Nicotto Town



氷の女王 1

 

Regina  illa  Glasialis

 ――氷の女王――


 目を閉じれば、見えてくる。

 果てなきましろの、氷の鏡面。

 微動だにしない水平線は、蒼き空と溶け合いて。

 こおこおゆらゆら、つめたい炎をあげている。

 吹雪はぴたりと止んでいて。

 空には雲ひとつなくて。

 すばしこい鹿は、日輪へと駆けていく。


 たすけて

 たすけて

 金の獅子に、食われてしまう――

 

 哀れな鹿は、叫びながら逃げていく。

 

 かわいそうな鹿から目をそらし、僕は固まった水平線を見すえる。

 さあ滑りだそう。

 競争するんだ、どちらが速いか。

 兄さんには負けない。今度も勝ってやる。

 氷の息吐くシアティリエ。あなたの息吹なんか、こわくない……

 

  

「すっげえ! 氷が浮いてる!」

 岩のアーチ門をくぐって外に出るなり、セイリエンのジェリが声をあげた。

 船着き場に駆けていき、湖の岸辺にぷかぷか浮かぶ氷の破片をつっつき始める。

 金色の豹の目はきらきら、太陽のよう。

 ジェリの格好はかなり変だ。蒼き衣の上に羽織っているのは、ぶあつい豹の毛皮。首に巻いているのは、ふさふさの豹の尻尾。黒い巻き毛はすっぽり、豹の頭の中。

「ひゃあ、冷てえ! でもうめえ!」

 氷をつかみあげてガリガリかじるし、品位のかけらもない口調だったから、後ろからついてきた金髪の子は、思わずぎりっと睨みつけてしまった。両手いっぱいに抱えた巻物の山に顔を隠し、銀狐のえりまきに口を埋めて、冷たい悪口を押し殺す。

(……これが一国の王子? なんてはしたない……)

 ジェリのふるさとは、一年中暑い南王国。大陸で二番目に広くて古い国だ。

 王位を狙う兄王子たちに殺されないよう、ジェリはこの寺院に逃げ込んできた。

 霧たちこめる湖の前にいと高くそびえる、岩窟の寺院に――

 王家の血統はまったく申し分ない。豹の毛皮や尻尾をまとうにふさわしい。

 ジェリはいつも、そう自慢するけれど。こんこん雪ふる北国の、とても上品な家に生まれ育った金髪の子は、聞くたびに目をひそめてしまうのだった。

(はいだまんまの皮をかぶるなんて。蛮族としか思えません……)

 

 金髪の子が仏頂面で、岸辺の奥に建つ円堂に巻物をおろすと。ひと足先に来ていた一番上の兄弟子が、岸辺に目をやって苦笑した。

「あいつ、氷を見るの初めてなんだろうね」

 円堂の柱から、びゅうびゅう寒風が吹きぬけてくる。なのに、巻物を広げて読みふける兄弟子は、蒼き衣の上になんにも羽織っていない。寒さに耐える修行でもしているのだろうか? 

 兄弟子ほど真面目で優秀な導師見習いはいない。いつでもどこでも書物を読んでいるし、韻律を扱うどころか、自分で編み出すこともできる。頬にひと筋ついている傷跡は、「偉大な探求者の証」だ。自前の韻律をためしたら、いきなりまわりが爆発してしまって、砕け散ったギヤマンの瓶で負傷したのである。

「でもラデル兄さま」

 金髪の子は口をとがらせて、兄弟子にぼやいた。

「あんなの、ちょっとうっすら氷が浮かんだだけじゃないですか。シアティリエの息で凍った湖ならまだしも」

「シアティリエ……氷の女王か。君のふるさとの湖も、一面凍るんだね」

「ええ、毎年がちがちに固まります。とても分厚く、まっしろに」

 

 氷の女王が吹き荒れたら、子どもたちはおおはしゃぎ。

 みんなスケート靴を肩にかけて、湖へと遊びに出る。

 ひゅおうびゅおう、冷たい吐息を背に受けて、まっしろな湖面をくるくる滑る――

「ここは僕のふるさとよりずっと北ですが。湖がすっかり凍ることはないのですね」

 目を伏せてうつむく金髪の子を、一番上の兄弟子は水色の瞳でじいっと見つめてきた。

 まるで心のなかを読み取るように。

「うん……湖が固まったら、外の世界から遮断する結界として、役に立たなくなるからね。お師さまたちは毎日、岩の舞台で風編みをなさって、氷の女王を寄せつけないんだ。今年は寒波がひどくて、少し氷が張ったけど。ここの湖は、ぜったい固まらないよ」

「ぜったい……固まらない……」

 金髪の子は、やわらかな銀狐のえりまきの中でため息を押し殺した。


 シアティリエ シアティリエ

 僕はけっしてつかまらない

 あなたの息吹なんか、こわくない

 背を向けたまま、勝ち逃げしよう

 さよなら さよなら おそろしい氷の女王 

 永遠におわかれだ……

  

 それからすぐにあとふたり、蒼き衣の弟子が円堂にやってきた。

 めがねをかけた子と、なぜか干したバラの花を一輪持っている子だ。

 花を持っている子も、蒼き衣の上にはなんにも羽織っていなかった。

 一番上の兄弟子と同じ修行をしているのだろうか?

 子どもが五人そろってほどなく。黒き衣の裾をひるがえして、弟子たちの師がやってきた。

 黒き衣のセイリエンは予言の導師。

 いにしえの歴史を読み解いて、大陸の未来を語る。

 見目うるわしい青年なれど、寺院を統べる七長老のひとりにして、金獅子州の後見を務める才人だ。

 寒風になびく金の髪は、獅子のたてがみのよう。切れ長の目は、自信と魔力に満ち満ちている。

「さあ、今日の講義を始めようか。みんなおいで」

 弟子たちはきっちり順序よく横並びになって、円堂にあぐらをかいた師の前に正座した。

 一番右は、十六歳のラデル。

 二番目は、十五歳のエルク。

 三番目は、十四歳のレイス。

 四番目は、十三歳のジェリ。

 そして五番目は、十一歳で、今年寺院に来た……

「サリス、スメルニアの年代記を」

「かしこまりました」

 金髪の子は、山積みの巻物の中からサッとひと巻とりあげて、師に手渡した。

「ありがとう。では本日も、大帝国の長い歴史を紐解こう。だがその前に」

 偉大な師はひとこと、韻律を唱えた。

 たちまちあたりに魔法の気配が降りてきて。なんと、円堂に入ってくる風がぴたりと止んだ。

 寒気が、円い柱の間から全然吹き込んでこなくなったのだ。

 偉大な韻律の技はそれだけではなかった。師が伸ばした手のひらから、まっかな光がうなりをあげて生まれたのだ。光はぱちぱちきらきら、燃える灯り玉になった。

「おおっ!? この空気、常夏並みじゃん!」

 まっかな灯り玉は、弟子たちを焼かんばかりに熱かった。

 ジェリは汗ばみ、豹の毛皮と尻尾を脱いだ。

「今朝は一段と冷えこみ、湖がうっすら凍ったが。君たちは決して凍えることはない」

 みんなあっというまに顔から汗がふきだしたので、めがねのエリクも金髪まぶしいサリスも、首に巻いていたえりまきを取った。

「炎の精霊と契約したんですね。すごいです」

「下級のものだよ。全然たいしたことはない。…………おや? ラデル、衣のたもとに何を入れている?」

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2018/12/17 22:01
氷の女王と何か因縁が?
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2018/11/17 19:35
ホッカイロでも入れていたかな?
アバター
2018/11/17 11:32
ラデルって ランジャディール?




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