青い薔薇の魔法(2)
- カテゴリ:自作小説
- 2019/05/25 00:19:03
朝餉を食べ終えたあと、ラデルはエルクを図書室にいざなった。
二階にある図書室は、岩穴がいくつもつながっている構造で、とても広い。
壁は一面、岩をくりぬいた本棚だ。木製の書棚も、森のようにうっそうと、何列もそびえている。
書物が痛むのを防ぐため、窓はひとつも作られていないが、室内はとても明るい。一日中こうこうと、ロウソク石の灯り玉がたくさん灯っていて、雲一つない晴れ渡った空の下にいるようだ。
ロウソク石の光は、まったく紙を傷めない。目が疲れることもない。なんとも不思議な石で、寺院の地下にある鍾乳洞からたくさん採れる。火をつけると、ゆっくりゆっくり、輝きながら溶けていく。
「エルク、今日はどの絵本にする?」
棚の中はどこもかしこも、巻物や本がぎゅうぎゅう詰め。
セイリエンの下の子は三番目の書庫に進んで、ちらりと岩棚を見上げ、真っ赤な巻物を指さした。
「あれがいい」
「あれは前に読んだけど」
「あのお話、また聞きたい。ウサギが知らないうちに、嫌いなにんじん食べちゃう話」
ラデルは毎日、図書室で本を読んでくれる。エルクが、絵本が好きだと言ったからだ。石の卓に頬杖をついて、エルクはにこにこ顔でラデルが読む話を聞いた。
「……こうしてウサギは毎日おいしく、ニンジンを食べられるようになりました。めでたし、めでたし。よかった……やっと笑顔になったね」
物語は大好きだ。それに、ここには……ここにだけは……
(こわいのが、いないんだもの)
こわいものは、ロウソク石の光が苦手らしい。太陽と同じぐらいまぶしいからだろうか。彼らは、図書室だけは完全に避けて通っていく。他のところにはうじゃうじゃいるのに。
「あ、九の鐘が鳴ったよ。お師さまの講義が始まる。講義室に行こう」
「やだ……ぼく、ずっとここにいたい」
明るい図書室を離れたくなくて、エルクは石の卓にしがみついた。
輝いていた笑顔がたちまち曇る。じわじわ目が潤んで、ふるえる口がへの字にひん曲がった。
「また目がいたくなるから、ここにいたい」
「エルク?」
「やだ。もうぜったい、うごかない。兄さまも、ずっとずっと、ここにいよう?」
(だってこわいんだ)
(すごくこわいんだ。特に、お師さまの部屋にいるやつ)
(こっちをにらんでくるんだもの)
エルクがてこでも動かない様子を見せたので、兄弟子は困って師を呼んできた。
ひどく青ざめていたのは、下の弟子の様子が変で心配しているせいだったが、師がこの上なく怒っていたせいでもあった。
書庫に入って来る師の怒鳴り声に、エルクは縮み上がって卓の下に隠れた。
師の声は轟く雷のよう。しかしそれは、エルクに向けられたものではなかった。
「私の部屋に入るな? 私と喋るどころか見てもいけない? 命令を破ったら、体が燃えるだと?! アルセニウスは、おまえになんという命令をするのだ! それで私に知らせるため、手紙を飛ばすなど……ばかげている! おまえは、私の子なのに!」
「ごめんなさい……お師様ごめんなさい……」
ラデルがしきりに謝っている。か細い声は床に落ちていて、師の方を向いていない。ラデルはぎゅっと目をつぶり、がくがく震えていた。頬からはとめどなく、涙がこぼれ落ちていた。
「まったく、あいつはいつも、私にやりたい放題だ! アルセニウスめ……!」
兄弟子は他の導師や弟子たちから、〈アルセニウスの子〉と呼ばれることがある。
エルクが寺院に来る前のこと。長老のアルセニウスがラデルを欲しがって、譲ってほしいと師に望んだ。師が断ると長老は怒り、勝手に師のもとからさらって、呪いをかけてしまった。
魂に所有者の名を刻んで奴隷にするという、ひどく悪質なものを。
弟子を奪われるなど、導師にとっては恥の極みだ。しかしアルセニウスは長老のひとりだし、かつてはセイリエンの師であったので、若き導師はかの人に、まったく逆らえないのだった。
「せめてきちんと弟子として扱ってほしいが、あいつはおまえに何も教えない。かわいそうに、気まぐれに命じて弄ぶだけとは」
エルクは卓の下から様子を伺った。師は憐れみと怒りが入り混じった恐ろしい形相で、うつむく兄弟子を睨み下ろしていた。
(兄さまはぜったい、お師さまの部屋に入れない)
(アルセニウス様に呪われてるかぎり、セイリエンの子には戻れない)
(だからぼくは……ぼくは……)
後ずさって岩壁に背をぶつけた兄弟子を、師は逃すまいと、壁に腕をついて閉じ込めた。
「ラデル、忘れるな。おまえは私のものだ。私が選び取ったんだよ。あいつがいなくなれば、一番弟子だった私があいつのすべてを継ぐ。長老の座も、金獅子家の後見の座も。もちろん、おまえを含む、あいつの所有物もすべて。だからどうか、覚えていてくれ。我が望みを。私が毎日、心の底から願っていることを」
師は目を細め、身をかがめて、兄弟子の耳元で囁いた。ゆっくり、少年の体に刻み込むように。
「アルセニウスに、死を――」
一瞬、師弟の間を黒い風が通り抜けた。
なんと昏い声だろう。師の声の低さに、エルクはぶるっと身震いした。
しかし突然、燻る炎のような師の声は、柔らかなせせらぎに反転した。
「さてエルク。どうして、ここから出たくないのかね?」
師はしゃくりあげて泣く兄弟子からサッと離れて、にこやかな笑顔を浮かべながら、卓の下に隠れる子をのぞき込んだ。
エルクは師の豹変ぶりに驚き、涙をぬぐう兄弟子を心配げに見つめながら、たどたどしく答えた。
「そ、それは……目が、いたくなるから、です」
「どうして痛くなるのだろうね? 目に異常がないとすれば……」
子どもたちと同じ色の髪をさらと揺らして、かすかに首を傾げた師は、蒼い瞳を細くすがめてエルクを見つめた。
「なにか、変なものが見えるとか?」
「う……あ、はい……」
「やはりそうか。それはたぶん、前から見えていたわけではないのではないかな? 最近、急に見えるようになったとか。おそらく……」
蒼い視線の矢が、エルクを射貫いた。
「君はとてもむずかしい韻律を試してみた。それから、そうなったんだろう?」
「う……」
師はエルクの前にしゃがみこみ、ずさりずさりと、ゆっくりエルクを刺した。
「先週だったね。おまえは、私に聞いてきた。とある秘法のことを――――」
「だ、だめ! 言っちゃだめ!」
エルクは顔を真っ赤にしながら卓の下から這い出して、とっさに師の口を塞いだ。
「ふご?!」
「ひみつにして! 言ったら、ゆるさないから! お師さまでも、ゆるさないから!!」
部屋の戸口で、兄弟子が湿った目をまん丸くしている。
彼を見たエルクはますます焦って、師に願った。
「おねがい! 兄さまがもっと泣いちゃうから、ぜったいだめ!!」
しかし業が深いのはアルセニウスなのか、セイリエンなのか……。
二人の大人の間で翻弄されるラデルを救いたいエルクがしたこととは、何なのでしょう。
謎が謎を呼んできますね。わくわくします。