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新撰組


新選組(しんせんぐみ)は、江戸時代末期(幕末)に、京都において反幕府勢力を取り締まる警察活動に従事したのち、旧幕府軍の一員として戊辰戦争を戦った武装組織である。

なお、「選」の字は「撰」とも表記されることが多く、実際「新撰組」と表記された史料も多くある。局長の近藤勇自身、表記には両方の字を用いている

入隊資格[編集]

年齢や身分(士農工商)による制限はなく、尽忠報国の志がある健康な者であれば入隊できた[3]。実技試験もなかった[4][5]。ただし既婚者は妻子を壬生の屯所から10里(約40km)以上離れた場所に住まわせることが条件とされた。これは、新選組が男の合宿制をとっていること、妻子が近くにいることによって命を惜しむようになることを防ぐためと考えられる。幹部に昇進すれば京都に家を持ち、妻子や妾を迎えることが許された。

新選組と交流のあった加太邦憲の述懐によれば、入隊後一定期間は「仮同志」という試用期間となっており、先輩隊士が夜に押し込むなどして度胸が試され、この時に臆病なふるまいをした者は追放されたという[6]

任務[編集]

京都で活動している不逞浪士や倒幕志士の捜索・捕縛、担当地域の巡察・警備など、警察活動を任務としていた。

後述する数々のフィクション作品の影響により、浪士を斬りまくった「人斬り集団」とのイメージが強いが、実際には捕縛(生け捕り)を原則としており、犯人が抵抗して捕縛できない場合のみ斬った[7]。激闘で有名な池田屋事件においても、最初は敵の人数が上回ったため斬る方針で戦ったが、土方隊が到着して新選組が有利になると、方針を捕縛に変えている[8][9]。事件後、近藤勇は「討取七人、疵為負候者四人、召捕二十三人」(7人を殺し、4人に手傷を負わせ、23人を捕縛した)と報告している[10]

新選組の担当地域は歓楽街祇園伏見[11]であり、御所官庁街会津藩兵1000名、その周りは京都見廻組500名が固めていた。従来からの京都所司代京都町奉行も治安維持にあたっていた。他の組織が管轄を順守していたのに対し、新選組は浪士の逃亡などを理由に管轄破りをすることも少なくなかったといわれる。

 

今でいえば、京都府警特別警備隊のような存在ともいえる

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