Nicotto Town



青い薔薇の魔法 (1) 

 きらめく湖水が足もとに寄せてくる。

  まっ正面から吹いてくるのは、くるくる踊る、生暖かい風。

「上も青。下も青」

 目をこらして、岸辺に立つ子はそうつぶやいた。

 踊る風の向こうにある、晴れわたった空と、目の前に広がる湖の境目を、じっと見つめながら。

 それから、自分が羽織っている衣を見降ろして、また囁く。

「……まっ青」

 空の青と湖の青と衣の青は、ぜんぜん違う。でもまちがいなく、どれも青い。

 空の青は神々しくて、押し潰されてしまいそうな気がする。

 湖の青はまぶしすぎて、思わず顔を覆いたくなる。

 だから小さなその子は、金の髪輝く頭をうつむけて、ちょっとくすんだ蒼い衣の袖で顔を隠した。

「青いバラの青は……どんな青? どの青と、似てるの?」 

――「エルクどこ? セイリエンのエルク!」

 小さな背中に探し声が降りかかる。

 けれど袖で顔を隠す子は、湖の岸辺に立ったまま。ふりむこうとしなかった。

「エルク、朝の風編みがそろそろ終わるよ。お師さまが岩の舞台から降りてくるのを出迎えて、食堂に連れていって」

「む、むり」

 顔を隠す子は、そばに近づいてきた気配におずおずそわそわ。消え入るような声で囁いた。

「ラデル兄さま……ぼく……目がいたい」

「えっ? なにか目に入ったの?」

「ちがう」

 湖から風が吹いてくる。顔を隠す子を打ち叩くように、くるくるびゅうびゅう。

 まるで怒っているように吹いてくる。

「目をよく見せて。風に飛ばされた虫が入ったのかも」 

 腕をそっとつかまれて引っ張られたので、顔を隠す子は観念してふりかえり、おそるおそる手を下ろした。

 自分と同じ、蒼き衣を羽織っている金髪の少年が、じっとみつめてきている。

「ラデル兄さま……」

 背はそんなに変わらない。年も一つしか違わない。けれど兄弟子の澄んだ瞳は、あまたの知と徳を積み重ねた賢者のよう。冴え冴えとした光をたたえている。

 その真剣なまなざしに、ホッとしたものの。兄弟子の背後にそびえる岩壁を見たとたん、エルクは目を閉じて後ずさった。

「ううう」 

 天へとそびえる岩には、穴がいっぱい開いている。暗くて黒くて、いびつな四角の穴がたくさん。たくさん。たくさん……

「エルク?」

「いたい。いたいよう!」

「だ、大丈夫?」 

 兄弟子はしゃがんで泣き出した子の肩をさすり、優しくうながして、岩をくりぬいた円い門へといざなった。

「かわいそうに、目を痛めるなんて」

 ちがう。ちがう。ケガしたんじゃない。

 小さなエルクは首を横に振ったけれど、うまく説明できなかった。

 この寺院に来て、二ヶ月。お師様も兄弟子も優しい。韻律の修行は難しいけれど楽しい。でも――

 (ここはとっても、こわいんだ)

  暗い岩穴に入るなり、エルクはラデルの背に抱きついて、自分の顔を隠した。

 まるで何かから、隠れるように。

「泣かないで、エルク。待ち合いの間まで送ってあげる。俺はそこまでしか付き合えないけど、がんばって」

「うううう」

「お師様をお迎えしたら、目のことを話すんだ。きっと治してくださるよ」

 ラデルは何かと面倒を見てくれる。

 家が恋しくなって泣いてしまったときは慰めてくれたし、おねしょしたときは実にうまく、隠してくれた。 盗まれた靴をあっという間に見つけてくれたし、いじめっ子を睨んで追い払ってくれる。だから大好きだ。

   でも……

 小さな子は兄弟子の背中からしばらく、顔をあげることができなかった。

 (こわいんだ。こわいんだ)

(だっているんだもの)

(あっちにも。こっちにも)


 

 

 FABRAE DE TEMPLED SPECUS

――岩窟の寺院の物語――



 

 

