的広いため、その中に大きめのビニールプールを置いてもあまり窮屈には感じられない。
プールの中に少女をゆっくりと降ろし、しばらく様子を見た。
少女の腰あたりにバスタオルを巻き、水が滴るのを防ぐ。
祖父母の帰ってくる気配がないことを確認すると、そっと浴室を出て二階にある自室に向かった。
階段を慎重に上がって奥にある部屋に入る。
白と黒を基調とした室内は適度に散らかっていて、いかにも男子高校生らしかった。
一人用の部屋にしては比較的広いため、その中に大きめのビニールプールを置いてもあまり窮屈には感じられない。
プールの中に少女をそっと降ろすとしばらく様子を見た。
色のない瞳を再び彼の目に向けて、何を言うまでもなくただ見つめていた。
無抵抗のまま抱き上げられた身体は軽い。
小さな手がきゅっと彼のシャツを掴む。
切り取られた短い尾びれから垂れた水は、キラキラと鱗を剥がしていった。
色のない瞳を再び彼の目に向けて、何を言うまでもなくただ見つめていた。
無抵抗のまま抱き上げられた身体は軽い。
切り取られた短い尾びれかた垂れた水は、キラキラと鱗を剥がしていった。
慣れない感覚に思わず肩が跳ねた。
手首を掴んでいる小さな手は冷たい。それと対照的に、傷口を這う舌は温かった。
「血なんて汚ねぇだろ。……止めとけ」
彼女の舌を空いている方の手でそっと遮った。
そのまま腕を湯船の中へ伸ばし、細い腰に回すとゆっくりと抱き上げた。
指の先に血の滴った後を見つけ、また目を合わせる。
水掻きのついた小さな手を伸ばした。濡れた手のひらはわずかに滑りを帯びていて、控えめに彼の手首を掴む。
ギザ歯の生えた口を開き、赤い舌をちろりと覗かせた。
透明の唾液に濡れた舌がくっきりと残った傷口を這う。乾いた血を舐めとり、綺麗になった傷口から溢れてきた鮮血をときおり啜った。
水っぽい音が浴室の壁に反響する。
….…少しは信用してもらえたのだろうか。
そのことは嬉しかったのだが、同時に焦りも感じていた。
祖父母が帰ってくる前に、何としても彼女を自室に連れて行かなければならない。
視線を逸らさないまま、もう一つの手も湯船の縁に載せた。
流石に腕を伸ばされると身をこわばらせたが、じっと見つめる瞳に敵意が無いのを理解したらしかった。
少し、ほんの少しだけ、触れる手に頬を寄せる。
火傷したばかりなのだろう、ジクジクと膿んで真っ赤に爛れた皮膚には、三角形をした焼き痕が生々しく残っている。
嗚咽は大分収まったようで、まだ、瞳に涙を溜めながら洟水を啜った。
内心驚いていた。先ほどのように驚かれて、また抵抗されると思っていたからだ。
彼女の瞳から恐怖の色が僅かに薄くなる。
………もう少し距離を縮めてみようか。
そう考えると、腕を伸ばして火傷の残る頬にそっと手を当てた。
微かに肩を揺らしたが、もう故意に噛み付こうとする様子はない。思わず閉じた目を開けて、窺うようにそうっと、視線を合わせる。
止まっていた時間が動き出せば、また天井から結露が滴った。
黄昏の色が差し込んでいた浴室は、いつの間にか暗闇に沈んでいる。
気がつくと少女はこちらに近付いていた。
指先にかかる息が少しくすぐったい。まるで犬のようだとぼんやり思った。
改めて見ると顔も身体を傷だらけで、思わず顔を逸らしそうになるほど痛々しい。
場所を移したら手当もしてやろうと考えながら、指の先にある鼻頭にふに、と軽く触れてみた。
陶器のように白い肌は、陽の光の元で見たのと同じように、痛々しい傷で覆われている。
見つめ返された視線の先で固まる。
浴室に荒い息が響き渡る。
そして彼が湯船に片手を乗せた瞬間、またバシャりと水をはね上げて顔を逸らした。
けれど近付けられたもう片方の手が、いつまで経っても何もしてこなくて、恐る恐る、腕を下ろす。
溜まった涙がついに目尻の淵から溢れ、火傷した頬を伝った。
