自作10月 『前396年、オリンピアにて』1/2
- カテゴリ:自作小説
- 2019/10/31 23:44:35
風が肩を斬ってくる。前方から打ち付けてくる風に当てられて、戦車を駆る男の頬が冷えてきた。小さな風の神(アネモイ)たちが吹き抜けていく音を楽しみたい。御者たる男は一瞬そう思ったが、今は戦車競技の真っ最中だ。もっと激しく、革の手綱を打たねばならなかった。
「がんばれ! 行け!」
御者は革の綱でびしりびしりと、疾走する馬たちの尻を叩いた。馬は全部で四頭。横並びになって懸命に走っている。
昨日雨が降ったせいで競技場はぬかるんでいる。肉付きのよい馬たちは、馬場が泥味を帯びているのを厭わず、猛然と足を動かしている。だが馬車の車輪は鈍重だった。
「くそ、回転が遅い」
南北に伸びている長い馬場(ヒッポドローム)を、四頭立ての戦車で十二周する。それが本競技であるが、やっと六周目に入ったところだ。二番手はすぐ後ろにいる。もっと加速しなければ並ばれるだろう。
右に視線を投げれば、白い大理石を重ねた塀の向こうは黒山の人だかり。馬場に貼りつく観客の中に、ひどく背の低い漢がいる。そこだけぐっと埋没しているので、御者はすぐに彼を見つけられた。髪は真っ白で、低身長にもかかわらず、筋骨隆々。身に着けているのは、腰布と無造作に羽織っている鮮やかな真紅のヒマティオンのみ。その血の色のごときマントが、男がどこの生まれであるのかを如実に語っている。
ラケダイモーン。すなわち、スパルタ人だ。
質素な身なりの小男には、一般人とは違うという、明確な印はどこにもない。なれど黒髪の御者は、あの男が何者であるかをよく知っている。御者もまた生まれながらの戦士、ラケダイモーンであり、あの小男と日がな一日、顔と剣とを合わせているからだ。
「先頭を死守しろ!」
小男の声援が馬場に流れてくる。その叫びは、泥はねする車輪の音に半ばかき消された。
「負けたら、首を吹っ飛ば――」
「はいはい、分かってますって、陛下」
御者は苛立たしげにうなずいた。疾駆する戦車が、馬場の真ん中にさしかかる。観覧席の後方、高い石の玉座に、全身金ぴかの女性が座しているのが目に入った。
「ははっ、けばけばしいな」
黄金の装身具で身を包んだあの女性は、エーリスの女祭司である。
大祭の主催国であるエーリスではもともと、運動競技は古き豊穣の女神に捧げるものであったらしい。その名残で白き腕のデメテルに仕える祭司が、女神の化身として競技を見守るのだという。
しかして雷放つゼウスの神域たるオリンピアに立ち入れるのは、原則、男性のみ。あの女祭司以外の女性は何人も、立ち入ることは許されない。ゆえに御者が今駆っている戦車の持ち主は、ぶうぶう文句を言ったものだ。
――自分の戦車が走るのに、観戦できないなんて。本当に残念ですわ。
ラケダイモーンの御者が駆る戦車と馬の所有者は、男性ではない。そろそろ孫が出来ようかという、壮年の婦人である。彼女は糸つむぎも機織りも完璧にこなす上に、いまだ日々の鍛錬を欠かさない。男子同様に運動し、健やかな体を作り上げるスパルタの女たちの筆頭であり、毎日訓練場を何周も走り、槍や円盤を投げている。
――男と肩を並べて競おうとは思いません。でも競技を見ることぐらいは、できればいいのにと思います。男装して潜り込もうかしら?
――妹よ、それはだめだ。
婦人を宥めたのは、彼女の実兄。この競技をじかに観に来ている小男。スパルタの王アゲシラオスその人であった。
――その前例はすでにある。昔、男装して息子に連れ添った母親がいたそうだ。選手である息子の訓練官だと称して競技場にまんまと入ったが、息子への声援が熱くなりすぎた結果正体がばれて、ゼウスの神官たちに捕縛されたのだ。
――聖域侵犯の罰は確か、断崖絶壁から突き落とされる、でしたっけ? オリンピアでもそうですの?
