Nicotto Town



1月自作 (雪) 「黒のトンネル」

「まさかそんな。陛下が自らなんて、一体どんな理由で? ありえない。それは絶対ありえない……!」

  赤毛の騎士が叫ぶ姿を、老婆アドウィナは無表情にみつめた。

 鐘が鳴る。

連日の降雪で冷え切った王宮の回廊で、荘厳なる音色が響き渡る。

勝利の音が、老婆の背中をみしみしと打った。

そう。この音色はまさしく、戦いの終焉を告げる凱歌。

それではのと、老婆は軽く会釈して踵を返した。

 赤毛の騎士は慌てて、報酬は払うと彼女を呼び止めた。騎士の顔をじっと見た老婆は、それはありがたいと慇懃に頭を下げた。

 「金槌の勇者よ。運命は我らが――」

  鐘の音が、老婆の声を遮った。

 それでよいと思いながら、老婆は黒き衣をひるがえした。

 赤毛の騎士にこの気配が分かるだろうか。導師ではない者に。人工的に作られた英雄に。

 いにしえの偉大な術が、感じ取れるであろうか。

 空間と空間を繋げる黒いトンネル。あらかじめ作っておいた抜け道を、老婆はゆるりゆるりと歩いた。杖が要りそうながたつき具合に、彼女はくすりと苦笑した。

 縮地しなければ、家へ帰り着くまでに三日はかかる。

 エティアの王都を観光するのも一考ではあったが、空から見下ろすに、数百年前とさして変わり映えしないように見えた。水路の色も以前より濁って匂っていそうだったから、寄り道するのは止めにした。

 隠れ家は天に浮かぶ島にあり、どこでも好きなところに浮かべることができる。

 寒いのはごめんだ。

 雪に埋もれた国からは、すぐに退散したい。

 「南洋の上に、島を動かすかの。それとも熱砂の砂漠がよいか」

 

 黒い衣のすそがたなびく。

 細くて低い黒のトンネルの長さは、ちょうど百歩だ。そのように設定した。

 この世のどこにも存在しない、見えない通路。

 二十歩進んだところで、足のがたつきがおさまった。

 三十歩進んだところで、猫背だった背がまっすぐになった。

 四十歩進んだところで、白い髪が染まり始めた。

まっしろから、黒々とした色に。

 五十歩目からは、如実に歩く速度が速くなった。 

 杖が必要となる心配など微塵もない様子で、老婆だった者はすたすたと進んだ。

 六十歩目。七十歩目。八十歩目……

 顔に刻まれた皺がみるみる消えていく。

 かさついた唇がしっとりとふくらみ、赤みを帯びていく。

 すらりと伸びた背。男を魅了するような形の胸。それから―― 

「たたえよう。音の神を」

 凛と透き通った、美しい声。

 もはやその者は老婆などではなく、大いなる変貌を遂げていた。

 輝く白い肌。燃えるような赤の双眸。

 見者アドウィナは、颯爽と縮地のトンネルを抜けた。

 見る者すべてがため息をつくような、この上なく美しい、うら若き乙女となって。

 

 百歩目を踏んでトンネルを抜けると、そこは雪の島だった。

 泉は氷り、果樹は氷雪をかぶって白いおばけのような姿になっている。

 うら若きアドウィナはため息をついて、ずぼずぼと深い雪を踏み、島にひとつきりの白亜の建物に入った。

「自動制御で、もっと南に浮かんでいるようにしたはずだけれど」

 建物の中は温かかった。

 黒衣をまとった何者かが片膝をつき、居間にしている箱部屋の暖炉に薪を放りこんでいたからだ。

 金の髪輝くその男を見て、うら若きアドウィナは右手をかざした。

 たちまち魔法の気配が降りてきて、乙女の手から光の球がいくつも飛び出した。

 だが黒衣の男はふりむきもせず、せっせと薪をくべた。

 攻撃の光弾はバチバチと、男の背中のすぐ前で見えない壁に衝突し、放電して消え去った。

「ふざけないで、黒き衣のフリバトール」

 乙女が声をあげるとようやくのこと、黒衣の男は立ち上がり、暖炉を背にして乙女を見た。

「やあ、アドウィナ」

「敬称をつけなさい。私はあなたとおなじものよ」

「ああそうだったね。黒き衣のアドウィナ。君が寺院から追放されて、何十年も経ったものだから。つい忘れてしまったよ」

「あなたが島を動かしたのかしら。私に断りもなく、私の家を」

 フリバトールという呼び名の男は、そうだよと微笑んだ。

「君がエティアの王室に呼ばれたと、風の噂で聞いたものでね。でもスメルニアの上空に島があるんじゃ、帰ってくるのに大変だろうと思って気をきかせたんだ。エティアの上空に動かしてあげたよ」

「そんな必要は全くなかったのだけど」

 黒のトンネルは、必ず百歩の長さだ。入るところと出るところで、どんなに距離が離れていようが、変わらない。そう設定しているのだから。

「風の噂って、どんな風なのかしら。なんでも見通す恐ろしい風かしら。でも私は、あなたの〈気遣い〉にお礼をするべきなのでしょうね」

「そうだね。そうしてくれると、とても嬉しい」

「わざわざ北の果ての寺院から出てきて、私に恩を着せる。その理由は、十分に察せるわ。でもまずは、お茶を差し上げましょう。客人としてもてなしてあげるわ」

 うら若き乙女は部屋の奥にひっこみ、白くて大きな箪笥のような箱から茶器を出した。

「お湯は私が沸かそう。瞬時に」

 黒衣の男がほがらかに言う。

 乙女は男の申し出を断らず、貯水樽から茶器に水を入れると、男に手渡した。

 男の体の周りに魔法の気配が降りてくる。まことの言葉が囁かれた瞬間、水はほどよく熱くなり、湯気を昇らせた。

「韻律は、こういう平和的なことに使うべきだと思うんだ」

「あら。侵入者を撃退するには、ある程度の攻撃技が必要かと思うけれど」

「私はそういう類いのものではないよ。きみの弟子の、弟子だからね」

「これが師の師に対する態度かしら。ちょっとなれなれしいんじゃない?」 

 口元を引き上げてせせら笑いながら、乙女はとぷとぷと香りよい茶を淹れた。

「ランジャのナツメヤシはいかが? それともジャシコウのトルテがよいかしら」

「いや、お茶だけで十分」

 男は勧められる前に、居間に据えたソファに身をうずめた。

「黒き衣のアドウィナ。あなたほど美しい人はいないだろう」

「突然口説き始めるなんて」

「いやいや。本当の年齢を知らなかったら、本当に言い寄っていたよ」

「褒め言葉なのか、けなされているのか、よく分からないわ」

 褒めているに決まっていると、黒衣の男はくつくつ笑った。乙女が向かいのソファに座ると、男はすっと真顔になった。

「さて。求めるお礼の内容を言っていいだろうか」

「ええどうぞ」

「では遠慮なく。私は、あなたの心臓が欲しい」

アバター
2021/02/01 04:17
恐ろしい計画が始動しているのかも知れませんね。




Copyright © 2025 SMILE-LAB Co., Ltd. All Rights Reserved.