自作10月 笛 『草笛』 中編
- カテゴリ:自作小説
- 2016/10/31 21:35:47
哀れな王子は大神官の掌中。
教育係である大神官は、王にはしっかり王子を教育していると報告しながら、王子を無知で役立たずで、おのれに従順であるように育てあげた。
その周到な計画がついに結実しようとしている。
塔にはさらに二人のスメルニア派貴族がやってきている。
国境をつなぐ橋が完成すれば、橋を渡って、スメルニア軍がこの国に入ってくる。
大神官が育てあげた傀儡の王子はその軍の旗頭となり、名目上は幾万もの兵士を率いることになる。
だが実際は、ずっとこの塔に幽閉され続ける。このまま一切なにも知らされることなく、ただただメニスによって廃人にされるのだ……。
ぴーっ
ぴーっ
塔の階段を下りる月栄は、窓から聴こえる草笛の音にいらついた。
王子の笛の音ではない。メニスの子がまた吹いている。
「嫌な音だわ……」
傀儡の王子の「一の女」にならねばならないのに、王子は別のものにすっかり心を奪われてしまった。
いまいましいことに大神官も黒猫卿も、さらに二人のスメルニア派貴族も、月栄よりメニスの子の方がより使える駒だとみなしている。
(みな、はじめはメニスを見て眉をひそめたくせに)
なのに一夜明けると、申し合わせたようにみな、銀髪の子にちやほやし始めた。
ひそかにこの塔に置き、王弟殿下のもとに侍らせることにしたのである。
月栄の主人、斉洲荘公の思惑通りにはさせぬ――そんな深謀遠慮もあるのだろう。
しかしなによりの理由は。
「ううっ。なんて臭いの……」
塔の一階に降り、草地に出ようとした月栄は、品よい香りを放つ裳の袖を鼻にあてた。
開け放たれた扉から、甘ったるい芳香が漂ってくる。
草地にいるメニスの子供の体臭だ。
「いまいましい……メニスの魅惑がこれほどだなんて。きっと殿下だけでなく大神官たちもみな、とらえられてしまったのだわ」
メニスの臭いは、甘露と呼ばれる。強力な魅了の作用を持ち、人の感覚を麻痺させる、非常におそろしいものだ。
しかし幸い月栄だけは、このむせかえる媚臭の中、顔をしかめるだけで済んでいる。
主人たる斉洲荘公から、メニスの甘露に耐える衣を与えられたからだ。
衣に焚きしめられた香は、代々メニスを飼いならしてきた主人の家で特別調合されたもの。実は月栄自身の体内からも、ほのかに匂いたっている。
『これで何人もそなたに魅惑されようし、あの化け物にまどわされることはない』
主人は手ずから、月栄の肢体にこの特殊な香をしみこませた。
水珠にしたものを幾月も毎日呑ませた上に、軟膏にしたものを白い肌にすりこみ、油にしたものを髪に浸した。玉のような肌や頭を撫でてくれた主人の御手の、なんと熱くて優しかったことか……。
(この体。あの御方が触れていないところなど、ない……)
それだけではなく。薫香の煙ゆらめく主人の褥部屋で、月栄は房中の技をも手取り足取り教え込まれた。
主人のそばにいつも侍る第一夫人こそが、なんとその指南役であった。
男を誘うための官能的な舞。茶や酒の酌の所作。媚薬や道具の使い方。そして肢体を駆使する愛の行為――。
『さあ、やってごらんなさい』
月栄は第一夫人が夫に対して為すことを見て学び、実際に主人に同じように奉仕した。
『はずかしがらずに、もっと声をお出しなさい。ご寵愛を受ける時は、必ず朝までお相手をお引き止めしないといけませぬ』
『は、はい……』
もしや側室候補にされたのでは。
そう思ってしまうほど、その「教育」は雅びで官能的であった。
だがその間、月栄の秘所はついに破られず。