――そうらしいぞ。しかし問題の母親は、かろうじて崖から突き落とされずに済んだ。おのが家族は三代にわたってオリンピアの優勝者であると、主張したからだ。とくに今年の優勝者を産んだのは、他でもないこの自分であるとな。
オリンピアの勝者は、ゼウスの隣に並ぶことが許される。すなわちゼウスの聖域に銅像が建てられて、永遠に名を残せるのだ。誰もが今年の優勝者は誰か熱心に知りたがるゆえに、その名は津々浦々に広められ、心より尊敬され、愛され、もてはやされる。故郷の民会で英雄神として祀られることが可決され、莫大なる賞金とともに、自身の神殿を建ててもらった者もいる。
富と名声を得られる偉業は多々あるが、オリンピアの勝者ほど褒めたたえられ、人気を集めるものはないであろう。
――家族の栄誉でもって、罪を逃れるとは。しかも出産の女神ヘーラーの権能をふりかざすなんて、厚かましいことですね。英雄の母は確かに尊ばれるべきですけれど、それを理由に自ら特権を求めるのは間違いでしょう。かようなことをされてはかえって、子を産む女の価値が下がるというものです。
――まあなんだ、それ以来、オリンピアの大祭では、選手のみならず訓練官も裸で参加しなければならなくなっているのだ。
なんて迷惑な女。
眉をひそめた婦人の顔は、その一言を表していた。
婦人は渋々、大人の常識と貞節をもってオリンピアでの観戦をあきらめた。だが実のところの本心は、自ら戦車を駆りたかったのに違いなかった。この戦車の持ち主となって以来、彼女は毎日、戦車に乗っていた。とても誇らしげに、手綱を握って馬場を駆けていた。まるで、天駆ける太陽神の馬車にでも乗っているかのように。
「順位を維……! 引……離せ!」
王の声援が飛んでくる。御者はコーナーを回る戦車の内側に、ぐっと体重をかけた。馬場の壁にぎりぎり沿わせて回ったので、恐ろしい遠心力がかかる。御者は歯を食いしばって踏ん張った。
十周目。チェックポイントで、機械仕掛けの鳥がするりと下がる。鳥は旗のごとく観客席の上に据え付けられており、戦車が一周まわるごとに下げられるのだ。
十一周目に入ってもなお、御者は先頭を維持し続けた。しかしもはや観客席を見る余裕はなかった。王の叫び声が耳に入ってくるが、御者は視線を動かせなかった。ぬかるみを避けなければと、真正面を凝視する。
「右後方! 追い上げてきているぞー!」
「分かってますってー!」
勝たねばならない。何としても。
こたびの参戦は、王命である。勝たねばこの首が飛ぶ。自らの命が懸かっているが、御者が勝ちたいと願う最大の理由は他にある。
この戦車は、一年前に王が突然、立派な馬たちと共に王妹たる婦人に贈りつけてきたものだ。
婦人は馬が欲しいと常々言ってはいたが、まさか四頭も、しかも戦車がついてくるとは夢にも思わず、当時ひどく驚いた。しかも王がオリンピアに戦車を出せとほとんど強制の頼み事をしてきたので、さらに目を丸くしたのであった。
――妹よ、昨今のオリンピアの戦車競技では、戦車を駆るのはほとんど奴隷で、戦車の持ち主に栄冠が授けられるのだ。だから協力してくれ。エーリス国と間男に復讐を。世に覇を唱えるスパルタの栄光を知らしめ、我が王家が蒙った恥辱を雪ぐのだ!
エーリスは長年、スパルタの宿敵であった。ゆえにかの国が主催するオリンピアで、スパルタは何かと不便を蒙ってきた。競技の前にゼウス神殿で行う戦勝祈願を拒まれたり。微妙な判定をされたり。あげくは、スパルタ人の出場を禁止されたり。数多くの露骨な嫌がらせをされてきたのである。

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- かいじん
- 2019/11/04 20:11
- 微妙に政治が絡んでますね。
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- カズマサ
- 2019/11/01 05:17
- 昔オリンピックは、大衆の娯楽ひとつでしたからね。
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