気が遠くなるような時間をかけて、ゆっくりと顔を近付けて、彼の人差し指の匂いを嗅ぐ。
大きなため息を吐いて腕を引っ込める。
その場にしゃがみこむと、真似をするように少女の目をじっと見つめた。
腕の陰から見える瞳は恐怖で揺れている。
「………何もしねーから、んなビビんなよ」
流石にここまで怖がられると僅かながらも傷ついた。
……いや、仕方ないのかもしれない。虐待を受けていたのなら他人を警戒して当然だ。
湯船の縁に片手を乗せる。試しに人差し指だけ伸ばしてみた。
水掻きの付いた手を目の前に翳し、水面に視線を移す。
乾いていた鱗は水を吸って、いくらか煌きを取り戻したらしい。
透明な水に剥がれたそれが浮かんでいた。
少年の言いつけ通り、そこから動かずにじっと待っていた少女は、降ってきた大きな影に顔を上げた。
伸ばされた手にビクッと大げさに震えた。
頭を後ろに下げ、小さな身体を押し込めるようにして浴槽の壁に縮こまる。不規則な呼吸が徐々に嗚咽を孕んで痛々しく揺らぐ。
怯えて異様な光を帯びた瞳が、細い腕の隙間から覗いた。
水掻きの付いた手を目の前に翳し、水面に視線を移す。
乾いていた鱗は水を吸って、いくらか煌きを取り戻したらしい。
透明な水に剥がれたそれが浮かんでいた。
少年の言いつけ通り、そこから動かずにじっと待っていた少女は、降ってきた大きな影に顔を上げた。
伸ばされた手にビクッと大げさに震えた。
頭を後ろに下げ、小さな身体を押し込めるようにして浴槽の壁に縮こまる。怯えて異様な光を帯びた瞳が細い腕の隙間から覗く。
やはりあの目に見つめられるとどうも落ち着かない。思わず俯いて頭を掻いた。
ふと手首に痛みが走る。くっきりと残った歯型を見て、そういえば怪我をしていたと思い出した。
痛むが血は止まっているらしい。手当は後でもいいだろう。
問題はこの少女をどこに移すかだ。ずっと風呂の中に入れておくわけにもいかない。
しばらく考え込むとあっと思いついた。
「………絶対そこから出るなよ」
指で指して念を押す。早足で風呂場を出ると外に向かった。
とりあえず自転車に乗せたままだった上着と米袋を玄関まで運ぶ。上着は少し湿っていた。
次に庭の物置に向かう。取り出したのはレジャーシートと空気入れ、ビニールプールだった。
それらを自室に持って行き、シートを敷いた上に膨らませたビニールプールを置く。
何度かバケツで汲んだ水を入れれば、彼女専用のスペースが完成した。
祖父母は気を使って自室には絶対入らない。隠すにはぴったりの場所だ。
急いで風呂場に戻ると、ゆっくりと少女に近づく。
「………ほら、こっちこい」
ごみ捨て場で会った時のように抵抗されるのはなるべく避けたい。
湯船の傍まで行って腰を屈めると、恐る恐る腕を伸ばした。
投げかけられる言葉に、少女は緩慢に瞬きをする。
魚のような下半身を持っていることに目を瞑れば、まるで人間の4歳児と変わりない……もしくはもっと病的に痩せこけているだけだ。
その幼稚な頭では少年の言葉の意味が理解できなかったのか、少女は浴槽に背を預けたまま、ひたすら彼の瞳を見続けていた。
色のない瞳と視線が混じり合う。身体に緊張が走った。
「…………な、んだよ」
情けないほど声が震える。
人間離れしたその姿は見ていて落ち着かない。
祖父母がいなくて助かった、と内心ホッとしていた。町内会の話し合いに出ているらしい。
こんなのを見たら腰を抜かしてしまうだろう。
「………別に食ったりしねーからな」
他人から警戒されやすいのは小さい頃からわかっていた。
ただ危害を加える気はないとだけ言っておく。あっちの勘違いで悪者扱いされては堪らない。
薄闇の忍び込む狭い部屋は、静寂が破られることを拒絶している。
天井の結露が一粒、水面に落ちた。
ぐったりと浴槽に浸かっていた少女は、先ほどと同じようにゆっくり、目を覚ます。
尾びれが水を跳ね上げて、少年のズボンを濡らした。
虚ろな視線が彼を見上げる。
