青い薔薇の魔法 (1)
- カテゴリ:自作小説
- 2019/05/24 23:40:01
きらめく湖水が足もとに寄せてくる。
まっ正面から吹いてくるのは、くるくる踊る、生暖かい風。
「上も青。下も青」
目をこらして、岸辺に立つ子はそうつぶやいた。
踊る風の向こうにある、晴れわたった空と、目の前に広がる湖の境目を、じっと見つめながら。
それから、自分が羽織っている衣を見降ろして、また囁く。
「……まっ青」
空の青と湖の青と衣の青は、ぜんぜん違う。でもまちがいなく、どれも青い。
空の青は神々しくて、押し潰されてしまいそうな気がする。
湖の青はまぶしすぎて、思わず顔を覆いたくなる。
だから小さなその子は、金の髪輝く頭をうつむけて、ちょっとくすんだ蒼い衣の袖で顔を隠した。
「青いバラの青は……どんな青? どの青と、似てるの?」
――「エルクどこ? セイリエンのエルク!」
小さな背中に探し声が降りかかる。
けれど袖で顔を隠す子は、湖の岸辺に立ったまま。ふりむこうとしなかった。
「エルク、朝の風編みがそろそろ終わるよ。お師さまが岩の舞台から降りてくるのを出迎えて、食堂に連れていって」
「む、むり」
顔を隠す子は、そばに近づいてきた気配におずおずそわそわ。消え入るような声で囁いた。
「ラデル兄さま……ぼく……目がいたい」
「えっ? なにか目に入ったの?」
「ちがう」
湖から風が吹いてくる。顔を隠す子を打ち叩くように、くるくるびゅうびゅう。
まるで怒っているように吹いてくる。
「目をよく見せて。風に飛ばされた虫が入ったのかも」
腕をそっとつかまれて引っ張られたので、顔を隠す子は観念してふりかえり、おそるおそる手を下ろした。
自分と同じ、蒼き衣を羽織っている金髪の少年が、じっとみつめてきている。
「ラデル兄さま……」
背はそんなに変わらない。年も一つしか違わない。けれど兄弟子の澄んだ瞳は、あまたの知と徳を積み重ねた賢者のよう。冴え冴えとした光をたたえている。
その真剣なまなざしに、ホッとしたものの。兄弟子の背後にそびえる岩壁を見たとたん、エルクは目を閉じて後ずさった。
「ううう」
天へとそびえる岩には、穴がいっぱい開いている。暗くて黒くて、いびつな四角の穴がたくさん。たくさん。たくさん……
「エルク?」
「いたい。いたいよう!」
「だ、大丈夫?」
兄弟子はしゃがんで泣き出した子の肩をさすり、優しくうながして、岩をくりぬいた円い門へといざなった。
「かわいそうに、目を痛めるなんて」
ちがう。ちがう。ケガしたんじゃない。
小さなエルクは首を横に振ったけれど、うまく説明できなかった。
この寺院に来て、二ヶ月。お師様も兄弟子も優しい。韻律の修行は難しいけれど楽しい。でも――
(ここはとっても、こわいんだ)
暗い岩穴に入るなり、エルクはラデルの背に抱きついて、自分の顔を隠した。
まるで何かから、隠れるように。
「泣かないで、エルク。待ち合いの間まで送ってあげる。俺はそこまでしか付き合えないけど、がんばって」
「うううう」
「お師様をお迎えしたら、目のことを話すんだ。きっと治してくださるよ」
ラデルは何かと面倒を見てくれる。
家が恋しくなって泣いてしまったときは慰めてくれたし、おねしょしたときは実にうまく、隠してくれた。 盗まれた靴をあっという間に見つけてくれたし、いじめっ子を睨んで追い払ってくれる。だから大好きだ。
でも……
小さな子は兄弟子の背中からしばらく、顔をあげることができなかった。
(こわいんだ。こわいんだ)
(だっているんだもの)
(あっちにも。こっちにも)
