1月自作 (雪) 「黒のトンネル」
- カテゴリ:自作小説
- 2021/01/31 23:57:03
「まさかそんな。陛下が自らなんて、一体どんな理由で? ありえない。それは絶対ありえない……!」
赤毛の騎士が叫ぶ姿を、老婆アドウィナは無表情にみつめた。
鐘が鳴る。
連日の降雪で冷え切った王宮の回廊で、荘厳なる音色が響き渡る。
勝利の音が、老婆の背中をみしみしと打った。
そう。この音色はまさしく、戦いの終焉を告げる凱歌。
それではのと、老婆は軽く会釈して踵を返した。
赤毛の騎士は慌てて、報酬は払うと彼女を呼び止めた。騎士の顔をじっと見た老婆は、それはありがたいと慇懃に頭を下げた。
「金槌の勇者よ。運命は我らが――」
鐘の音が、老婆の声を遮った。
それでよいと思いながら、老婆は黒き衣をひるがえした。
赤毛の騎士にこの気配が分かるだろうか。導師ではない者に。人工的に作られた英雄に。
いにしえの偉大な術が、感じ取れるであろうか。
空間と空間を繋げる黒いトンネル。あらかじめ作っておいた抜け道を、老婆はゆるりゆるりと歩いた。杖が要りそうながたつき具合に、彼女はくすりと苦笑した。
縮地しなければ、家へ帰り着くまでに三日はかかる。
エティアの王都を観光するのも一考ではあったが、空から見下ろすに、数百年前とさして変わり映えしないように見えた。水路の色も以前より濁って匂っていそうだったから、寄り道するのは止めにした。
隠れ家は天に浮かぶ島にあり、どこでも好きなところに浮かべることができる。
寒いのはごめんだ。
雪に埋もれた国からは、すぐに退散したい。
「南洋の上に、島を動かすかの。それとも熱砂の砂漠がよいか」
黒い衣のすそがたなびく。
細くて低い黒のトンネルの長さは、ちょうど百歩だ。そのように設定した。
この世のどこにも存在しない、見えない通路。
二十歩進んだところで、足のがたつきがおさまった。
三十歩進んだところで、猫背だった背がまっすぐになった。
四十歩進んだところで、白い髪が染まり始めた。
まっしろから、黒々とした色に。
五十歩目からは、如実に歩く速度が速くなった。
杖が必要となる心配など微塵もない様子で、老婆だった者はすたすたと進んだ。
六十歩目。七十歩目。八十歩目……
顔に刻まれた皺がみるみる消えていく。
かさついた唇がしっとりとふくらみ、赤みを帯びていく。
すらりと伸びた背。男を魅了するような形の胸。それから――
「たたえよう。音の神を」
凛と透き通った、美しい声。
もはやその者は老婆などではなく、大いなる変貌を遂げていた。
輝く白い肌。燃えるような赤の双眸。
見者アドウィナは、颯爽と縮地のトンネルを抜けた。
見る者すべてがため息をつくような、この上なく美しい、うら若き乙女となって。
百歩目を踏んでトンネルを抜けると、そこは雪の島だった。
泉は氷り、果樹は氷雪をかぶって白いおばけのような姿になっている。
うら若きアドウィナはため息をついて、ずぼずぼと深い雪を踏み、島にひとつきりの白亜の建物に入った。
「自動制御で、もっと南に浮かんでいるようにしたはずだけれど」
建物の中は温かかった。
黒衣をまとった何者かが片膝をつき、居間にしている箱部屋の暖炉に薪を放りこんでいたからだ。
金の髪輝くその男を見て、うら若きアドウィナは右手をかざした。
たちまち魔法の気配が降りてきて、乙女の手から光の球がいくつも飛び出した。
だが黒衣の男はふりむきもせず、せっせと薪をくべた。
攻撃の光弾はバチバチと、男の背中のすぐ前で見えない壁に衝突し、放電して消え去った。
「ふざけないで、黒き衣のフリバトール」
乙女が声をあげるとようやくのこと、黒衣の男は立ち上がり、暖炉を背にして乙女を見た。
「やあ、アドウィナ」
「敬称をつけなさい。私はあなたとおなじものよ」
「ああそうだったね。黒き衣のアドウィナ。君が寺院から追放されて、何十年も経ったものだから。つい忘れてしまったよ」
「あなたが島を動かしたのかしら。私に断りもなく、私の家を」
フリバトールという呼び名の男は、そうだよと微笑んだ。
「君がエティアの王室に呼ばれたと、風の噂で聞いたものでね。でもスメルニアの上空に島があるんじゃ、帰ってくるのに大変だろうと思って気をきかせたんだ。エティアの上空に動かしてあげたよ」
「そんな必要は全くなかったのだけど」
黒のトンネルは、必ず百歩の長さだ。入るところと出るところで、どんなに距離が離れていようが、変わらない。そう設定しているのだから。
「風の噂って、どんな風なのかしら。なんでも見通す恐ろしい風かしら。でも私は、あなたの〈気遣い〉にお礼をするべきなのでしょうね」
「そうだね。そうしてくれると、とても嬉しい」
「わざわざ北の果ての寺院から出てきて、私に恩を着せる。その理由は、十分に察せるわ。でもまずは、お茶を差し上げましょう。客人としてもてなしてあげるわ」
うら若き乙女は部屋の奥にひっこみ、白くて大きな箪笥のような箱から茶器を出した。
「お湯は私が沸かそう。瞬時に」
黒衣の男がほがらかに言う。
乙女は男の申し出を断らず、貯水樽から茶器に水を入れると、男に手渡した。
男の体の周りに魔法の気配が降りてくる。まことの言葉が囁かれた瞬間、水はほどよく熱くなり、湯気を昇らせた。
「韻律は、こういう平和的なことに使うべきだと思うんだ」
「あら。侵入者を撃退するには、ある程度の攻撃技が必要かと思うけれど」
「私はそういう類いのものではないよ。きみの弟子の、弟子だからね」
「これが師の師に対する態度かしら。ちょっとなれなれしいんじゃない?」
口元を引き上げてせせら笑いながら、乙女はとぷとぷと香りよい茶を淹れた。
「ランジャのナツメヤシはいかが? それともジャシコウのトルテがよいかしら」
「いや、お茶だけで十分」
男は勧められる前に、居間に据えたソファに身をうずめた。
「黒き衣のアドウィナ。あなたほど美しい人はいないだろう」
「突然口説き始めるなんて」
「いやいや。本当の年齢を知らなかったら、本当に言い寄っていたよ」
「褒め言葉なのか、けなされているのか、よく分からないわ」
褒めているに決まっていると、黒衣の男はくつくつ笑った。乙女が向かいのソファに座ると、男はすっと真顔になった。
「さて。求めるお礼の内容を言っていいだろうか」
「ええどうぞ」
「では遠慮なく。私は、あなたの心臓が欲しい」

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- カズマサ
- 2021/02/01 04:17
- 恐ろしい計画が始動しているのかも知れませんね。
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