甲州武士と会津武士のつながり
- カテゴリ:日記
- 2015/08/23 12:11:40
甲州武士と会津武士のつながりとは、会津松平家初代の保科 正之(ほしな まさゆき)が、武田信玄の次女である見性院(穴山信君の未亡人)に預け、そこで生まれた幸松は見性院に養育された事に始まり、そして、元和3年(1617年)、見性院の縁で旧武田氏家臣の信濃高遠藩主保科正光が預かり、正光の子として養育される。
また、この、保科 正之の遺訓には、『会津家訓十五箇条』にある第一条に「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と記してあり、以降、藩主・藩士は共にこれを忠実に守った。幕末の藩主・松平容保はこの遺訓を守り、佐幕派の中心的存在として最後まで薩長軍と戦った。
そのもとには甲州武士の信念も混ざっていたのかもしれない