真っ直ぐに、黒い瞳を射抜くように。
薄闇の忍び込む狭い部屋は、静寂が破られることを拒絶している。
天井の結露が一粒、水面に落ちた。
ぐったりと浴槽に浸かっていた少女は、先ほどと同じようにゆっくり、目を覚ます。
尾びれが水を跳ね上げて、少年のズボンを濡らした。
呼吸が浅いことに気付くと、血相を変えて置いていた自転車まで急ぐ。
カゴの中に彼女を入れ、その上に上着を被せて網を張った。これなら何かの弾みで外に放り出されることは防げるだろう。
少女が何者かという疑問は脳内から消えていた。とにかく助けてやらなくてはという焦りでいっぱいだった。
薄暗い道で自転車を飛ばす。家に着く頃にはぜーぜーと息が乱れていた。
呼吸を整えないままカゴから少女を抱き上げ、家の裏口からこっそり中に入る。
忍び足で向かったのは浴室だった。
風呂の蓋を開け、足のつま先をそっと浸ける。湯は冷めきっていた。
恐る恐るというように少女を浴槽に入れると、少し遠ざかって様子を見た。
ビチビチと水を跳ね散らしながら尾びれを揺らし、少年の手から逃れようと躍起になって暴れるが、短い腕では彼のズボンを下ろすくらいの嫌がらせしか出来ない。
瞳いっぱいに涙を溜め、唸り声を上げて傷んだ白髪を振り乱す。
水が散るたび、痛々しく赤く抉れた魚の下半身を覆う鱗が乾き、パリパリと音を立ててその破片を撒き散らしていた。
けれど彼がそうやってぼんやりとしている間に、少女は次第に息を切らして弱っていくのだった。
手首に走った痛みに思わず悲鳴をあげた。
水面にじわりと赤い筋が浮かぶ。どうやら血が出ているらしい。
この様子だと強行突破するしかなさそうだ。
苛立たしそうに舌打ちをすると、もう片方の腕を躊躇なく水の中に突っ込んだ。
手探りで腰の辺りを見つける。
抵抗する少女を何とか押さえ込み、脇に抱えるようにして水槽から抱き上げた。
「………………………は?」
間抜けな声が出た。
手首の痛みも忘れ、ぽかんと口を開けて呆然と少女を見つめる。
彼女の下半身は人間のそれではない。
ーー魚、だった。
ぼんやりとピントの合わない目が突然、見開かれる。
逃げるように後退するが、水槽がそれを阻む。バシャりと汚い水が跳ね上げられた。
そして、その手が迫ってきた瞬間、大きく開けられた口が反射的に彼の手首に噛み付いた。
柔らかい皮膚を突き破り、ギザギザに尖った歯の隙間から獣のような唸り声を上げる。
小刻みに身体を震わせて、色のない瞳が彼をじっと見つめていた。
そのことがわかっただけで、強張った身体からだいぶ力が抜けた。
僅かに見えた下半身がどうなっているのかは気付かなかったらしい。
はーっと大きな溜息をついて項垂れる。
さてこれからどうしようかと、少女の顔や上身体をぼんやりと眺めた。
そもそも彼女は何者なのだろうか。この辺りにはたまに来ているが見かけたことがない。
……児童虐待。真っ先にそれが浮かんだ。
だったら警察や病院に連れて行くよりも、一度うちで保護したほうがいいかもしれない。
上着を脱いで少女の身体に掛ける。
ワイシャツの袖を捲り上げると、水槽から出そうと水の中に腕を入れた。
動かない少女の頭がガラスに打ち付けられ、沈んだ半身が一瞬、ほんの一瞬だけ露になる。
爛れた皮膚と同じように、赤く剥けた何かが見えた。
〝それ〟はキラキラと煌く粒のようなものを水面に浮かべ、再び汚水の下へと隠された。
少女はびくりと痙攣を起こしたように震え、
「……………………ん……っ、ぅ……」
不意に鈍いうめき声が上げる。
少年の大声に反応したのか、水槽を揺すられて意識を取り戻したのかは分からない。俯いた顔が、水槽に付着した苔ごと傷んだ髪で擦りとるように、ゆっくり、ゆっくりと持ち上げられる。
頬に刻まれた醜い火傷の痕。
眇められた瞳は、未だ彼が何者であるのか、分かってすらいないようだった。
大きな米袋を自転車の後ろに乗せ、ゆっくりと押しながら歩いていく。