任務を下されたその日、月栄はおのれが「男殺しの駒」として仕込まれたことを知った。
主人が自ら相手となって彼女に教えたのは他でもない。絶対の忠誠をもたせるがためだった。
しかしその時すでに月栄は、そんな事実を知らされても揺るがぬほど、海よりも深く主人を慕い崇めるようになっていた。
(父も分からぬ卑賤な生まれであったこの私が、主公さまに妻として望まれなかったのは当然。でも私は見込まれたのだ。ただ主公さまの御子を産むより、もっと高度なことができると。ああ、なのに……)
この身に叩き込まれた、男をよろこばせる手練手管。それをもってすれば、箱入りの王子などすぐ手玉にとれるはずだったのに。
月栄は焦った。
ここで正気をたもてているのは、月栄ひとり。
主人が調合したこの香がメニスに勝てないなど、そんなことはあってはならぬ。
なによりも、大事なあの御方に役立たずと思われたくない――。
「おーい、月栄」
塔の入り口でもんもんとする月栄の前に、絹シャツを着た王子が手をふりながら近づいてくる。屈託のない明るい笑顔で。
「厨房から菓子をもらってくるから、あのメニスの子を見ていてくれ」
「え? お菓子を、殿下が? とんでもございません。殿下が自らおやりになることではないですわ。召使いを呼んでやらせます」
「いや、私が手ずからあの子に持っていってやりたいんだ。あの子が喜ぶ顔がみたいんだよ」
「最高級の菓子を与えれば、それだけで喜びますわよ」
「いや、この私の手で、あの子になにかしてやりたいって思うんだ」
実のところなんにもできないのだけれどね、と王弟殿下は弱弱しく笑った。
「兄上にはお世継ぎがない。だから私を王位継承者としているはずなのに、なんにも教えてくださらない。たぶん他に王位を継ぐ人がだれかいるのかもな。幼い時から床に臥せがちだった私など、兄上にとってはただのお荷物だったのかもしれない」
そんなことはない、という慰めの言葉を、月栄は呑みこんだ。
兄弟にはこれからとことん、不仲になってもらわなくてはならないのだ。
「私はこれまでいつも、兄上に守られてきた。兄上は私を月に避難させたこともあったんだよ。あのときはびっくりしたが……あれも実は、遠ざける目的でそうしたのかもしれないな」
悲しげに語るエティアの継承者を、月栄は複雑な気持ちでみつめた。
(そう、この人はなにもできない。あの教育係の大神官にこんな風にされた、かわいそうな人。でも私なら、もっと賢くしてやれる。私はこの人を主公様に従順な下僕として教育しなければならないけれど。一日中草笛を吹かせるより、もっとましなことをさせるわ)
なんとかしなければならない。
一刻も早く、あのメニスは排除しなければならない――。
「アルデ~♪ お菓子たべたーい」
「はは、わかったわかった」
「なんてこと。殿下を呼び捨てにするなんて」
草地から手を振ってぶしつけにねだる子供を、月栄はぎんと睨んだ。
「よいのだ。いますぐ持ってくるよ、ヴィオ! 月栄とおとなしく待っておいで」
王子が姿を消すと、月栄は口を引き結び、ざくざくと草を踏んで銀髪の子に近づいた。
如実に甘ったるい芳香が濃くなっていくのがわかる。
空気がどろりとしているような感触を、肌で感じる――。
「えへ。げつえい。笛ふける? ねえ、ふいてぇ」
「メニス……けがらわしい化け物……」
「ねええ、げつえい~」
草笛を差し出してくる小さな手をとらずに。
月栄は腕を伸ばして、メニスの子の肩をつかんだ。
「ねえヴィオ。これから――」
うまく笑顔を浮かべられたかどうか、わからない。
月栄はわざと、甘い声で誘った。
「一緒にお空を飛びましょう」
王子は案外賢明…