氷の女王 2
- カテゴリ:自作小説
- 2018/11/17 11:07:54
師は目を細めて、じっと一番弟子の衣をみつめた。
「ほう……〈大陸軍法の判例及び事例集〉……?」
「あ、はい。そうです」
一番年上のラデルは、衣のたもとから巻物をひと巻出してみせた。
「お師さまが今日ご講義される大スメルニアは、現在、極東のスイ国と交戦しています。
ゆえに講義でお使いになる参考文献にはスイ国の年代記もありますが、かの国はたびたび大スメルニアと戦っては、休戦条約を結んでいます。今回もそうなった場合には、今までのように大陸軍法777条が適用されるのか、それとも、今回の経過は若干今までとちがうので、他の条項が適用されるのか。どちらになるか、事例を見ながら予想していたんです」
「なるほど。では本日の講義の最後に、そのことに対して私の見解をつけ加えよう。おまえの予想と同じになるかな?」
「ええ。きっと同じです」
サリスは、目を細める師と、硬い顔でうなずく兄弟子に痛く感心した。
偉大な師は自在に精霊を扱い、蒼き衣のたもとの中をはっきり透視した。
賢いラデルは、師が炎の灯り玉を作ることを予知した。だから何も羽織ってこなかったのだ。たぶん、師がどんな見解を示すかも、予知しているだろう。
サリスは超常の力をなにげに使うふたりを賞賛しようとしたけれど。その声は、隣に座っているジェリのきんきん声に呑まれてしまった。
「ラデル兄さま、すっげえ! 俺てっきり、袂のなかにお菓子でも隠しててさ、それでお師さまが怒ったのかと思った。ほんとすっげえ!」
「バカだな、真面目な兄さまがお菓子なんか隠すわけないだろ。ジェリ、おまえ見えないのか?」
めがねのエルクが眉をひそめてあきれた。透視など、できて当然だというように。
少々舌足らずな口調で話すレイスも、花を持ってきた理由をにこにこ顔で明かした。
「ねえお師さま、灯り玉で、この花焼いていいですか? これ、花の中に香油を入れてあるの」
(エリクも、ラデルのたもとの中がみえた……? レイスは、師が灯り玉を作るのを予知した? そういえばレイスも、えりまきをしてきてない……)
息を呑むサリスのとなりで、ジェリが目を丸くして、無邪気に驚いた。
「わあ、すっげえ、いい匂い! レイス兄さますっげえ!」
「ジェリったら、さっきからすっげえしか言ってないよ?」
「だってほんとすっげえよ。俺そういうの、ぜんぜんだからさー」
「ジェリは仕方ない。導師になるためにここに来た子とは違うからな」
「そうそう、お師さまの言うとおり。俺って、アブナイとこから一時避難してきただけだもん。大陸一、安全なここにさ」
「然り。我ら導師が作りし結界は、何人たりとも越えられぬ。氷の女王でさえも」
レイスの干し花は灯り玉に燃やされて砕けると、あたりに甘やかな香りをふわりと醸した。
みんなは心地よい暖かさにつつまれて、しばしうっとりまったりしたけれど。
サリスはひとり落ち込んで、凍らない湖をかなしげに見つめていた。
シルフィリエ シルフィリエ
ぼくにはなにもみえない なにもきこえない
未来のことはなにも、わからない――
次の日も寺院はとても冷え込んで、湖には氷がたくさん浮いた。
けれど決して、一面凍りつきはしなかった。
特別な魔法の護符をつけた漁師の舟はいつもと変わらず、網にいっぱい魚を引っかけてきて、船着き場で降ろしていってくれた。
サリスは手際よく魚とりの当番を済ませて、待ち合いの広間に走った。
鐘鳴る朝、天井や壁に美しい鳥の絵が描かれているそこに、年の幼い弟子たちが集まる。
岩の舞台で風編みをした導師たちが降りてくるのを、迎えるためだ。