カバンを置いてきてよかったと内心ホッとした。現役の男子高校生とはいえ、この米袋を運ぶのにはかなりの体力が必要だ。
そんなことを考えながら一つ横に曲がると、漂ってきた腐臭に顔を顰める。
視界に入ったのは薄汚いゴミ捨て場だった。この辺りに住む住民はゴミ捨てのマナーが悪いことで有名なのだ。
不法投棄の家具家電も多く置いてある。チッ、と小さく舌打ちして目を逸らしーーーもう一度ゴミ捨て場に目を向けた。
…….なんだアレ。
濁った水の入った水槽をジッと見つめる。
他のゴミの陰から微かに見えるそれが人の頭だと気付くと、咄嗟に顔色を変えた。
大慌てで自転車を止めて駆け寄る。水槽の縁に手をかけて覗き込むと、ガタンと大きく揺れた。
少女の顔は自分と比べてかなり幼い。
「おい!!」
声を上げて揺するように水槽を動かす。
………もし、死んでいたら。
そんな考えが頭を過って冷や汗が流れた。
大きな米袋を自転車の後ろに乗せ、ゆっくりと押しながら歩いていく。
カバンを置いてきてよかったと内心ホッとした。現役の男子高校生とはいえ、この米袋を運ぶのにはかなりの体力が必要だ。
そんなことを考えながら一つ横に曲がると、漂ってきた腐臭に顔を顰める。
視界に入ったのは薄汚いゴミ捨て場だった。この辺りに住む住民はゴミ捨てのマナーが悪いことで有名なのだ。
不法投棄の家具家電も多く置いてある。チッ、と小さく舌打ちして目を逸らしーーーもう一度ゴミ捨て場に目を向けた。
…….なんだ、アレ。
濁った水の入った水槽をジッと見る。
他のゴミの陰から微かに見えるそれが人の頭だと気付くと、咄嗟に顔色を変えた。
大慌てで自転車を止めて駆け寄る。水槽の縁に手をかけて覗き込むと、ガタンと大きく揺れた。
少女の顔は自分と比べてかなり幼かった。
「おい!!」
声を上げて揺するように水槽を動かす。
………もし、死んでいたら。
そんな考えが頭を過って冷や汗が流れた。
光を遮って熱が振りかざされたとき、怖いと思った。
――――たすけて
熱い。
肌が焼ける、鋭い音がする。
耳障りな悲鳴が冷たいコンクリートの壁を叩いた。
つかみあげられる髪は毟られ、無残に切り刻まれていく。
それが最後の記憶だった。
*
薄汚れた町のゴミ捨て場には、カラス避けのネットが張られている。
人通りの減った夕暮れ時、腐臭の漂うその場所に、好き好んで近寄る者は居ない。
打ち捨てられた冷蔵庫、中身のない茶箪笥。
白いゴミ袋の群れの奥に、ひび割れた大きな水槽はひっそりと横たわる。
枯れ葉の浮く緑色に変色した水が半分ほど溜まり、そこに小さな身体が浸されていた。雪のように白い髪が、濡れた水槽に張り付いている。
幼い少女、傷だらけの裸体。
病気とも見まごう真っ白な肌。赤く爛れた皮膚の表面で固まった血が、夕日に溶けている。
水槽の一面に寄りかかるようにして、少女は眠っていた。
ピクリとも動かない身体の下半身は、その汚い水に沈んでいる。
光を遮って熱が振りかざされたとき、怖いと思った。
――――たすけて
熱い。
肌が焼ける、鋭い音がする。
耳障りな悲鳴が冷たいコンクリートの壁を叩いた。
つかみあげられる髪は毟られ、無残に切り刻まれていく。
それが最後の記憶だった。
*
薄汚れた町のゴミ捨て場には、カラス避けのネットが張られている。
人通りの減った夕暮れ時、腐臭の漂うその場所に、好き好んで近寄る者は居ない。
打ち捨てられた冷蔵庫、中身のない茶箪笥。
白いゴミ袋の群れの奥に、ひび割れた大きな水槽はひっそりと横たわる。
枯れ葉の浮く緑色に変色した水が半分ほど溜まり、そこに小さな身体が浸されていた。雪のように白い髪が、濡れた水槽に張り付いている。
幼い少女、傷だらけの裸体。
病気とも見まごう真っ白な肌。赤く爛れた皮膚の表面で固まった血が、夕日に溶けている。
ピクリとも動かない幼女の下半身は、その汚い水に沈んでいる。