 ギヤマンのレンズの向こうで、蒼い瞳がきらりときらめく。

「濁りはないし、傷もない。近視の傾向があるようだが、まあ正常だ」

  黒き衣をまとう師が、エルクの右目から丸い拡大レンズを外した。

 風編みを終えて岩舞台から降りてきた師は、下の弟子の目のことを聞くと私室に直行。岩を穿って作った棚からレンズを出して、さっそく目を看てくれたのだった。

「悪いものが宿っている気配もない。念のために薬湯で洗っておくが、心配いらないよ」

  黒き衣のセイリエンは、まだ二十代のうら若い導師。

 いにしえの知識に精通し、万薬の効用を識っている。

 狭い岩窟には本が山積み。師は棚にずらりと並べた薬瓶の一つを取って、白い綿にひたして、エルクの目を拭ってくれた。

 でも、部屋の隅に見えるものは、それでは全然消えなかった。

(やだ、にらんでこないで)

  なるべくそっちを見ないようにして、こぢんまりとした師の岩窟から出ると。廊下で待っていた兄弟子が、心配げに様子を聞いてきた。

 「どうだった?」

  たどたどしく説明すると、兄弟子はホッとして、白いパンや塩漬けの魚が入っている、大きな籠を手渡してきた。

「お師様に朝餉を渡してきて」

「はいっ」

  師の身の回りの世話は、一番下の弟子が全部することになっているけれど、ラデルはこっそり手伝ってくれる。

 お師様の衣や敷物を一緒に洗って、干してくれたり。混み合う調理場で、葡萄酒の瓶をエルクに渡してくれたり。お師様のお皿を洗ってくれたり。

 靴紐の結び方や帯の結び方、部屋の掃除の仕方は手取り足取り、みっちり教えてくれた。

 師が、どんなお菓子が好きなのかも。

 『ランジャのナツメヤシ。定期的に供物船で送られてくるけど、ほっとくと、あるだけ全部食べちゃうから気をつけて。樽は厨房で保存してもらって、赤い絹の箱に少しだけ移し入れて渡すんだよ』

 籠の中には、赤い絹張りの箱も入っている。実に完璧である。

 師に朝の食事を渡したあと、エルクはラデルと一緒に、長い長いらせんの石階段を降りていって、一階の大食堂に入った。

 食堂は何百人もいる弟子たちが一斉に座れる、大きな岩穴だ。真ん中あたりに神聖語を刻んだオベリスクが二本建っていて、ごつごつした岩の天井を支えている。 

「日々の供物に敬意を」「湖の恵みに感謝を」

 ふたりは長い石の卓について手を組んで、オベリスクの神聖語を読んでから黒パンを食べた。それがこの寺院での「いただきます」の挨拶だからだ。

 他の弟子たちは大体食べ終わっていて、席はまばら。体の大きい年長の弟子の一団が、食堂から出ていくまぎわに、兄弟子の背中に言葉を投げてきた。

「やあアルセニウスの子、大遅刻だな」

「セイリエンのエルクと、今日も仲良しこよし?」

「おまえまだ、セイリエン様のところに出入りしてるのかよ?」

  兄弟子は一瞬ギッと彼らを睨んだが、何も言い返さなかった。

 (ちがうよ! ラデル兄さまは、セイリエンの子だよ!)

  エルクはぶっくり頬を風船のようにしたけれど、抗議の言葉は声にならなかった。

  ケンカは大の苦手だ。年下の弟たちにちょっと押されただけで泣いてしまって、親に呆れられたぐらいである。

  おずおずと上目遣いでラデルを見ると、ラデルはくすりと苦笑した。

 その目はとても昏かった。口元は笑顔の形をしていたけれど、かすかにわなないていた。

「平気だよ……いちいち気にしてたら、息ができないからね」

アバター
2019/05/25 16:21
新作ですね。
ラデルもエルクも何か事情がありながら、互いに支え合っているようですが…。
ここからどう物語が展開していくのでしょうね。
アバター
2019/05/25 04:57
修業が楽しいのは良い事なのですが、何かに脅えていますね。

その何かが解れば良いのですがね。




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