FABRAE DE TEMPLED SPECUS
――岩窟の寺院の物語――
ギヤマンのレンズの向こうで、蒼い瞳がきらりときらめく。
「濁りはないし、傷もない。近視の傾向があるようだが、まあ正常だ」
黒き衣をまとう師が、エルクの右目から丸い拡大レンズを外した。
風編みを終えて岩舞台から降りてきた師は、下の弟子の目のことを聞くと私室に直行。岩を穿って作った棚からレンズを出して、さっそく目を看てくれたのだった。
「悪いものが宿っている気配もない。念のために薬湯で洗っておくが、心配いらないよ」
黒き衣のセイリエンは、まだ二十代のうら若い導師。
いにしえの知識に精通し、万薬の効用を識っている。
狭い岩窟には本が山積み。師は棚にずらりと並べた薬瓶の一つを取って、白い綿にひたして、エルクの目を拭ってくれた。
でも、部屋の隅に見えるものは、それでは全然消えなかった。
(やだ、にらんでこないで)
なるべくそっちを見ないようにして、こぢんまりとした師の岩窟から出ると。廊下で待っていた兄弟子が、心配げに様子を聞いてきた。
「どうだった?」
たどたどしく説明すると、兄弟子はホッとして、白いパンや塩漬けの魚が入っている、大きな籠を手渡してきた。
「お師様に朝餉を渡してきて」
「はいっ」
師の身の回りの世話は、一番下の弟子が全部することになっているけれど、ラデルはこっそり手伝ってくれる。
お師様の衣や敷物を一緒に洗って、干してくれたり。混み合う調理場で、葡萄酒の瓶をエルクに渡してくれたり。お師様のお皿を洗ってくれたり。
靴紐の結び方や帯の結び方、部屋の掃除の仕方は手取り足取り、みっちり教えてくれた。
師が、どんなお菓子が好きなのかも。
『ランジャのナツメヤシ。定期的に供物船で送られてくるけど、ほっとくと、あるだけ全部食べちゃうから気をつけて。樽は厨房で保存してもらって、赤い絹の箱に少しだけ移し入れて渡すんだよ』
籠の中には、赤い絹張りの箱も入っている。実に完璧である。
師に朝の食事を渡したあと、エルクはラデルと一緒に、長い長いらせんの石階段を降りていって、一階の大食堂に入った。
食堂は何百人もいる弟子たちが一斉に座れる、大きな岩穴だ。真ん中あたりに神聖語を刻んだオベリスクが二本建っていて、ごつごつした岩の天井を支えている。
「日々の供物に敬意を」「湖の恵みに感謝を」
ふたりは長い石の卓について手を組んで、オベリスクの神聖語を読んでから黒パンを食べた。それがこの寺院での「いただきます」の挨拶だからだ。
他の弟子たちは大体食べ終わっていて、席はまばら。体の大きい年長の弟子の一団が、食堂から出ていくまぎわに、兄弟子の背中に言葉を投げてきた。
「やあアルセニウスの子、大遅刻だな」
「セイリエンのエルクと、今日も仲良しこよし?」
「おまえまだ、セイリエン様のところに出入りしてるのかよ?」
兄弟子は一瞬ギッと彼らを睨んだが、何も言い返さなかった。
(ちがうよ! ラデル兄さまは、セイリエンの子だよ!)
エルクはぶっくり頬を風船のようにしたけれど、抗議の言葉は声にならなかった。
ケンカは大の苦手だ。年下の弟たちにちょっと押されただけで泣いてしまって、親に呆れられたぐらいである。
おずおずと上目遣いでラデルを見ると、ラデルはくすりと苦笑した。
その目はとても昏かった。口元は笑顔の形をしていたけれど、かすかにわなないていた。
「平気だよ……いちいち気にしてたら、息ができないからね」
ラデルもエルクも何か事情がありながら、互いに支え合っているようですが…。
ここからどう物語が展開していくのでしょうね。
その何かが解れば良いのですがね。