弟子たちはそのまま小食堂についていって、師の給仕をするのだった。
「今日はずいぶん魔力を使った」
舞台から降りてきた師は、やれやれとため息をついていた。
「上空で、氷の女王がひどく吹き荒れている。困ったものだ。もし湖が凍ったら結界が弱まるだろうし、魚がとれなくなる」
「穴をあけて、釣ったらいいんです」
サリスはぽそりとつぶやいた。
「氷に穴をあけて餌を垂らせば、魚が集まります」
「ふむ。君は、釣りをしたいのかな?」
「いえ別に、そういうわけでは……」
やりたいことなんて、なんにもない。
だって、やらなければならないことがあるから。
一所懸命修行して、黒き衣の導師になる。落ち目のお家を、影から助ける導師に。
それから。必要となれば、いとわない。
金獅子州公の家を守る師を……
だから何かをしたいなんて、願っているひまはない。
寺院に来る前に、全部処分した。
銀の兵隊も。ラ・レジェンデのカードも。釣り竿も。それから、スケート靴も……
『サリス。我が息子よ。おまえはこの家を、神獣アリンの加護ありし蒼鹿家をなんとしても、存続させるのだ。我が家を狙う金獅子家を、倒さねばならぬ……!』
一族みんなの望み通りに。お家を継ぐ、兄上のために。
必要とあらば、躊躇はしない。
知識と偉大な技を教えてくれる師を……殺すことも。
決して、迷わな……
「サリス!」
刺すような声で呼ばれ、サリスはびくりと背筋を伸ばした。腕に抱えていた葡萄酒の瓶が、ぼちゃりとはねた。
「は、はい。お師さま、なんでしょうか?」
「赤箱が来ていない」
「あ、すみません!」
赤箱には、師の大好物が入っている。砂糖衣がたっぷりついた、ランジャのナツメヤシが。
長老の特権で何箱も氷室に保管していて、いつも食事の皿といっしょに出していたのに。今日はうっかり忘れてしまった。
厨房に走り、慌てて赤箱を確保すると。調理当番の子たちが、並べた大樽を前にして、なにやら話し合っていた。
「やばいよな」「うん、やばい」
「これ開けたら、やばいよな」
「うん。絶対、このまま捨てた方がいい」
――「あの、何が入ってるんですか?」
聞いた瞬間、サリスは後悔した。
「おまえ、見えないの?」
腕組みしている年長の子が、バカにしてきたからだった。
「韻律を唱えれば、見えます……」
か細い声で答えれば。他の子たちもくすくす笑ってきた。
「透視ぐらい、素でできないとね」
「ほんと。わざわざ、魔法の気配をおろすまでもないよ」
「おまえそんなじゃ、うっかり樽を開けちゃって、どっかーんってやらかすぞ」
「腐った魚ってほんと、ガスが出て危険だよねえ」
あははわはは。笑い声を浴びたサリスは、逃げるように厨房から走り出た。
魔力はある。魔法の気配はおろせる。羽を浮かすことだって。小さな精霊を喚ぶことだって、なんとかできる。
でも……
くやしい思いを押し込めて、まっかな箱を師に渡したら。
さらにぐさりと、するどい槍が胸をえぐってきた。
「おや? この箱にはナツメヤシがほとんど、残っていないようだ。赤箱をもうひとつたのむ」
師はそう命じてきた。箱のふたはほんの少しも、開けないままで。
サリスは一瞬ひきつけたように息を吸い込み、それから、謝罪の言葉をまくしたてた。
「ごめんなさい! 何個入ってるか、分かりませんでした! すみません!」
「む? いや、あやまることは――」
「み、見えなくて、本当に申し訳ありません!」
叫びというより、ほとんど悲鳴だった。
封を切っていない赤箱をとってきて、師におしつけると。サリスは食堂を飛び出した。歯をぎりりと、噛みしめながら。
と 予知する( ´∀`)b